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子供のくせに!
幼いどころか、1歳の時点で。
何もせずとも、母が弟を妊娠してることに気付いたかのような動き。
そういうのを見せてた、と母から聞いたほどだからか?
「子供のくせに!」
と。生意気なんだよ!という感じで言われることも多かったです。
実際、自分に気づけるのに大人には気づけてない。それが表に出るだけでなく、状況によって良い評価をするのは大人が先なんですよ。
でも、「このくらい気付けるから、見えてるから」と言ってしまった結果、悪い方に転がって怒鳴られるということもりました。
ほんとね?
子供らしくないし、子供とは思えない、言動や行動をします。
その結果が、幼稚園での評価。聞き分けが良い、面倒見が良い、よく気づくということにもなってたわけです。
そういう身からすると、ね。
やっぱり、現状はおかしいですし、恐らくその時々での年齢の自分だったとしても。
同様におかしさを感じてたでしょう。
うん。
そういう経験がある身として
「大人大人いうけど、大したことないなぁ。」
それは、親すらも、でした。
小学校高学年の頃に「お前はおとなだなぁ」とクラスメイトに言われてたのも、担任が怒るだけでなく、沸点が低かったので直ぐ様怒りを爆発させてしまい、収集がつかなくなる。
それに対して、周囲は「おとなだからと偉そうに」と、なってるのですが、何がどうあって、どうなってるだけでなく、普段から色々感じ取ってるので、
「だって、そういう人だから」
失礼かもしれないですが、感じ取りすぎる=分かりすぎてしまうので、線引が出来てただけだったりもします。
これは、以降も続くというか。
教師が叱るにしても、やっぱりこう、大人げないと言わんばかりに即座に沸騰させやすい教師って居たので、同じことは何度も経験してます。
こういう部分があるからこそ、普段は泣き虫なのに、
「怒りの発露のさせ方がおかしいようだと、目を見つめながらの抵抗がつよくなる。」
という、ね。怒ってしまうからこそ、こちらは逆に、ちょっと待ったになってしまう。
理屈ではわからなくとも、自然と学んでたこと。
目を見ながら、それは大事なこと。というのも、ちゃっかり学んでたんですよ。
それこそ、幼いが故に母が連れ立って買い物に行こうものなら、まさに学び時。
同じ世代の子供と親の関係を、そういう素振りを一切みせないまま、見て学習してました。
なので、自分がそうあらなくとも、周囲の状態からも学習して、どうあれば悪い方に転がるという判断も自然とするようになり。
だからこその「聞き分けが良い」と。
親子間のコミュニケーションに対して、良い悪いではなく、何がどうあるからそうなってしまうのか?を、
見聞きするだけで、気付いて物にしてしまうのが常。
それが自身の自然体。
それだけでなく、それを扱って事なきを得ることも朝飯前。
正直、今の様なHSPという言葉のブームあるあるに乗っかるような親だと、
「間違いなく失敗する」
そう言えてしまうんですよ。
なんでそんなトコロに?
もうね、幼稚園児の時点でも過ぎてただけでなく。
ドラえもんみたいな子供向けアニメを見てると、
「ねぇ?イジメは良くないって言ってるのに、なんでジャイアンはのび太くんをイジメてるの?」
そして、
「テレビでこういうことやってもいいの?」
言葉足らずというか、経験も伴って無かったとは言え、
そういうシーンを”子供が見るアニメ”でやるのは、いかがなものなのか?
ということを、母に問いかけたりしてました。
また、こういうのも「気付いた時には他に人に話さず、母だけに」という部分の一端だったりします。
なのでこう、ね。
「何であんたそんな所に気付いてんの?」
こういう事が起こるのも日常でした。
言い換えれば、作品に込められたメッセージ性に気づく、とでも言うんですかね。
こういうのが成長してからは「気にし過ぎ」と、ね。
”誤解”されてましたけど、目に見えて「疑問を持つほどにおかしなこと」に気付いてしまってるだけ、です。
周囲が気付けない細かいトコロ。
その中にはそういう「疑問や違和感」も多いだけなんですよ。
で、周囲は気にしてない=見えてない=だから気付けない。
気付けてないのだから、気にしないも何も、自分の中にそれを取り込んでないから気にしないで済んでるだけ。
また、こういう部分でも面倒なことに色々あるし、「気にしてるだけだ!」とやっきになって否定しようとする人も多いのですが、
「いやさぁ、普段からよく気づくって評価してるのは、どこの誰よ?」
うん。
これで一発大逆転する、と。
まぁ、否定したい気持ちが強い人は、ここから怒りを爆発させて抑え込みにくるわけですが。
如何ようにも出来ます。
でも、こういうのはもう、呆れるほどに経験するので、面倒やらなんやらで、「あー、はいはい、そういうことでいいですよー」って
相手にしない、ということも多いです。
うん。
そして、これが、ね。
幼い頃には一歩引くという姿勢になり。
これも、聞き分けがいい、と。
でも、実際については触れてもらえない。
というより、触れようにも”認めてしまうと”、大人としての立場が無くなるので。
認めてもらえない=受容がない。
気にしなくて良い、ではなく。
上に書いた話であれば、イジメは良くないことだと教えてくれるのが大人だから、なんですよね。
下手すると、きつく叱られもするわけです。それ故に、それ程に悪いことなんだと実感もしてしまう。
それなのに、
「なんでテレビ見てたら、こういうのよく出てくるの?」
更に言えば、
「子供にはダメだといのに、大人がそれを見せるのは良いのか?」
そこにも、厳しく叱られるという部分がかかりますし、だからこそ、です。
なので、ね。
「そういうのは大人になったらわかるから」
と”濁されてしまう”事も多くなってましたし、濁した=誤魔化したと気付いては居るものの、言えば怒りの状態になるから、と。
言わずに黙っておく。
親すらもいいこいいこしてあげないと、
必要以上に「話しを聞けない存在」にもなってもました。
ホントこう、ね。
疑問や違和感を感じるだけでなく、そういう、大人が大人として対処できない、矛盾した様を常日頃から見せつけるから。
嫌でも、記憶に残るハメになるという。
そういう部分も、個人として持ってるので。
「知ったかぶって、適当なことやるな」
ってね。
言うんですよ。
大人の油断
正直、母の油断って、総じて大人に適用できるもの、です。
母の油断。
何を教えたわけでもないというのに。
まるで、分かってる、気付いてると言わんばかりに母をフォローしてた事。
1歳の時点では、あまりにも出来すぎててあり得ない事だけど。
私から聞き出そうにも1歳なので、詳しく返せるわけがない。
それ程に、何かしらに気付いて対応してくる姿を見せていた。
それがわかってたはずなのに、成長して周りと同じ様に感じられたので油断をした。
一般的な期間としていわれる、十月十日から逆算すると、1歳と1ヶ月ちょっとくらい。
弟の方が生まれ月が早いので、2歳の誕生日を私が迎える前に生まれたことになるし、そうなると、ほんとこう、ね?
自分のことだけど「流石にありえないでしょ?」と。
それ故に、整理できるまで時間がかかったし、自分にとっては喉に刺さる魚の小骨のようなもので。
聞かされてからは、数年ほど、どうにも落とし込めない話でした。
今はもう、落とし込めてますけどね。
そして、これが凄いとか、自分がどうとかではなく。
どの年齢でそういう物が見えてくるのか?
どういう見え方をして、当人はどういう出し方をするのか?
どんな事をやる、言うしてしまうのか?
客観的に受け取ると、そういう子供って何をどう感じて、どういう心理や思考、行動をするのか?
その一例を示してるだけ、だったりします。
ほんと、ね。
ありえないありえない、言われてましたが。
幼稚園児の時点で。
「なんかこう、大人って大人ぶるけど、大したことないなぁ・・・」
大人が答えられないような、突っ込んだ部分。
そこに切り込むかのような問いかけもしてました。
それが過去に書いた中では、動物図鑑と進化論の話だったり、神や仏という存在はどこにいるのか?という問い掛けの話だったりします。
幼いからこそ知らない、知らないからこそ不思議なことだらけ。
気付きやすい=思わぬ所に一気にたどり着くような好奇心
そういう物を持つ事も考えられるんですよ。
だからこう、親の思いどおりになってる、ではなく。
ちゃんとコミュニケーションを取って、安心を与えて、聞き出した事を一緒に考えてみるというような話が出てもいいんじゃないかな?
と、思います。
だってその、子供の話ですから。
なんで、親の主観で語ってんの?
当事者である子供視点の話しを何故しないの?
子供のほうが勝ってて、親が対処できない、それこそ死に際に後悔したほど。
個人の経験とはいえ、そのくらいありますから。
思い通りになってる子供の話なんて、役にたたないと思います。
ぶっちゃけ、気づく=わかるからこそ
子供の面倒を見るのも、お手の物、です。
それと、大事な事を言っておきますね?
子供が楽しめてる、喜んでる。
そういう姿を見ると、楽や喜の感情が伝わってきて、こっちも嬉しいやら、楽しいやらの気持ちが湧き起こるし、
それがあるので、多少の疲れくらい、吹っ飛びますわ。
相手をした子供の年齢関係なく。
子供ってね?
子供だからこその不安を抱えなくもないです。
それを自身も経験してるだろうに、忘れてしまってる親や大人が多すぎる。
社宅だろうが、幼稚園だろうが、うまく対処出来てた=面倒見が良いという部分には、ね?
「そういう辛い部分も、聞くことが出来たら、受け止めた上で、安心をもてるような言葉を伝える。」
誰に教わったわけでもなく、自然とやってたという部分があります。
だからこそ、同い年でも、面倒が見れてた。
だからこそ、買い物に一緒に行こうとしてたはずなのに、親の元を離れて一緒に遊ぶ、遊んで待ってる、と。
そういう事になってたんですよ。
そして、これが年齢が一気に飛んで社会人になると、聞き上手。
愚痴や辛い話、苦労はなしを聞きながら、相手を労をねぎらうということもやることになったわけです。
良くも悪くも、現実の深い部分。
普通には気付けない、より深い部分いに気づけるからこそ、現状という部分では辛さを感じる理由が把握できるし、それで自分は対処出来ます。
でも、そうじゃない人には助けが必要、と。
そしてそれは、今のHSPという言葉に付きまとってるあるあるブームではないです。
相手が語ってくれる内容があるからこそ。
その内容から拾える部分、その人ならではの細かい部分を噛み砕けるからこそ。
話しを聞くだけでも、分かってくれてる、と。
聞いたら相手が安心してくれて、気持ちを持ち直してくれます。
最近は、うつ病を持ってるし、持ってるだけなく、只でさえ深いところが勝手に見えてしまうからこその色々があるので、敢えて避けてますけどね。
そして。
ブームでよく見かける話には。
自分の中に閉じこもってるだけ。
だからこそ、自分だけの話だったり。
自分と同じだと、共感ではなく同一視や錯覚を起こしてるような話ばかりが跋扈する。
しかも、そこには不安や、対人不安がある。
話しを聞けば分かる=言葉でわかる=書いてるものでも同じ。そんな感じでございますのよ。
ホントこう、繊細さんとか言い出した人も、何も見えてないのでは?
とか、今となっては隠さず言うほど、です。
まぁ、あくまで個人としての、ではありますが、子供という存在はある種のポイントだとも思います。
子供だからこそ素直、子供だからこそ真剣。
成長する過程で知ったり、経験したりするからこそ、失ってしまう部分。
♪それが~ 一番大事~
ではないですが、大事なのはそこですよ。
っていうか、そういう所も気付きます。
何かを伝える時の視線、子供故の真剣さが持つ目力
それがあるからこそ、逆に拾いすぎてしまいかねない。
子供って、それ程に純粋な力みたいなのを見せてますし、それを拾えると思いますよ?
なので、対応してて疲れる、ということは余りないというか。
拾えるからこそ、返すことも出来ます。
そ、し、て。
生まればかりの赤ちゃんでも。
目で訴えてくる子っていますからね?
もともとの性格もありますが、そういう目、視線の動きや状態も拾えるので、子供を相手にするときは自然とそれを受け取りますし、受け取るからこそ話を聞きながらでも、気づけます。
「そっか。目を見て話すことが大事。こういう事か」
そして、これは不思議と子供でも、いや、子供だからこそですかね。
真剣さが増すほど、目を見てこようとするし、目に力が入ってます。
でも、それが拾えない親や大人が、自分の都合で叱ってばかりだと、そっぽを向く様になり、
これが、コミュニケーションが崩れる切っ掛け、そうなると思います。
そこに気付いてた、というのは成長してから自分も気づくわけですが。
幼稚園に通ってた頃には、他の子がそっぽを向いてる時ほど、叱られてるようだと仲裁に入ってたという話も、こういう目や目線の話だったりします。
「いくら言っても、先生の方向いてないから、聞かないよ。そこに気付けないとだめだよ」
幼稚園時点での面倒見の良さは、聞き出すという部分以前に、
「目や目線が教えてくれるから」
だから、それで気付いて、問いかけることも出来てました。
ほんとこう、ね?
何言ってるんだ?と。
全然気づけてない、拾えてないではないか。
幼い子ほど、そういう、感情による細かい動きが「明らか」といわんばかりに、様子に出てる子が多いと思います。
だから、ねぇねぇと問いかけながら、裾や荷物を引っ張るんですよ。
ほんとこう、赤ちゃんなんかは、はいはいで動けるようになると、そういうの気づくと思いますよ。
行こうとする場所、目的のものを、ものっすごくガン見してますから。
そこに気づかず、気づかなくとも一緒になって追おうとせず、止めるかのように抱き上げたりするからこそ、
突然泣き出すこともある。
うん。
そして、そういう積み重ねをすると、親だからこそ抱くと泣かれる事にもなる。
そして、それに気付いてたからこそ、年齢1桁での社宅住まいの頃には、親や兄弟という家族より、私になつく赤ちゃんもいたりした。
そんな感じです。
相談上手という部分でも、目線や視線という、目の動きで気づくことも多いです。
目は口ほどに物を言う
それは、大人も、子供も関係ないんですよ。
ホントね?
どこが敏感なの?繊細なの?
目だけで、気づけるでしょ?
なんですよね。
あとがき
なんかまた、長いこと書いてしまいました。
最近こう、自分でも妙というか。
書ける時には凄く力が入るのに、それ以外は寧ろ避けるような。
心というか、体というか、ノらないのではなく、それこそ抑うつみたいに気が沈んで避けるようになってます。
さてさて、また、今回もいつものような状態です。
うん。
なんていうか、さ。
目に見えない感覚的な部分も、五感の感じ取りも、全部一緒ですし、だからこそ、範囲がくっそ広いです。あくまで個人的に。
でも、あるあるの話は、「自分と特徴の類似」しか出てこない。
だめだこりゃ。
共感ではなく、同一視。
共感って、同じことを感じる、ではないんですよ。
自分ではない誰かの状態を見聞きしての、感情の誘発ですし、それで相手と自分が一緒というのは、別口の話です。
例えば、悲しんでる相手、もしくはその相手の状態を、目や耳で感じ取ることで、自分の感情に影響があり、同様の感情が誘発される。
なので、共感とはいえ、相手の感情や思考という内側のものは見えない、わからない。
まぁ、そういう物なので。
「自分も同じ」だなんて、他人に言えるものではない、と思います。
そもそも、言葉を交わしたらズレてしまい、同じと言ってしまったことで、相手に不快感を与えかねない。
そういう所まで気付けないからこそ。
自分も同じ、だなんて、無責任な発言が出来てしまう。
共感って、自分の外側の話ですよ?
人だろうが、動物だろうが相手が居てこそという、相手が「主」になる話です。
それなのに、「自分も同じ」なんてのは、自分が「主」にすり替わってますし、だからこそ共感でなければ、同じだと思いこんでしまう同一視だ、と。
人の感情なんて、差がありきのものなのに。
何を根拠に、同じだと言えるのか?
そして、個人的な経験からいうと、共感というのは、
”相手、もしくは周囲に居た人からの評価”
自分からは、共感したとか言わないです。
自分もこういうものを感じで、こういう風な状態になった、と。
細かく噛み砕いて伝えるだけですし、そうすると相手や周囲から、共感だ、共感性だと言う言葉が出てくるものです。
同じ症状だろうが、似たような引きこもりの状態だろうが、自分と違う人は、違った経験や生い立ちがあり、違う価値観を持ち、違う性格なので。
様々な違いや差がある。
寧ろ、こちらのほうが当然の話しです。
その差を考えず、短絡的に自分も同じ、特徴が同じって、何に気付いてんの?
HSPという言葉のブームのあるある。
この特徴は自分が当てはまる。
根拠は?
自分が思ってるだけ。
なんだこりゃ・・・。
特徴がどうあろうが、自分ではない誰かが見せた特徴なのに。
人としての個人差という部分を考慮せず、真っ先に自分が同じって、ねぇ?
多様性とか皆違って皆良い、という、ね。
同じ様な時期に出てきた言葉と、全然違う事を言ってる。
敏感とか、繊細と言いつつ、都合が悪いからと言わんばかりに。
良い悪い関係なく「自分自身に気付けない」のは。
流石にお粗末でござるよ。
それでは。