理系と文系って分ける必要ある?
2021年2月5日にテレビ朝日系列で放送されている「タモリ倶楽部」という番組で「祝 高校地理必修化!」が放送された。
地理必修化は高校で地理選択をしていた私からすればとても嬉しいことであるが、残念ながら地理以外では必修化されていない教科がたくさんある。
高校になると途端に選択科目が増え、さらには履修したくてもできない場合もある。はたしてそれは高校の教育として適切なことなのか。私なりの意見を述べていきたい。
私の通っていた高校は副教科の「芸術」が音楽・美術・書写の3つの中から選択(実質必修)でそれ以外は高1・高2でほぼすべての教科を一通り行う。この中には理科の基礎あり4科目や情報、家庭も含まれている。つまり、高校の教科としてある物はほとんど開講されているのである。
更には、高校でよくある「クラス文理分け」もなかった。(高3になれば、選択科目で文理科目をそれぞれ選択できるが、自分の志望校の文理に関わらず科目選択ができた。つまり、文系が理科や数3を選択しても良かったし、理系であっても国語や歴史系も取れる。ただし高3でもクラスを文理でわけることはなかった。)
高校入学時の説明会の内容を思い出すと母校では「教養主義」のもとに教育課程が組まれていた。
当時は受験に必要ない教科や興味のない教科を履修させられるのは面倒くさいと思っていたが、高校を卒業し、さらには大学も卒業したいまだからこそわかる、文理分けの意味のなさを痛感した。
文理分けは必要ない
確かに今の受験システムでは文理分けが効率の良いシステムであるのは確かである。理系の学部を目指すなら、数学や理科を重点的にしたカリキュラムを履修すれば、入試で良い点が取れるかもしれない。文系の学部であれば、国語、英語、地歴を重点的にしたカリキュラムであればいいのかもしれない。しかし、ではそれを公教育でする必要があるのか?
○ 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育や専門教育を施すことを目的としている(学校教育法第50条)。また、その目標は、
・義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと
・社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること
・個性の確立に努めるとともに、社会について広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと
とされている(学校教育法第51条)。
これは学校教育法第50条と第51条であるが、ここでは高校は高度な普通教育を施し、一般的な教養を高めるとある。
今の高等教育は果たしてこれに則った教育をしているのだろうか?
さらに、文部科学省のHP「高等学校教育の現状」には以下のようにも書かれている。
○ 今日の高等学校は、それぞれの学校ごとに入学者選抜が実施されているものの、全体としては中学校卒業後の生徒の約98%が進学しており、その結果、生徒の興味・関心、能力・適性、進路等は極めて多様となっている。
○ 例えば、学力面については、極めて高い能力を有している者がいる反面、小学校及び中学校での学習内容を十分に修得していない生徒も少なからず見られる状態となっている。
○ また、高等学校を中途退学する生徒は少しずつ減少してきてはいるものの、依然として5万人を超えている。
○ こうした状況の中で、特に普通科の高等学校は、大多数の保護者や生徒の進路希望が大学進学であるため、大学入試に大きな影響を受け、その準備のための教育に偏りがちとなり、学校教育法に規定する高等学校教育の目標の達成等を軽んじる嫌いがあるとの指摘がある。
○ 他方、職業学科の高等学校は、将来の職業に対する目的意識を持たせる教育を通じて、主体性や自立心が育まれ、卒業者に対する産業界からの評価が比較的高くなっているとの声がある。
特に4つ目の項目を見てほしいが、文部科学省も「大学入試に大きな影響を受け、その準備のための教育に偏りがちとなり〜」と現状を危惧している。
このnoteで発信したいと言っている、地学もまさにこの入試の準備のための教育により、開講されないもののひとつである。
高校教育はぜひとも入試にとらわれない教育課程を設定していただきたいところである。むしろ文理分けをすることが学生の進路や思考力を妨げているのではないか?広い目で物事を見るには関係のなさそうなことも時には必要である。
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