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石黒好美の「3冊で読む名古屋」⑨ 今こそ、神さえも笑うマンザイを
ライター/社会福祉士の筆者が、名古屋にまつわる本をキーブックに、関連する2冊の本とあわせて読みながら世のありようを問います。
石黒好美(いしぐろ・よしみ) ライター/社会福祉士。1979年、岐阜県生まれ。岐阜大学地域科学部卒。印刷会社、IT関連会社勤務の後、障害者・生活困窮者の相談支援などに携わる。日本福祉大学福祉経営学部(通信教育部)を経て社会福祉士に。現在は主にNPO、CSR、福祉、医療などの分野で執筆。
(※ 本記事は2024年1月21日のニュースレター配信記事のnote版です)
【今回の3冊】
・『尾張万歳たずねたずねて(前編、中編、後編)』(岡田弘、名古屋市教育委員会文化財叢書)
・『笑いを科学する ユーモア・サイエンスへの招待』(木村洋二、新曜社)
・『すべてはタモリ、たけし、さんまから始まった』(太田省一、ちくま新書)
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3000人のマンザイ師
知多半島には3000人ものお笑い芸人がいたという。
大人はもちろん、時には子どもまでもが芸人となり、鉄道会社が特別に仕立てた「万歳列車」で知多から全国に巡業に行く――。「尾張万歳」と呼ばれるこの芸能は、大正時代から戦後にかけて空前の活況を呈した。
尾張万歳は鎌倉時代に名古屋市東区の長母寺の住職となった無住国師が、仏教伝来の歴史を平易な言葉にして伝えたものが発祥とされている。陰陽師がこれに節をつけ、太夫と才蔵というコンビが鼓に合わせて歌い踊りながら家々を回る「門付芸」として受け継がれてきた。
玄関先にいきなり見知らぬ二人組がやってきて、滑稽な歌や踊りをはじめるのを見てご祝儀を渡す、などということがあるのかと思ってしまう。けれど、日本には「めでたいことを言い続けるとその通りになる」という言霊信仰に基づく「言祝ぎ(ことほぎ)」芸や、神様は遠方からやってくるという「マレビト(異人・稀人・客人)信仰」がある。これらと結びついて、門付万歳は訪れる年神を迎え新年を祝うおめでたい行事として民衆に受け入れられてきた。折口信夫は太夫をマレビト神の転生した姿として見ており、才蔵との掛け合いは「天から来た神と土地にいる神」になぞらえていたという。
もとより日本の信仰は「笑い」と切っても切れない関係にあった。アマノウズメは裸踊りで神々を笑わせて天岩戸を開き、仏教からは落語が生まれた。熱田神宮には「オホホ祭(酔笑人神事)」なる、神官がオホオホ、ワッハッハと大笑いすること自体を奉納する奇祭まである。「笑う門には福来たる」という通り、日本人は笑いの中に聖性を見てきたのだ。
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農村の暮らしを支えた尾張万歳
知多に万歳が伝わったのは、現在の東海市・知多市の一部が長母寺の寺領であったことによるが、万歳列車が出るほどの隆盛となったのは、知多に大きな河川がなく、農民が慢性的な水不足に苦しめられていたためでもあった。門付万歳は貧しい農民の出稼ぎ仕事でもあったのだ。
「一か月門付に出れば、二か月分の生活費になった」と言われ、かなり実入りが良かったようで、高収入を求めて門付万歳をする人が増えたためだ。娯楽のなかった当時、門付万歳は各地で喜ばれ、また出稼ぎの農民たちにとっても楽しみの一つであったという。
戦後になると愛知用水が整備されたこと、知多半島北部が製鉄などを始めとする臨海工業地帯となり地元に働き口が増えたことから、門付に出る人は急激に少なくなっていった。
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門付万歳が斜陽になった理由にはもう一つ、芸の質の低下もあったようだ。万歳は愉快な芸でありつつも、神棚や仏壇に奉納するため厳格な作法に基づいて行われるものでもあった。しかし、不作や凶作をきっかけに急ごしらえで門付に出た人の中には、歌や踊りがうろ覚えであったり、安易に笑いを取ろうと下ネタばかりに走る者もいたという。「万歳さんが来た」と人々に歓迎された門付芸は、次第に低俗野卑な「色もの万歳」とも呼ばれるようになってしまった。
現在の「しゃべくり漫才」の祖といわれる昭和の漫才師「エンタツ・アチャコ」は、万歳のネタを祝言から日常会話や始まったばかりの野球の実況中継のパロディに変え、太夫と才蔵の掛け合いは「ツッコミとボケ」にした。横山エンタツは「インテリ万歳」という看板を掲げて公演していた。笑いの本来を取り戻し、新しい芸術に高めていこうという気概を持っていたのだ。
万歳から漫才へ、劇場からテレビへ
万歳から漫才へと移り変わるにつれ、笑いの舞台は門付から演芸場へ、そしてテレビになった。
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