雨潸々とこの身に落ちて①
令和2年11月7日(土)。
今日は、夫と娘と親友荻子と別府へ向かう。
そして、私と荻子は温泉に入り、荻子はそのまま我が家に泊まる予定である。
前日、どこの温泉に向かうか温泉本を見ながら考えていた。温泉名人を再び目指していることもあり(31/88)、やはりスタンプがもらえるところがいい。
行ったことのない、鉄輪のとある温泉を予定していた。
朝。
あいにくの雨。
身体が相当重い。その上頭痛がする。
私は、気圧とかホルモンとか、そういうものに左右されやすい体質である。
健康診断上、特に異常はないが、体調は良くない日が多い。
何が良くないのかは日によって異なるが、「不定愁訴」というやつである。自律神経がイカレポンチになっているのを感じる。
この不定愁訴が増えたことには、はっきりとしたキッカケがある。
今から8年前、27歳の時である。会社でのストレスがMAXに達した。温泉通いでどうにか誤魔化していたストレスが限界を迎えたのではないかと思う。
会社で急に息苦しさ、手足、顔の痺れ、吐き気等を起こし、近隣の病院に運ばれたのである。
完全に、
ーー毒を盛られた。
そう思った。
こんな時、日頃の行いが良ければ、そんなこと思わないのだろう。
ただ、当時の私は、会社で嫌いな奴の悪口三昧であった。毒を盛られるには身に覚えがありすぎた。
ーーあぁ、このまま死ぬのか。
享年27。あまりにも悲しすぎる。静かに人生の幕を閉じる……。
幕を閉じたのは会社員生活であった。
享年4.5。
私のストレス耐性はせいぜい4年半程度である。随分と情けない結果である。
そしてこの不定愁訴は、その時の置き土産である。はっきりと、あの時を境に体調が激変した。それに伴い、自身の体調不良に怯えるようになった。
そんな時、外に引っ張り出してくれたのは、やはり荻子であった。
彼女は、いい意味で、私の謎の不定愁訴に取り合わない。
心配してない、とかではなく、彼女自身のメンタルが強いためである。
うちの夫も同じタイプである。私の不定愁訴に取り合わないどころか、逆に喝を入れてくる時もあり、面倒である。
荻子や夫は、自分自身の体調不良も「大丈夫、気のせい」的な感じで、流してしまうところがある。悪く言えば、「気をつけない」タイプなのである。
こんな人たちの方が逆に……
ちょっとした違和感で、病院を飛び回る私より、よほど心配である。
そんなこんなであるが、その日の私も、朝から体調が優れず、荻子との約束を断るか否か考えていたほどである。
おそらく、気圧とホルモンバランス、両者が絶不調で、気分まで滅入っていたのであろう。
いつもの、自身の身体に取り入るもう一人の自分が現れる。
ーー命の母ホワイト飲みます?いや、それとも、補中益気湯ですかね?うーん、半夏厚朴湯という手もございます。いやいや、こんな時はオロナミンCですかね、やはり。
本当、煩いわ。
と、思いながらも、とりあえず命の母ホワイトとオロナミンCを選択する。しかし、言わずもがな、漢方と清涼飲料水なので劇的な変化はない。
そして、何よりも頭痛がするので、頭痛薬を一番に飲むべきであることに気付く。
とりあえず痛みはすぐに止まった。
怠さも少し抜けてきた気がする。今日いけるかも。
前日、鉄輪の温泉に行く予定にしていたが、今日入りたいのは、鉄輪温泉ではない。
ーー明礬温泉だ。
こんな身体の重い日は、硫黄泉以外考えられない。温泉名人スタンプは増えないが、行きつけの湯屋えびすに行くことにした。
ここは勝手に自分のパワースポット的な存在になっている。
荻子と久々の温泉。そして久々の硫黄泉。
疲れが……
ーー溶け込むわぁ。。
懐かしい硫黄臭も堪能し、大満足であった。
少し雨も残っており、露天ではまさに、
「雨潸々とこの身に落ちて〜」状態であった。せっかく温泉に来たのに雨とは、「わずかばかりの運の悪さを恨んだりし」た。
温泉好きな私は、温泉好きなくせに長く入ることが出来ない。
前述のとおり、体調変化に敏感で、温泉でのぼせて倒れたりするのが嫌なのである。実際に倒れたことはないが。
今日、実は荻子も朝から体調が優れなかったらしい。その上少し頭痛までしていたという。
人間は少なからず、気圧とか天気とかに影響されるものなのだろう。
ーー人は〜哀しい〜哀しい〜ものですね〜
私が大好きな、えびすからの風景である。
晴れていれば大分市の方までよく見えるが、あいにくの雨。しかし、これはこれで趣があるように思う。
硫黄泉に疲れを溶かしてきた我々は、帰りの車でも終始しゃべり尽くした。
とても今日断ろうと思っていたとは思えない自身の饒舌ぶりに少し呆れる。
帰りの車ではちょうど音楽番組が流れていた。
カラオケの話になった。荻子は会社の飲み会で80年代の古い曲を歌った時、
「人生経験が足りん。」
と評価されたことがあるらしい。
これは、(一人)カラオケ好きの私も悩んだことがある。
美空ひばりが歌う「愛燦燦」に感銘を受け、密かに練習していたのだが、全くダメ。録音して聞いてみると、まぁなんと陳腐なこと。普段の声は割と低めであるが、歌うと「安っぽいアイドル」声になる。そんな声で歌っても、
ーー過去たちは全く優しく睫毛に憩わない。
ピアノをやっていたため、音程は取れる。(一人)カラオケの成果で、ビブラート等の技術的なものも以前より習得しているため、採点するとまぁまぁな点が出る。
しかし、そこではない何か。
声質もあると思うが、これは人生における経験値としか言いようがないのかもしれない。だからと言って、ただ単に年齢を重ねただけでもダメなものだろう。
今のところ、私がまずまず人に聞かせることが出来るのは、aikoの歌くらいである。(aikoを馬鹿にしているわけではない。長年ファンである。)
「恋愛」は人並みに重ねているが、「人生」はまだまだ浅い上に、吐血に値するほどの苦労をしたことがない。
そんな奴に「人生ってぇぇ〜不思議なものですねぇぇぇええ」と歌われたところで、「愛燦燦」に申し訳なさすら感じる。
それに、崇拝してきたaikoの歌ですら、恋愛から遠ざかった現在においては、「何言いよんのaiko…」と思うことさえある。
結局、自身に一番しっくりくる歌というのを考えてみると、どうもちびまる子ちゃんのエンディング系に落ち着く。
ーー交差点で100円拾ったよ〜今すぐこれ交番届けよお〜いつだって俺は正直さ〜近所でも評判さぁ〜
こんなに歌を語ったところで、「一人」カラオケしかしない私は、どこかで披露することもない。完全に自己満足というやつである。
長々と語ったが、一番主張したいのは、美空ひばりの素晴らしさである。私は、あの人を超える歌手を見たことがない。
なんというか、頑張って発声している感が全くなく、普通に喋っているかのように言葉の方が耳に飛び込んでくる。歌詞の良さはもちろんのこと、良い意味で音楽より言葉が伝わってくる。
現代の「音楽に誤魔化された歌」とは全く違う。これぞ歌手!
と、浅いことをほざいている私は、歌の「う」の字も分かってはいない。現代の歌手たちに土下座すべきである。
我々は、「この歌のカバーをこの人がすべきじゃない」とか、一通り音楽評論家並みの批判をしながら家に帰り着いた。
明日は、豊後大野市にある用作公園に紅葉を見に行き、原尻の滝に行くことになっている。