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―夏のフクシマを訪れて―  ようやく見つけた飯舘村の比曽小学校 報道されない現状を見て感じたこととは

 2019年8月18日、私は夏のフクシマを写真に収めるために大熊町と飯舘村を訪れた。今回の訪問は当初計画を立てていなかった。前回は桜が咲く春に訪れているため、夏の風景も見てみたいと思っていた。しかしなかなかそのきっかけがつかめずあっという間に時間だけが過ぎ、少しずつ夏の終わりが近づいていた。そのため今年の夏はフクシマには行かないかもしれない。そう考えていたある日、流れてくるニュースの中で心がわくわくするような情報を見つけた。


2019年8月14日 産経新聞
避難指示解除から初めての夏
ヒマワリ満開
福島県大熊町

ーーー記事より引用ーーー

 東京電力福島第一原発事故に伴う避難指示が今年4月に一部解除になり、初めての夏を迎えた福島県大熊町で真夏の日差しを受けたヒマワリが満開になった。
 震災以降、ヒマワリを通じて沖縄県との交流が続いてきた同町では、有志による「大熊町ひまわりプロジェクト」が発足。ヒマワリ畑の整備を通じて農地の保全の推進などを行っている。

ーーー引用終わりーーー

 このように2019年4月10日に震災から初めて大熊町の一部地域が避難指示解除となった。そこでひまわり畑が整備され満開の花が咲いていることを私はインターネットの情報から知り実際に訪れた。

2019年4月10日 河北新聞
<全町避難>大熊町が初の避難解除
2地区対象 町面積の38パーセント


 大熊町のひまわり畑は4ヶ所に分かれていた。私はそこで真夏の太陽のもとそれぞれの場所で咲いているその花を飽きることなく眺めながら写真を撮り続けていた。その中で一輪のひまわりがこれから花を咲かせようとしていた。

↓下記3点 2019年8月18日 筆者本人撮影

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多くのひまわりが花を咲かせるなか、このひまわりはこれからまさに花を開こうとしていた。その様子を見つけて私はなんだか嬉しくなった。なぜなら、このひまわりはまわりと同じ時期に花を咲かせるのではなく、植物自身の成長に合わせて花を咲かせようとしていたからだ。私はその様子をしばらくのあいだ眺めたあと、次の目的地へ向かった。


 その場所は飯舘村にある「比曽小学校」。そして現在の地図にこの場所は載っていない。しかし私はどうしても自分の目で見たいと思っていた。なぜなら、福島第一原発事故発生当初から現地の取材を続けているジャーナリスト・フォトグラファーの烏賀陽弘道氏がnoteでこの場所に関する記事を書いていたからだ。

フクシマからの報告
2019年春 原発事故から8年
カエルの産卵地も除染で破壊
消えゆく事故前の山村風景
烏賀陽弘道/Hiro Ugaya
2019/05/10


 この記事には満開のサクラに誘われて偶然見つけたカエルの産卵地がその後どうなっていったのか。その変化の様子が書かれている。私はこの場所をいつか見たいと思いながら後回しにしていた。その結果、現地が破壊されていたことを知りとてもショックを受けた。

 そのようなことからフクシマを再び訪れたらまずは現地に行ってみようと考えていた。しかし前述したようにこの比曽小学校は現在の地図には載っていない。ではどのようにしてこの場所を探し出したらいいのだろう。もちろん一番早い方法は現地を取材している烏賀陽さんへ尋ねることだ。しかし私はそこで迷いを感じた。フクシマを訪れることを伝えたら現地の場所は教えてもらえるかもしれない。でもこの場所に子どもたちがかつて使っていたプールがあり、そこがカエルの産卵場所になっていたことは、ジャーナリストの烏賀陽さんが震災発生当初から8年間、現地の取材を続けているからこそ見つけた場所である。それをたった数回フクシマを訪れたからといって私が安易に尋ねていいものなのか。

 私はそんなことを考えているうちにあることに気が付いた。烏賀陽さんが伝え続けているnote過去の記事を見返せばその場所に関する文章や写真が紹介されている。そして比曽小学校は現在の地図には載っていないけれど、きっと比曽地区にはあるはずだ。だからその地域をめぐってみればきっと見つかるはず。
 今年の冬に訪れたときその場所を知った飯樋小学校も地図には載っていないけれど、飯樋地区に存在していた。それならnoteに掲載されている写真や文章を辿れば、それは現地を探し出すためのヒントになるかもしれない。そして私はそれらをもとに自分自身で探し出してみたい。そのように考え私はあえて誰にも伝えずに現地を探すことにした。その後、比曽地域を車でめぐっていると見覚えのある石造りの門柱を見つけ、おそるおそる近づいてみた。

↓下記3点 2019年8月18日 筆者本人撮影 比曽小学校があったことを示す2本の石造り門柱

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↓左側に見える赤い鉄塔 こちらも現地を訪れるための目印にしていた

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↓敷地の入り口にて

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 敷地の奥に公民館らしきものがある。しかし、ここが探していた場所なのかよくわからない。そう思い携帯電話からインターネットへ繋ぎ、目の前に広がる光景とnoteの写真を照らしあわせようとした。しかし私はここで予想外の出来事に見舞われた。福島の中心地からレンタカーで大熊町に入ったあと、持参したカメラで夢中になって写真を撮っていたため、持っていた携帯電話を一切気にしていなかった。通行する道によっては放射線量が急激に高まる場所があり、その様子に気を取られて運転中は携帯電話を確認することがなかった。そしてこの比曽小学校の跡地に来てようやく携帯電話を見るとなんと電波がつながらない。

  限られた時間を有効に使うために携帯電話を見るのではなく、目の前の風景を少しでも多く写真に収めたい。そう思ったから現地に到着後、気持ちを落ち着かせたあとに目の前の光景とnoteの記事を照らし合わせようと考えていた。しかし携帯電話の電波が受信できず、noteに掲載されていた写真を確認することが出来ない。
 さらにカエルの産卵場所を聞かずに訪れているため、目の前に広がるこの場所が探していた場所で合っているのかさえわからない。せめて、スクリーンショットを使って写真だけでも残しておけばよかった…せっかく現地まできたのに私は一体何をやっているのだろうと、泣きたくなるほどの後悔の思いでいっぱいになっていた。
 そのような状態でも「比曽小学校」と書かれている石造りの門柱は立っている。だからきっとここで間違いないはずだ。そう自分を奮い立たせながら敷地内に歩みを進めた。そして、まずは目の前の光景を写真に収めるために様々な角度からシャッターを押し続けていた。

↓下記5点 2019年8月18日 筆者本人撮影

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↓プールの跡地

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↓敷地内にはモニタリングポストが設置されている

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↓体育館の跡地


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後悔の思いを抱きながらその後、飯舘村を車でめぐり写真を撮っていると、ふとあることに気が付いた。

↓今回訪れた比曽小学校の跡地

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↓前回偶然見つけた夜の菜の花

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↓冬に訪れた氷の芸術

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これら現地の様子を今も伝えている人はとても少ない。だからその情報には希少価値が生まれるのではないか。当たり前のことかもしれないけれど、今回フクシマを訪れたことで多数の人が気付かないところに価値ある情報は眠っている、ということにようやく納得できたように思う。そしてその部分にこそ目を向けるべきなのだろう。

震災から8年が経ち、復興が進んでいるかのように示す情報には以下のようなものがある。

2019年5月7日 日本経済新聞
福島県大熊町、新庁舎で業務開始 
避難指示解除受け

 この記事には、大熊町役場の新庁舎が今年の4月に開庁し、役場としての業務を2019年5月から開始したことが書かれている。
 しかし、これは一部の地域について伝えている情報である。今も除染されずに放射線量が高いままで足を踏み入れることができない場所はまだまだ数多く残されている。だから本当はそちらに目を向けるべきなのでないだろうか。そしてそのような場所を伝える人が少ないのであれば、その情報にはきっと希少価値が生まれるはずである。


ーーー夏のフクシマを訪れてーーー

 震災から8年が経過し、被災した当時の様子がそのまま残っている場所は少しずつ減ってきています。そして比曽小学校の跡地のようにそこにあったはずのものがある日突然消えてしまうことがあります。その光景をいざ目の当たりにすると、私は一体何が伝えられるのだろう。すでに取材されているところを追いかけても、それはまるでお茶を飲み切ったあとの茶殻のようなことしか出来ていないのに。そんなふうに思うことがあります。


そんなことをするなら
もっと家族のために時間を使ったり
ショッピングをして
楽しむほうがいいのかなと
考えることもあります


しかし飯舘村を訪れると
大量のフレコンバックは
今も積み上げられたままになっています。

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そしてふと視線を変えると現在の放射線量を測定するモニタリングポストが置かれていて
この場所の現実を突きつけるかのように高い数値を示しています。これは震災から8年後の今も続いている現状です。


ー2019年9月17日記ー

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