![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/154107595/rectangle_large_type_2_2cbf456ce55308c87c1c98d9a0e8d89e.png?width=1200)
ぼんやりと漂える自分がちょうどいい #デジタルで変わったこと
フリマアプリでは住所も電話番号も、名前すら知らない相手と品物を送ったり、送られたりできる。あなたは誰? そんなことは関係ない。すごい時代になった。
そういえばこの棚、どこで買ったっけ。購入履歴を検索すると、どうやら500キロ以上も離れた小さな家具店で購入したらしい。へえ、そうなんだ。我がことながら改めて知った。店がどこにあるかなんて何一つ意識せずに、ネットでポチってた。
学生時代の友人は、卒業から数年後に友達申請したSNSでつながっている。お互い何度も引っ越しているから、住所も電話番号も何も知らない。会うこともない。でも、“SNSキャンパス”でかれこれ10年、いや15年、ともに時を過ごした仲間だ。
頻繁に飲みに行く友人ですら、互いに電話番号を知らないなあ。どこに住んでいるかもなんとなくしか知らない。いつもLINEで「そろそろ飲みに行こ?」と誘い合ってるから、不都合を感じたことがなかった。
結果として、今、私がどこに住んでいるのか、よく知っているのは宅配便の人だったりする。
このまえ、配達を「営業所止め」にしたのに、何も言わずとも自宅に届いてしまったことがあった。服をまたポチったことを家族に知られたくなくて、あえて住所を書かなかったのに、届けてもらってちょっぴりバツが悪かった(幸い私が受け取ったので家族にバレなかった)。覚えてもらってて恐縮です。
母は黒電話の時代、親しい友人や親戚の電話番号をいくつも記憶していた。年賀状を送るために住所も必ず帳面に書き留めた。「私はどこの誰で、あなたはどこの誰か」が重要な情報だった。当時はマッチングアプリなんて想像だにできなかっただろう。
今はというと。どこの誰かは知らないけれどつながっている。そんなコミュニケーションが至るところで発生している。ぼんやりしているけれども、スマホのなかにずっといる。消えたと思ったら、探すと現れたりする。亡霊みたいな存在に囲まれている。それが結構心地いい。
⋯⋯てなことを書いている私は誰?
私はななし。私はここにいます。