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飢え


手品を見るには場所がないというが、

本当にそうだろうか。

「見る人」も「やる人」も「教える人」も「見る場所」も、もうたくさんあるように思う。

こんなにたくさんあるのに、さらに場所を増やして供給を分散させても、あまり意味がないように思う。

それこそ運営が困難で、結局うまくいかず疲弊して終わる。

私が住んでる住んでる地域には落語や漫才や劇を見れるところがあるけれど、22年間で行ったのは数回。こんなに長いこと住んでる場所なのに。

毎日3回食事をするのに、この間初めて入ったお店だってある。

きっとあまり関心のない、知らない分野なんてそんなもんだ。その面白さや美味しさにも気付かないし、気付けない。

一応ここで言及するけど、気付けなくて悲しいねとか寂しいねとかいう話をしたいのではない。

私がしたいのは手品の話。


きっと手品に必要なのは「場所」じゃなくて「学問」なんだと思う。あと「ジャーナリズム」もね。

手品に興味がある人も、手品愛好家もきっと今の手品じゃ満足じゃない。

大正の探偵小説愛好家が『新青年』を読んで探偵小説の飢えから解放されたように、我々もそういうのを求めているのだと思う。

我々は今、手品ゾンビだ。

そしてゾンビのみなさんにご提案なのですが、みなさんで手品について考えませんか。哲学でも美学でもなんでもいいから私に教えてくださいませんか。あなたの飢えを共有してほしい。手品に対するあなたの飢えを私は知りたい。

手品を論ずるための新しい視点がほしい。

私の知り得ない手品の可能性を知りたい。

パフォーマンス面だけじゃ無くて「手品」についていま一度考えてみたい。

「マジック妖(AYAKASHI)」店長 まい

magic.ayakashi1@gmail.com


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