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「君たちはどう生きるか」をどう見るか

※映画「君たちはどう生きるか」のネタバレがあります。

〇「君たちはどう生きるか」のわかりにくさ

 映画を見て意味が分からないという感想を持つことがある。
 映画「君たちはどう生きるか」でも少なくない人がそれを感じたようで、ネット上の評価は大きく割れている。
 ではそもそも映画のわかりやすさとは何なのか。

 わかるための説明で一番手っ取り早いのはセリフだ。
「あれは何?」
「あれは〇〇を××するためのものさ。」
 みたいに説明しちゃう。アオサギや塔のことはセリフで説明されていた。

 次に音楽の説明。重要なものが映った時に効果音を入れたり、音楽によって喜怒哀楽、危険や不安を表現できる。

 そして映像での説明。人物の表情、風景の描写で説明をする。この映像での説明が多すぎると、内容が伝わりにくくなる。悲しいときに雨が降ったり、寂しいときに北風が吹いたりするような情景描写も含まれる。そういえば、ラピュタのオープニングも壮大な映像による描写で、めちゃくちゃかっこいい。
 特に「君たちはどう生きるか」では、言葉による説明のないところが多かった気もする。見る人が見逃したり、理解しないまま流れていくと置いてけぼりになるのかも。

 最後に、メタファー(比喩)表現。直接的、間接的に何かを象徴するものとして描く。その背後にあるものや、背景知識がないと意味が分からない。あれ、どういう意味?となりやすく、明確な正解は作者しか知らないみたいなことも。

 つまり、セリフ>音楽>映像>メタファーの順でわかりやすい(自分的には)。
わかりにくいものほど、抽象的でどうとでも受け取れるので、解釈の余地が広がり作品に深みが出てくる。逆に全部セリフでペラペラ説明されると、わかりやすくはあるが多用すると浅い感じがしてくる(個人の感想です)。
 だから、説明がはっきりされていないところは、割と解釈の余地があるので、今回の映画を自分はどう受け取ったのかを書いていくこととする。

〇現実とファンタジーの行ったり来たり問題

 これは現実なの?ファンタジーなの?どういうことなの?となりがちで、置いてけぼりにされる。不思議の国のアリスをはじめて読んだときは、置いてけぼりになって混乱した。夢オチの代表作だ。
 夏目漱石の『夢十夜』みたいに全部が夢でないかぎり、眠っている描写の前後は夢=ファンタジーとなる。
 例えば、主人公の眞人が木刀でアオサギと戦うシーン。階段に座り、母の声を聞くシーン。主人公がハッと目覚めるので夢だと分かりやすい。夢が現実に影響を及ぼすことで、不思議さに現実感が増す。持っていたはずの羽がなくなってたり、逆に夢の中の出来事のはずの木刀がくだけたり。

 では、夢以外のパターンの場合、どう二つの世界をつなげるか。
 現実とファンタジーの世界を行き来するときに、それを象徴する通路が出てくる。
 例えば、「となりのトトロ」でメイがトトロと出会うときに、木のトンネルをくぐっていき、穴に落ちる。「千と千尋の神隠し」でも、駅のような不思議な建物を通って不思議な世界へ足を踏み入れていく。二つの世界をつなぐ通路が出てくることが多い。
 今作でも庭の木のトンネルや、トンネル状の塔の入り口が怪しげな灯りをともなって、その役割を果たしていた。

 川や海が、現実と別の世界を隔てていることもある。
 川で有名なのは三途の川、その場合は船に乗っていくことになる。海で有名なのはニライカナイ。ニライカナイは、沖縄方面に伝わる海の向こうや海底にある世界、豊穣や生命の源であり、神の世界のことだ。
 これらは、単なる夢やファンタジーではなく、生の世界と死の世界の要素を含んでいる。あの世とこの世。あるいは神々や魔法のような人知を超えた世界だ。
 そして一つの話の型として、生者が死者に会いに行くという型がある。
 たとえば日本の神話で、男神・イザナギと一緒に国造りをしていた女神・イザナミがカグツチを産んだことで亡くなったがある。(そういえば、カグツチは火の神だ。イザナギが行った死後の世界である根の国は、ニライカナイと関連もあるようだ。)
今作でも、主人公の眞人が死んだ母を探すという形で、死者に会いに行こうとする場面が出てくる。

 そして眞人は、庭にある木のトンネルをくぐり、不思議な塔のトンネルを通り、異世界へ向かう。
 異世界に降り立ってすぐに門を見つける。この門(「我ヲ學ブ者ハ死ス」と書かれている)も死と生を隔てるメタファーに思える。その先にある墓は「死」の象徴であり、古墳の石室の入り口のようでもある。石で組んだ社のような形をしていて、神聖な感じと死の恐ろしさの両方を見るものに感じさせる。
 門を開け、死の世界に足を踏み入れてしまった眞人を、キリコという女性が救う。そのときに言う「振り返ってはいけない」というセリフは、先のイザナギの話にも出てくるし、類似した話がギリシャ神話のオルペウスの冥府下りにも出てくる。もちろん、ここで振り返ってしまうとよくない結果につながるのだが、イザナギもオルペウスも振り返ってしまう。眞人は振り返らなかったので、危険を回避できたことになる。振り返ってたらどうなっていたんだろうね。

〇ナツコはなぜ失踪したのか問題、ヒミのモデルは卑弥呼?

母の妹であり、眞人の新しい母となる妊婦の「ナツコ」も失踪する。母が死んだ次の年に妊娠してるナツコに違和感を感じるし、父ショウイチへのドン引きの気持ちが高まる(当時はセーフだったのか)。

 ナツコを象徴としての母なのだと割り切って、物語の構造に落とし込んで考えてみよう。
眞人は死んだ実母「ヒサコ」を追って、下の世界(死の世界)に来たのだが、若かりしヒサコであるヒミが相棒として登場してしまう。そのため、若いころの姿とはいえ母に会う目的が達成されてしまう。そのため、物語の都合上、新たな母「ナツコ」を探し求める存在として登場させる必要があった。

 ちなみに、ヒミ(=ヒサコ)のモデルは、卑弥呼なんじゃないかと思う。邪馬台国の女王である卑弥呼は鬼道を用いたといわれているが、その鬼道は死者や霊魂との親和性がある。また、ヒミコという名前から連想される火の巫女も、ヒミのイメージとピッタリである。
 老婆と少女と母はジブリ作品によく出てくる。そしてどのキャラも濃い。ドーラ、湯婆婆、荒地の魔女、千尋、ナウシカ、サン、シータ、月島雫などなど、枚挙にいとまがない。特にヒミは「ハウルの動く城」で少女であり呪いで老婆になったソフィーの印象に近い。今作ではヒサコは死に、ヒミは別の時間軸から来た若き日の姿として登場している。一人二役、同時進行で二つの世代を生きている人物。 
 母を追い求めるといえば、フロイトがギリシャ悲劇「オイディプス王」から命名したエディプスコンプレックスがある。ちなみに、今作も母を探す旅である。若かりし頃の母を、眞人と同世代の女性としてヒロイン的な位置で登場させている。
 物語の軸として、死んだ母(姉)と新しい母(妹)、死んだ母と若き日の母。この二つを同時に成立させるために、こういう仕上がりになったのだろう。

〇眞人の仲間の作り方は桃太郎説、老婆は七人の小人説

桃太郎は、きびだんごを渡してイヌ、サル、キジを仲間にした。物語の世界では、仲間を作るためには、その媒介となる道具や出来事が必要となる。いわばお近づきのしるしだ。その方が説得力が出るというか、物語のおさまりがいいのだろう。
 今作では、きびだんごではなく、大量の缶詰と砂糖で7人の老婆を仲間にする。また、ナツコの部屋からくすねたタバコで、おじいさんとキリコばあやを仲間にする(キリコばあやにはタバコをあげていないが...)。
 おじいさんが研いだ肥後守(折り畳み式ナイフ)は弓矢を作り、アオサギの穴を塞ぐのにも活躍するキーアイテムの一つだ。キリコばあやは、若返って眞人の水先案内人となり、他のばあや達も現実では眞人のお世話を、下の世界ではお守りとなって登場する。

 旅の目的は「アオサギ退治→死んだ母探し→ナツコ探しと連れ戻し(結果的に地獄めぐり)」と変化していくが、当初のアオサギ退治のあたりは、鬼退治感がなくもない。(ややこじつけ感があるか)
 老婆が七人いるのは、白雪姫の七人の小人(ドワーフ)へのオマージュだろうか。白雪姫=ナツコで、毒リンゴを食べてガラスの棺で死んだように眠る白雪姫の姿と重なるところがなくはない。同時に白雪姫=眞人でもあり、ばあやたちは神隠しの脅威から眞人を守ろうとしている。
 話の筋が複雑に思えるのは、
「悪者退治」(アオサギ)
「白雪姫」(アオサギや塔から眞人を守る、眠れるナツコ)
「母探し」(ヒサコ=ヒミ、ナツコ)
「地獄めぐり」(死の世界への冒険)
大きく分けて4つの筋が入り乱れてるからかもしれない。

〇大叔父さん=宮崎駿?、崩れゆく世界=ジブリ?

 下の世界、塔の向こうの世界にいる大叔父が、眞人に積み木を託して継いでほしいと頼む場面がある。その崩れそうな世界に、スタジオジブリが重なって見えた。
 「血のつながったもの」というワードもあって、それはヒサコ(ヒミ)や眞人がこの世界に来られた理由である。
 宮崎駿さんは、宮崎吾朗さんにこの世界を継いでほしかったのかなと、何となく思ってしまった。作品と作者は分けて考えるべきなのかもしれないけれど。
 そして、眞人は外の世界で生きることを選び、大叔父のいた世界は崩壊してしまう。(あの隕石、ちょっともののけ姫のタタリ神っぽかったよね。浮遊するタタリ神。)

〇下の世界って無意識や深層心理なのでは?

 もう一つの可能性として、大叔父=超自我なんじゃないかという仮説。
 超自我は、本能的欲動であるイドを抑えようとする存在。インコたちが本能丸出しだったから、イド。悪意がある石を拒絶している描写もあったし。超自我(大叔父)の領域にイド(インコ)は基本的に入れなかったみたいだし。その場合は、眞人はエゴ(自我)になるのだろうか。この辺は、あまり詳しくないので専門家の解釈が読みたい。
 下の世界へ行くときの描写も、ずっぷり地面に沈んでいく感じだったから、深層心理感があるような、ないような。

 あと、ナツコが眞人に「大っ嫌い」っていうシーンがあるんだけど、あれはユングの「影」っぽい。亡き姉のためにも、夫であり眞人の父であるショウイチのためにも、眞人を我が子として大切に育てなければ、好きにならなければという気持ち。それに反発する、眞人を「大っ嫌い」な気持ちが、心の奥底の暗いところで結界の中に封じ込められていた。そこに足を踏み入れてしまった眞人に、その感情が向けられてしまう。

〇下の世界(=地獄)にある六道の影響

キリコが大きな魚を釣り上げて、旗で人々を集める場面がある。そのときに、キリコが「彼らは自分で食べ物をとることができない」といった意味のことを言う。
 六道の餓鬼道に、多財餓鬼(有財餓鬼)という「人の残した物や、人から施されたものを食べることができるもの」がいるらしい。これがあのお皿を持った黒い人たちなのではないか。
 また、無財餓鬼 という「食べることが全くできないもの。」もいて、これがペリカンではないか。飲食しようとすると炎などに邪魔されるというのも、少し形は違うかもしれないが類似している。
 積み木の石は、賽の河原を連想させる。三途川の河原は「賽の河原」と呼ばれる。賽の河原は、親に先立って死亡した子供が石積みの塔を完成させようとするが、鬼に邪魔されるというもの。崩れそうな積み木の石を3日に一回積み上げ続けるというのは、邪魔者の鬼がいなくとも果てない苦行だ。
 地獄や輪廻転生の在り方を、宮崎駿の解釈でもって表現したのが、今回のあの世界なのではないかと思う。死と再生。死んだ人間の魂が、亡霊のような黒い姿から「わらわら」の白くて丸い姿に変わり、また天へと昇り生まれ変わる。カエルの卵や、サンゴの産卵のような見た目で、幻想的な印象を受けた。
 

〇ジブリ作品へのセルフオマージュ?関連を感じた部分。

 アオサギという鳥人間。魔法を使う者が鳥の姿で現れるのが、「ハウルの動く城」でハウルが戦場へ行くときの黒い大きな鳥の姿をしていた場面や、「千と千尋の神隠し」で湯婆婆が黒いマントを着て鳥のような姿で空を飛んでいた場面を連想した。魔法使い=鳥の姿で空を飛べるのだろうか。鳥のフォルムになるときは、人間の顔を腹の中に呑み込むエフェクトもかっこいい。

 空から降ってきた石の塔。「ハウルの動く城」でハウルが流星を飲み込み、心臓を与える契約をカルシファーとすることで魔力を高めたが、今回も空から落ちてきた星(流星)が魔力の源となっている。塔の内装や、布の柄などが「ハウルの動く城」の城内や、「千と千尋の神隠し」の坊の部屋、湯婆婆の部屋とデザインが似ていたので、見ていてワクワクした。「耳をすませば」のバロンも、魔法使いの血を引く職人たちによって作られたと語っていたが、ジブリと言えばやっぱり魔法。

 石の声。眞人が素手で石に触れたことで、石たちが怒る場面がある。石の声と言えば、天空の城ラピュタの「ポムじいさん」が、石たちが騒いでいることについて語る描写がある。ラピュタは飛行石が重要なものとして出てくるし、天空の城のインパクトがすごいけど、あれはロード・オブ・ザ・石だと思う(リングじゃなくて石)。

 船の墓場。「紅の豚」や「風立ちぬ」で飛行機の墓場という、大量の飛行機(死んでいる)が空を同じ方に向かって飛んでいる場面が出てくるのだが、下の世界についた眞人は大量の船が進んでいくのを見ている。キリコが、死んでる人の方が多い世界だと言っている。

 高畑勲監督作品ではあるが、「火垂るの墓」の設定との類似がある。母親との死別。富裕層から見た戦争。物資が不足している中で、あるところには食べ物があるものだという描写。お金持ちの子どもへの軋轢と孤立。
 今作では妹はいないし、父も生きているので、設定の異なるところもあるが、戦争のころを描くというのが「風立ちぬ」も含めて、近年の宮崎作品の一つのテーマであるのかもしれない。「風立ちぬ」ほどではないが、今作でも飛行機の部品が登場し、父が軍需工場で飛行機などの製造をしていることが伺える。

 ナツコの産屋を守る紙の札。神社のしめ縄についている紙垂の亜種みたいなかたち。輪になっているから、夏越の大祓茅の輪くぐりっぽさもある。「千と千尋の神隠し」の銭婆がハンコを盗んだハクを攻撃していた紙の依り代(ヒトガタ?)のようなものと似た雰囲気もあった。途中、包帯みたいにしゅるしゅる伸びて、顔にべたべた張り付いて、侵入者を追い出していた。ハウルも魔女除けのおまじないを、寝室にたくさん置いていたし、あの紙の輪も侵入者から産屋にいるナツコを守っていたのだろうか。

 あと細かいところだけど、シベリアが出てきた。眞人がはじめて、自分の部屋に入って眠ってしまうとき、お茶にしましょうと言ってナツコが持ってきたお菓子がシベリアだった。「風立ちぬ」で出てきて、印象に残っていたから余計に気になった。何らかの意図や思い入れがあるのだろうか。あるいは、物資が不足していた当時の定番お菓子だったのか。

「わらわら」という産まれる前の魂が出てくるのだけれど、「もののけ姫」のコダマと「崖の上のポニョ」の生まれたばかりのポニョの兄弟たちに似ている気がした。小トトロっぽさもある。同じタイミングで出てきた手足の長い人間みたいな形の黒っぽいものたちとは、また違う存在なのだろうな。

〇神は細部に宿る

「世の中の大事なことってたいてい面倒くさいんだよ」

NHK「プロフェッショナル〜仕事の流儀」宮崎駿, 2008

 ジブリの作品をこれまでいくつも見てきた。見れる範囲でほぼ全部。舞台設定も、登場人物も、ストーリーも、そのどれ一つとして、似たものはなかった。劇場で映画をみた思い出は、今でも人生の宝物になっている。
 「神は細部に宿る」なんて言葉もあるけれど、細かいところの描写のリアリティ、随所に散りばめられたこだわりにグッとくる。そんなの誰もわかんないってみたいなのも少なからずあるはずだ。宮崎駿が「世の中の大事なことってたいてい面倒くさいんだよ」と言っていたドキュメンタリーを見たことがある。「めんどくさい」けど手放さなかったこだわりによって、あの圧倒的なクオリティの作品は生み出されたのだと思う。

 神を感じた細部をいくつか。

 火事の時、遠くにいるものには、鐘やサイレンの音しか聞こえない。周囲(使用人?)がざわつく気配。父の後を追おうとするが、玄関まで行って一度布団に戻り、着替えて家を出るところ。火事の炎が画面全体を舞う描写。バケツリレー。繰り返し出てくる母と火の描写が毎回ちがう。どんどん抽象的で短くなっていく。

 駅まで迎えに来た自転車のきしみ。トランクを渡すときの父の「重いぜ」。そして重そうに荷台にのせられる。舗装されてない道を上下に揺れながら走る荷台。家に着いたら、家族用の内玄関ではなく、「はじめてだから来客用の表玄関から入りましょう。」というくだり。奥まで続く屋敷、長い縁側。お寺や城にありそうな豪華な襖絵。廊下の暗がりにいる謎のじいさん。内玄関に置かれたトランクとうごめく老婆。和風の豪邸と、眞人が住む擬洋風建築の住まい。ナツコがいるときと、ナツコが辞した後の「母親に似てきたね」というばあや(主にキリコ)の二面性。

 アオサギの姿かたち。ぬるっと窓にもぐりこむ動き。あやしげな声。雰囲気。屋根を歩く足音。ナツコの鏑矢と、眞人の手作りの矢の対比。肥後守(ナイフ)を研ぐところ、砥石と水。白米を糊にして矢を作る(洋館の一階にはおひつに白飯がある。ばあやたちはうすい粥を食う。眞人は「おいしくない」と言う。普段は白飯を食べてるから)。矢の呪術じみた動き。(アシタカが放った矢みたいだ!)

家を歩く時の床のきしみ。父とナツコの大人ふたりだけの時のイチャイチャ場面に出くわした気まずさ。そっと部屋に戻るときに、そうっと歩いていても床やドアの音が大きく感じる。

 金持ちの転校生が入ってきたときのクラスメイトの排他的な表情。奉仕活動をしていて、もめるところ。自分で石をつかって頭から血を流す。思ったより重いケガになる。こんなはずじゃなかった感。父に誰にやられたか聞かれても「転んだ」と言い張る。たぶん相手の名前もわからないのだろう。転校一日目だし、まだ距離があって誰とも話してなさそうだし。

 アオサギやインコが、人の姿ではなく、鳥の動物的姿で描かれたときに現れる鳥の糞。おしっことウンチを同時に出したような白いべチャッとした跡が残るのがリアル。それが眞人の部屋の窓や、助けにきたショウイチの肩についていたりする。

 塔の周りや、日当たりの悪そうなところは地面がぬかるんでいて、靴がぬちゃっと沈み込む描写も良い。古びた塔の建物なのに、魔力が満ちている感じになると、新しくキラキラした内装に変わっていくのも、さすが。

 一つひとつの描写に、宮崎駿監督の根拠やこだわりがあって、でも初期のジブリたちほど完全にお話の世界に宮崎駿の血が通いきれてない感じもある。そのジブリとして終末を迎えつつある感じが寂しくもあり、新たな世代の活躍に支えられているのも伝わってきて諸行無常。

〇最後に

 正直、これまで見たきたジブリ作品と違って、あまりストーリーは分かりやすいほうではない。でも、宮崎駿の作品でしか感じることのできない生命力あふれる動き、こだわりと根拠に裏打ちされた描写力はすさまじいものがあった。宮崎作品からしか摂取できない栄養がある。しかも新作だぜ(「この車は四駆だぜ」のテンション)。
 「となりのトトロ」や「天空の城ラピュタ」をセリフを覚えるくらい見て、トトロのカンタのおばあちゃんのモノマネをしたり、Twitterでバルスを叫んだ世代だ(サーバーが落ちてクジラが出た)。本棚にナウシカのマンガが全巻あるし、テレビで何度目かの夏のジブリを見る。「ハウルの動く城」「千と千尋の神隠し」をリアルタイムで映画館で見たことも、かけがえのない思い出。
 エンドロールには、スタジオカラー、Production I.G、スタジオ地図、スタジオポノック、ufotable、コミックス・ウェーブ・フィルムが出てきて、もはやアニメ界のオールスターだった。庵野さんも細田さんも米林さんも、今や第一線で活躍しているし、新作が出たら欠かさずチェックしている。ジブリの歴史とそのすごさを改めて感じた。
 もう宮崎駿の次の新作は見れないのかな、また見たいなと思いながら、劇場からの帰り道に、あれこれ考えながら歩いた。今作もとても良い映画だった。

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