仏教学・宗学研究とは
ふと宗学研究とはなんぞやと考えた。
よく信仰の学とかなんとか言われるけど、一応学問。
けれども我々仏教徒の研究って、
基本的にはもうこれ以上新しいことなんか出てこないわけです。
何故かって、もう資料やらなんやらはほぼ出切っているし、
仮にまだ未発見の資料があるとすれば、
それは考古学とか書誌学?の範囲になるから。
つまり我々は限られた材料の中から「研究」と呼称される行為をしているわけです。
そんな我々が、具体的に何をしているかというと、
釈迦や祖師の言葉や行動、思想、これらを、
分解し、再翻訳し、再構築し、再解釈し、再発見することです。
それも基本的にそれぞれの宗派の立場から逸脱しない形で、です。
じゃあ根本的なところは何も新しくなくね?と思います。
例えが正しいかはわかりませんが、
たぶん板チョコを溶かしてまた固める、バレンタインデー特有のあれです。
あれと似てます。しらんけど。
釈迦の言葉、祖師の言葉をちゃんと受け止めていれば、
そんなややこしいことしなくて良いんです。
でもなんでか学問としてあるわけです。不思議ですね。
まあそういうところが信仰の学なんでしょうけども。
(というか仏がいないので、問題は自分で解決しなきゃいけないのがそもそもの原因。末法つらいね)
そんな中で、究極的に研究ってどうすればいいんですかね。
私が思うに、クソガキがよく言う「なんでなんで戦法」です。
回答に対して、さらに「なんで?」と問い、自ら回答していくのを繰り返すやり方です。
というか新しいことなんか出てこないとは言いましたけど、実はわからないことだらけです。
なんで法然は天台宗じゃダメだったのか。
他の宗派じゃダメだったのか。
なんで善導が良かったのか。
なんで念仏が良かったのか。
そもそもなんで浄土教が良かったのか。
なんでそうじゃなければならなかったのか。
わかってそうで、わからんこといーっぱいよ。