家族って何?〜hsp中学生3〜 vol.24
中学3年生
3年生になっても担任は変わらなかった。
3年生となると、人生を決める段階に入り。
成績に対していつもシビアに考えなくてはならなくなり。
最後の思い出を作ることに必死になり、そして勝ちにこだわる。
3年生ということで委員会や部活の代表になるようになる。
そして、この3年生激動の1年になった。
私は3年生になると共に、先生には気づかれないように行われるレベルであるいじめ。
理由もわかず不登校になったクラスメイト。
私はクラスの上っ面だけの関係性に嫌気が差してクラスで人と深く関わることを遮断し始め、1人で行動することが多くなった。
これは、1人でいたいからではない。
かっこいいと思ったからではない。
自分が傷つかないように生きる為に、人と距離を置く。
学校という社会に対する反抗心の表れの行動だったと思う。
波乱の1年を紹介します。
1、香水、香料事件
ある日の夏。
部活の終わり間際トイレに行った部活仲間が、
「ねえ、トイレめっちゃ臭いんだけど。香水臭い」
「絶対これ同じクラスの(テニス部の)00ちゃん達だよ」
人を疑うのも良くないが、そのグループが部活終わりにトイレに行って出ていく姿は私たちを始めとする同じ部活の生徒は見ていた。
私の学校では制汗剤の匂いは無香料か石鹸の匂いしか許されていませんでした。
それなのに、匂う香水の匂い。
制汗剤と言い訳のできないレベルであった。
正義感の強かった私たちは私のクラスの担任であり、テニス部の顧問である先生に言った。
しかし、その言葉は信じてもらえなかった。
なぜなら、その生徒達は先生のお気に入りでクラスでも中心私的な存在。そして学級委員長。
先生にとってはそんなことをする生徒ではない。
そんなことを言っているクラスで目立たない私と他のクラスの生徒の言葉なんて信じてもらえるはずがなかったのだ。
お陰でその生徒達はお咎めなく、その事件も無かったかのように消え去られたのだ。
2.成績と進学について
私の学年というか学校は普通の市立の公立中学校だったが昔荒れてたこともあってか勉強にものすごく力を入れていた。
特にうちの学年は全体的に学力が高かった。
だからクラスごとに漢字テストや定期テストでクラスの順位をつけることが当たり前のように行われていた。
これを、きれいな言葉で言うと切磋琢だ、でも、そこに先生の評価や先生の願望野心が加わったら違う意味になる。
まさに、その恐れていた違う意味になってしまい私たちは自分のためではなく、足を引っ張らないための勉強をこなしていた。
私は勉強は好きだったが自分の結果がうまくいかず、そしてタスクのようにこなす勉強に嫌気が差しながら勉強していた。
先生から見れば劣等生。
成績表にも「勉強を自分の為にすると言う意味がわかればいいんですけど」と。。。
その言葉になぜか、違和感しかなかった。
そんな違和感を感じながら勉強していた為、成績はうまくいかなかった。
なので、高校進学のための進路決定の際、先生と意見が合わなかった。
私は、地元の公立高校を目指していた。
そして併願校として同じくらいのレベルの私立を選んだ。
だが、担任は
「あなたの成績ではいけない」
「薦めない」
「他の学校を選びなさい。」
「公立に落ちたらあなたはどこも行くところがなくなる」
頑張ると言ったがどうせ落ちるのにお金の無駄遣いになると言われ諦めさせられた。
親はその言葉を聞いて激おこ。
先生と言う仕事について置いてそんな言葉が出てくるのか?
なぜ、子供のやる気をなくすような言葉が言えるのか、子供の意思を尊重せず頭ごなしに否定するのか
でも、親はそれを先生本人に言ったことはない。
先生との交渉の末
公立高校は私が行きたいと言った地元の公立高校に
併願の私立は地元から離れた少しレベルを落とした高校にした。
3.花事件
はじめに、この事件は大変不快な思いをする方もいると思います。私も未だに本当に許せない事件です。
なので、見たくないと思った方はスルーしてください。
ある日寒い冬の朝学校に行ったら、花瓶に一輪の白い花が飾られ棚に置いてあった。
それを、ある男子生徒が悪ふざけでまだ登校していない男子生徒の机に置いた。
そして、その生徒は「なんだよこれ〜」と笑いながら他の生徒と笑い合っていた。
その、置く意味を知っておきながら。
そして誰も注意せずに、朝の読書タイムが始まった。
そして、そのまま男子生徒の机に置かれ始まった朝の読書タイム。
5分過ぎた頃担任が入ってきた。(その日は会議が退いて来るのが遅かった)
そして、先生は全体を見渡し、、、、、、
突然バンッという音が教室中に響き渡った。
健康観察板を机に叩きつけた音だった。
その瞬間、教室は違う意味での静けさを纏った。
そして、先生から
「誰だよこんなことしたの?!この意味わかってるの?!なんで誰も注意しないの。なんで誰も気にしないの」
先生の言っていることが久々にまともだと思った。
その響き渡る怒りの声は廊下中に響き渡り、他のクラスの先生が慌てて出てきて、担任の怒りを落ち着かせようと頑張ったほどだ。
そして、私たちのクラスは1時間目の授業が潰れ、副担任とクラスで話合いが行われた。
誰がこのようなことを行ったのか、これからこのようなことが起きた場合どのような対応をするのかクラスでまとめ級長がノートにまとめ先生に反省文として提出した。
この事件に関して私自身も悪かった。
「やめなよ」と一言言えばよかったものの黙認していたからだ。
それ以降、そのような一件含み隠れて行われていたいじめも無くなっていった。
中学生で判断のつく年頃が行う言動ではないし、許されるものではない。
そんな、事件ばかりの学校生活だったため、私は心底学校が嫌いで。
学校の友達も好きになれず、今でも交流を持っている人はいない。
4.部活の先生と揉めた話。
私は2年生の時に家庭科部の部長になった。
責任のある仕事につくことは好きだったのでなれたことにとても光栄に思えた。
20人近くの部員をまとめいろんな作品を作ったりすることが楽しく感じていた。
引退が近づく頃毎年大きなコンクールに向けて作品を作っていた。
デザインから制作まで3年生が主体となって行われるものだった。
締切も近づく完成の目処も立たない、でも活動時間は限られている。
そんな状況に痺れを切らした先生がついにブチギレた。
「完成できないのは全て3年生のせいだから」
「なんで、もっとちゃんとまとめられないの?!」
「もう、部活来なくていいから」「今日はもう帰れ」
「作品もコンクールあなたたちの年だけ出さないから」
と言われた。
私はみんな頑張ってるの知ってるし、それぞれ習い事などあるなか時間を作って他のにと怒りが湧き上げてきた。
そして先生から出た「帰れ」
私自身も頭に血が上り「帰れと言われたから帰るわ」と仲間に告げて帰ろうとした。
だが、先生を恐れている仲間は「反省文書いて渡そう」
となだめられた。
その言葉に私は納得できなかった。
が、その場を宥めるだけの上っ面の文面だけ書いた。
本当になんで先生のご機嫌取りばかりをしないといけないのだろうと本当に思ったし、怒った。
そんな中学生活は反抗期と共にHSP要素が垣間見れた学校生活であった。