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自分が感じたこと=「事実」になるこわさ 映画「母性」をみて感じたこと

先日、映画「母性」をみました。
み終わったときに感じたのは、「人と人が本当に理解しあうことはこんなに難しいのか」ということ。

映画のなかで、
「(学校に持っていくバッグ)キティちゃんにしてほしい」という、幼いころの主人公が祖母に伝えた言葉。
これを、
「作ってもらったバッグにキティちゃんの刺繍をしてほしい」というつもりで言った娘と、
「キティちゃんがプリントされた既製品のバッグがほしい」
という意味にとらえた母とのすれ違い。

同じ言葉でも、受け取り方によってかなり意味が違ってしまうことがわかります。
同じできごとでも関わっている人の数だけ、もしかしたら違う「事実」が生まれる可能性があると感じました。このシーンでは、祖母、母、娘の3つの受け取り方、事実があったと思います。


似たようなシーンを考えてみると、たとえば誰かと話しているときに、
「相手からにらまれた」と感じたわたしと、
「真剣に話していたら強い目線になってしまったかも」という相手とのすれ違いは簡単に起こりそうです。

このとき、相手側の事実は「真剣に話していただけ(にらんでいない)」ですが、わたしにとっては「この人ににらまれてしまった」という別の事実が生まれています

…似たようなことは、わたしたちが思っている以上に日々起きているのではないかとゾッとしました。

そして、なかなか「さっき、にらまれたような気がしたのですが…」と聞くことはないので、多くの人はきっと「にらまれた」を事実として受け取ったままです。

わたしがこの話を友人にしてみたら、「似たようなこと、夫に感じたことがありました!」とさっそくエピソードが。

「家族で買い物に行ったとき、私が押していたカートが他の人にぶつかりそうになったんだけど、そのとき、夫ににらまれたような気がして。
誰にもぶつかってないのに…と不満だった。
夫はけっこう目つきが悪い方なので、ただ見ただけなのかもしれないんだけど、本当ににらまれたのかどうかは、結局確認してない」

そう、たとえ家族だったとしてもなかなか「あれって、本当はどういうつもりだった…?」
とは聞かないことも多いのではないでしょうか。

「たぶんこうなんだろうな」と自分が感じたことを「事実」として受け止めて、そのまま流れていくこと、実は案外あるような気がしています。


自分が「受け取った」相手の言動について、「これはわたしがそう感じた、という事実で、もしかしたら相手は違うのかもしれない」という可能性も考えてみること。
そう感じたときは「わたしはこう受け取ったんだけど、あってる?」と聞けたら聞いてみること。
そして、自分が伝える側になったときには、「これだと言葉が足りなくて、意図したとおりに相手に伝わらないかもしれない」と少し想像してみること。

リモートワーク中心の生活になり、画面越しやSlackやメールなどでのテキストのやりとりが多くなった今だからこそ、改めて心がけたいと思いました。


わたしは毎日、その日に自分が接した人との会話をひと通り思い出し、
「あのときのこの言葉は、もしかしたらこんな風に(意図していない方向に)伝わった可能性もあるな」
とか
「あの言い方は、ちょっと感じが悪かったかもしれない。こんな風に言えばよかったなぁ」
などと反省会をしています。

もちろん、言ってしまった言葉は取り消せないし、あとから「あの時のこの発言は、こういうつもりで言ったんです」と補足説明することもありません。

でも、この「ひとり反省会」は、きっと無駄ではないはず。
少しでも相手に「伝わる」言葉で伝えられるようになるために、これからも続けたい習慣です。

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