「写真を撮る」ことは、最も人間らしい行為ではなかろうか?
※この記事は酒が回りながら書いていることをお許し頂きたい。
有史以来、写真を撮るという行為は概ね記録のために行われてきた。いつしか記録された写真に心を打たれる人間が現れ、記憶としての写真が生まれるようになった。
今となっては写真を撮るという行為は記録であり、人生の記憶でもある。境界はもはやあいまいになりつつある。
しかし、「人間が意志を持って」「この場面を/この人を撮ろうとして」「シャッターを切る」この一連の行為は、人間にしかできないことだと思うのだ。
現代においてはAI技術がめざましい発展を遂げた。日頃の仕事でも欠かせない存在であり、創作活動においても生成AIは正しい使い方を身につければ大幅に成果物の効率化に寄与する。
では、写真はどうだろうか?
たしかに生成AIが写真を生み出すことも出来るようになった。しかしそれは実在もしなければ、あるものを切り取るという意志が介在せず、シャッターを切るという行為ももちろん発生しない。果たしてこれは写真と言えるのだろうか?
写真を撮る行為は、人間の意志が介在してはじめて完成する。だから今も人は写真を求め、写真に心動かされるのだろう。
私はそう信じたい。でないと、ちっぽけな自己肯定感すらも失われてしまう気がするから。
きっと翌朝の僕はポエムまみれのこの記事に絶望している事でしょう。あとのことは知らん。
酒は飲んでも呑まれるな。
(冒頭写真:X-Pro3を構える筆者 友人撮影)
(9/27 8:15 追記)
かつて自分が忌み嫌っていたクソポエマーと同じことをしていて頭が痛いです。でも書いたことのほとんどは割と本心で思ってます。
どうせAIに喰われるなら、せめて、人間らしく……