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思う存分笑うがいい
それは漆黒の羽根を持つ、青く華奢なボディがとても美しい蜻蛉だった。「トンボ」でもなく「とんぼ」でもない。鉛筆でも長渕でもない。なんというか「蜻蛉」だった。勤め先の自動ドアが開いた瞬間に入って来て、エントランスに続くドアにぶつかり事務所の入口のドアにぶつかり食堂のドアにぶつかり、とにかくありとあらゆるドアにぶつかっていた。わたしは走っていって自動ドアを全開にしたが、蜻蛉はまったく興味を示さず、閉まっている手動ドアと見るやいなや突進、自分を痛めつけることを一向にやめなかった。突然落ちるようにして低空を飛ぶ。なんなら捕まえることもできそうだが、ひとの手が触れたら飛べなくなってしまうような気がする。ものすごく繊細に見えた。コドモだった頃は赤トンボとかあははあはは笑って捕まえていたのにね。
「わたし箒持ってくるさ!」と上司が言った。箒で掃き出すってことですか?羽根がもげたらどうしてくれると思ったがいかんせん上には逆らえない。非正規雇用のわたしはあまりにも無力だった。蜻蛉は上司が振りまわす箒をかわしてばーかばーかばーかと言わんばかりに逃げまわった。開けっぱなしになっている自動ドアから出ていけばいいだけなのに、ばかはどっちだ。蜻蛉はわたしの肩に止まろうとしたりもした。なのにわたしがギャッとか声もあげず平然としているので、「え、平気なんだ虫……」と上司が引いていた。このひとはわたしが駐車場でタヒにかけのアブラゼミを拾っていることを知ったら、いったいどうなってしまうのだろう。
どうにかこうにか蜻蛉を空へと逃がして、ふううやれやれとわたしは事務所に戻った。しかし性懲りもなく蜻蛉はまた入って来たのである。何故なんだ。ここは君のように自由に飛べる蜻蛉がいていい場所じゃない。決して飛べない社畜の居場所だ。ああ、そうかわかったぞ。さては社畜たちを笑いに来たんだな。ハッ!とんだ悪趣味な蜻蛉だよ。笑いたければ思う存分笑うがいいさ!言うてる場合か。わたしはまた蜻蛉を追い立てに走っていったのだった。