経験から語ってみる15(否定と肯定の話
物心ついた頃から。
気が付いた頃から。
兎に角面倒なのが、この否定と肯定という感じで、しかも他者がやってくる物が凄く厄介。
感受性による感じ取り方の差が絡んでると思いますが、如何せん自然とか普通とかで見えてしまってるラインが違うという感じの事を、臨床心理士からのカウンセリングで指摘され。
あー...、あー...、思い当たることがありすぎるー、の中に否定と肯定の話があるんですよね。
ということで、その辺についてのお話もしてみようかな、と思います。
自己肯定と自己否定
自分の事だから好きにやって良いと思います。
ただ。
自己肯定が上手くなるとか、自己否定の悪さを声高に唱える話とかは、ぶっちゃけ要らないです。
というか。
感受性の違いなのか、行動が違うからと兎に角自分がどうあれ、周囲に居る他者には無駄に肯定と否定をやってくる人は居ますし、中には自分の言い分を飲まないからと、キレる人も居ます。世の中には。
なので、自己肯定のし方とか、誰かの話に乗る必要なんて、ございません(きっぱり
これねー、ビジネスとか、名誉欲みたいな側面があると思います。名誉欲というからには、大罪で言う強欲とか、嫉妬とか、酷いと傲慢までいくんじゃないかな。
ただ、無意識下まで踏み込む事になるので、必要以上の言及は避けておきたいと思います。
こういうのもね。
自分に厳しく他人に甘いが過ぎる、ストイック過ぎ、自分に鞭を打ちすぎだなんだ言われながら、自己肯定をもっとした方が良いとか突然話されて、
( ゚Д゚)ハァ?した事も、何度もあります。
そういう話や相談をしていたわけじゃないのに、突然普段の行動からの自己肯定をしてるしてないを他者が言ってくるんですよね。
なので、周囲の他者が振って来るだけでなく、世の中の色々で目にするだけでも、アイタタタタ...
正直、自己肯定だ、自己否定だ言おうものなら、相手にとっては不快感や嫌気を刺激されかねなくもないし、当然の事ながら言われたくないとも思います。こういうのって、本で読んだ、ネットで見た、雑誌で見た、テレビで見た、と何かしら得たから知ったつもりや知ったかぶりで大きな顔をしようとして突く人っているんですよ。
それでね?
肯定も否定も、過剰な程にやってしまい視野が狭まってるようなら問題なだけ、です。
精神的な疾患や症状、状態も色々解明がされてるので、下手するとその中の症状が当てはまらなくもない。なので、正直病院に行って相談とかしてみるのが今は良いんじゃないかなぁって思いますよ。
何でそういう過剰な程に自己否定するのか?自己肯定して大きな顔をするのか?という感じで、もう現代では大事な事は「何故そうあるのか?」になってると思います。
ほんとこう、こういうのもですね。
時代が変わったって言われる様になってるのに、時代に合わせた話が出来ないのかい?っていう、ね。
とんでもない状態も見え隠れしてるんですよ。
では自分はどうなのか?
適度に肯定も否定もしてますよ、そりゃ。
ただ、変にやり過ぎたり、それで思い悩んでる様を見せる状態になるまで過剰にはやってません。
それだけです。
ただ、如何せん生まれ持ったものとしての感受性での部分。感覚的に感じ取ってしまう物というのは、目に見えないし、その分伝わりにくくなる。それだけでなく、無理に伝えようとしたところで、見え方、感じ方が違えば理解に苦しんで当然なので、他者にもぶつけたりしません。
それだけです。
こういう記事化をするには、結構踏み込んだり、突っ込んだり、掘り下げたりというのはしてますし、それを自論という感じでの表現をしてるので、好きなようにやってます。
こう言うのも、過剰な肯定も否定も、跳ね返りもあれば毒にもなるのでね。相応に覚悟とかもしてるので、どうぞお好きに扱っておくれ、です。
うん。
そして、そうあるからこそ自分から日常生活の中では、肯定と否定の話ってしないんですよ。
そもそも、兎に角他者から勝手にごちゃごちゃ言われる人、っていうタイプなので。主観的な肯定とか、否定の話しもすると、間違いなく周囲で発生するのは軋轢や、そこから来る怒りの感情なので、しない事が最適解なんですよ。
ほんと、人間って面倒くさい...。
もうそこまで来たので、自己肯定感がとか言われると即座に言葉でぶっ叩きに行きます。うん。そして、言葉でぶっ叩いた結果、相手が食い下がって来る割に行くとこまで行けば「そこまで言わなくても」とか、「そんなに言わなくても」って言われますし、貴方の為を思ってとか言おうものなら、
で?私の何が分かってるのか?本人が納得する物を提示してみてください
という感じで、とんでもないことになります、ハイ。
という事で、自分としてはこんな感じと書いたところで、もう少し触れてみようと思います。
それじゃ、どうすれば?
上手くできない人はどうすればいいのか?なのですが。
自分という存在を自分で認める。要は、自分はこういう人なんだって自認すればいいんですよ。
この、自認の部分を誰かの言説や意見に惑わされると、自認が揺らぎ、自己像にも不安を感じると思います。
そこから、他者の言葉に頼るってのは表面は繕えるだけで、何かの拍子や経年による価値観や考え方の変化などで、ポロっと剥がれてしまいますよ。
人間は阿弥陀様ではないので、他力本願しても救ってもらえねーのよ?
で、この他力本願って仏教での浄土教の教えになってる、自ら修行するのではなく阿弥陀仏に救ってもらうという意味での、阿弥陀仏=他力、救ってもらう=本願という意味だったりもします。
本願寺ってお寺もありますし、その辺を調べるなり触れればあっさり把握出来ると思います。
うん。
誰かの言葉を活用するのは良いと思います。
受け取った自身で考えて、想像して、自問自答してと、時間かけてやってれば定着もします。ただ、時間がかかりますし、その時間は人それぞれですし、急がば回れ、急いては事を仕損じるにもなると思うので焦りも禁物とは思います。
うん。
出来ない事をやろうとするからには、相応の資質や能力、時間などがかかるのは当然だし、それも代償なんですよ。
自分で肯定も否定も自在に扱う事が出来るようになる、という対価に対しての。
こうね。仏教的な話だったり、大罪だなんだ、代償だ対価だと錬金術みたいな事をいうと、正にオタク!我、オタクなりぃ!と思いつつ、
世の中で得られる色んな物を点として、繋ぎ合わせていってると、不思議とこう形を成してみえてくるような感じになるもので。
一定の教義の元に集うなら、否定されるのは仕方ないのですが、そうでなければそれこそ自由に出来てしまうのが人間って話にもなるんですよね。
日本って神仏習合したり、分離したり、廃仏毀釈したりと、それこそ自由にやれるようなお国柄でもあるので、そういう部分の悪い所だけ切り捨てて良い所は活用すれば、思いの外アレコレできてしまうものだとも思います。
付喪神っていう、物に宿る神様なんてのも日本ならでは。
言葉に対しても、韻を踏んだり、語呂合わせしたり、当て字を上手く使ったりとする国でもあるので、応用というのは馴染みやすいとも思いますよ。
捨てる神あれば拾う神あり=見捨てられる事もありもすれば、助けられる事もあるという様な意味ですが、言葉や言葉の意味、世の中の様々な事象も自分で捨てて拾ってして作れば良いんじゃないかなぁ。
そういう感じで、柔軟にやれば良いと、個人的には思いますし、割とそんな感じで過ごして来てます。
まぁ、とやかく口うるさい人が身近にいると大変ですけどねぇ。
あ、自分も言えたもんじゃない、ってのも忘れずに。
追記:大事な事として
あいやー。ワスレテタよー。
色々考える=自動思考が働くタイプなので、自然と気が付いたら、嫌でも考えてる事が多いのですが、そうあると気づける事も多いですし、記事化した以上大事な事を忘れてたなら、ごめんなさいもしつつ、記事も書き足しておかないと......
相談に乗る時は口癖のように言ってたんですけどね。
ということで、大事な事を。
私が書いた記事にしろ、その他にしろ、学校で学んだことにしろ、何かしら外部から得たもので、結果が良い方に繋がったのは半分は自分の実力です。
そのまま乗っかるも、考えて掘り下げてみるも、自問自答してみるも、というのはそれぞれの持ち味だったり、続けてる一環だったり、何かしら自分で考えて判断して、自分にとりいれてるからこその行動、言動になります。
うん。
なのでね。自己肯定なんかも、何かを受け取って自分で何かを選択し、取り入れ、実行し、結果を確認するという様々な行動を自身がやり遂げたからこそ、肯定出来た、という話でもあります。
相談の場合だと、そういうものだから「お前が言ったとおりにしたら失敗した!」というような状況の時に噛みついて来ても、私は(´・ω・`)知らんがなって返すだけだからね、と釘をさすのですが...
自己肯定という話であれば、大した事なくても、自然にやってる事でも、自分はちゃんと出来てるんだ!って自分で認めて上げる事も忘れずに、ね。
最初にも書きましたが、自己における肯定否定だなんて、最終的に取捨選択するのは自分なんですよ。そこにちゃんと気づいて、自分で認めるという自認が出来ない事には、いつまでも揺らぎ続けるし、良くなったと思えば何かのきっかけで逆戻りをする事もあり得ると思います。
そうして、良くない状況になると自責や悲観ってより強く働きもする、と。
うん。
もしこれが、何かのきっかけて気づく事に繋がって、自分で自己肯定だけでなく自認する事を考えてくれればいいだけです。そうして結果が出たなら、きっかけという部分では何かをしたかもしれませんが、最終的に自身を導くのは自分自身。
そして、これも相互作用であって、気付いて物にして、自分で自信をもって言えるようになれば、誰かに伝えて響かせてくれればいいだけです。
そしてその、自分の物にしたからと、伝えるというのが循環。
そこにあるのは、経験や思いや人それぞれですし、全ては伝わらなくとも、自己肯定って自分での肯定なので、意外と出来てるんだって自分と認める事も大事ということが循環してくれればいいかなぁ、って個人として思います。
感受性の問題から、見えてる部分が深い=スタートラインがただただ掘り下げた先というだけで。
ただただ、一人だけスタートラインが前にあり続けるだけなので、先に深い所に行くことができてしまうだけ。
そして、そうあらなくてもいつか、いずれ辿り着ける先が同じになるっていう事でもあるんですね。
時間がかかるし、面倒だし、やってられないかもしれない。というか、そういう事すらも子供の頃から周囲からずっと言われてます。
出来ない、じゃない。出来る自分に気付けてないから出来ないだけで、同じ事は出来ると思います。そしてこの辺を物にするというのは、自分が持つ感受性を自分自身で磨いて、育ててるって事にもなりますし、低いだ劣ってるを気にする暇があれば、自分で磨いて輝かせたり、育てて大樹にすればいいんです。
感受性って、誰でも持ってるから、というのはそういう話としても繋がるんですね。
まぁ、変な話ね。生まれついてそうあったので、おかしいって言われて怒りつつも何でおかしいって言われるんだろう?って、ずーっと考え続けてるんですね。
今は言われなくなりましたが、自分の本質に少しでも近くなっただけ、の部分を出すと「それが過ぎる、それは過ぎる」と言われるんですよ。ぶっちゃけおかしいという言葉が、過ぎるという言葉に変わってるだけ。
なので、幼い頃から変わんねーのよ、ってね。
そしてその中で、私も欲だなんだ見せたりするし、記事なんかね「もうこいつ怒ってるだろw」みたいに、怒りも出すぎちゃうんですよ。
そういうものなのですじゃ。
自信ってなると、表に出し過ぎると叩かれかねないので注意が必要なのですが、逆に出さないではなく、持たない持てないというのも危ういと思います。
その自信の持てない状態がが不安や悩みを自ら呼び込む事になって、深く侵食し続ければ、いずれ自身の精神を病む事にもなろうかなぁ、とも思います。
なのでね、最終的に自分を守れるのって自分しかいないし、私みたいに戦略的撤退するしかないか、これは...になると面倒なので、そうなる前に自分を見つめて、何かを変えて、前に進んでくれたのなら、私の病みも何だかんだで役に立つって話なのかねぇ、みたいにね。
私の方も少なからず救われるんですよ。
それすなわち、考えて変えてくれる人が現れるという事での救いでもあります。
ただ、他力本願は無理なので、やれとか、やった方が良いとか過剰に、強くは言わないです。ただ、少し試してみてくれないかね?その程度。
信じるか信じないかは、あなた次第です!
都市伝説が好きだと、この言葉聞くかもしれませんが、相当に応用が効くし、自信を持つためのワンフレーズに転用できる、とも思います。
オカルトとか、オタクがみる世界も面白いですぞ?私なんて、気にせず宗教関連にも触れるので、他力本願、三毒、七つの大罪などなど、色々扱えるし、それを通して世の中や人間が見えてしまう。
そして、他力本願だけでなく、四苦八苦とか、諸行無常・諸法無我とか、知るだけでも意外と日常に食い込んでるじゃん?って発見も楽しめるんですね。
まぁ、性格にもよるわけなのですが。
うん。長くなったし程ほどで止めておきましょう。
そして最後にもう一回。
何かが変わったのなら、きっかけは誰かが作ったとしても、歩んで道を歩いたのは自分自身だよ。
そこだけは忘れないように!
というお話でござんした。
あとがき
ホントこう、自己肯定、自己否定というのも。
自分で好きにやっておけばいいし、他者の事は好きにやらせとけばいい。
ただ、集団生活の中で問題があるようなら、すり合わせは必要だよねって所なんだけど、なんでこう他者の肯定や否定にとやかく言う様な、自己肯定感って言葉がいつまでも残り続けるのか。
そもそも、肯定のポイントや、肯定の度合いも人それぞれで、ひっそりやるひとはひっそりやるんですよ。インドア派ではないですけど、家で自適に過ごしてるだけで。
個人の経験としても、こう、うっさいだまっとけで軽くあしらってたら、怒りだすし、貴方のためだなんだ言いつつ話を聞かなければ、こちらの言う事を聞けと言わんばかり。
自己肯定感とか、「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」が出来なきゃ相手に響かないものをね。勝手に取り出して、勝手に怒って、言うことを聞け飲めなんてのは道理が通りませんのよ。
相手が聞いて来てる、ならまだしもなんですよ。ね。
ネットで持論を書くのも良いんです。ただ、自己肯定感とか言い出すと、それを見て過剰に不安になってしまう人もいるもので。そうある人に貴方の為だと心の隙間に付け入ろうとしてるだけっていうか、ね。
本当に”他者のためだけに”やってるの?みたいな。
まぁ、自分だけにはノーセンキューなので、ってのをちょっとチクリとやってる所もあるので、それはそれで良し悪しあります。
こうやって、問答形式というか、相手がこう言うから自分がこういうを普段やってると、ホント正しいも間違いもケースバイケースだったり、人それぞれで違うもんだから、一方的にごちゃごちゃ言うのはいかがなものかなぁ、って思います。
とはいえなー。結局なー。
自己肯定感とか、自己なんだから、自分だけでやっとけよって話になってしまうんですよ。それを一々世に出して、これが良い、あれが悪い、こういうやり方が良いってのは、不安の元やその派生による迷いを世に送り出してるだけでしょう?っていう。
知的好奇心とか知的欲求なんかも人間持ってるもので、どうしてもとか、興味があれば自分から動くんですよ。
無駄にあれこれ捏ねて作って、そういう動きが取れない人を育てて以下略、とか考えてるのか、もう既に飲まれて若干手遅れなのか……。
うん。
こういう話も、程々にして起きましょうかね。
という感じで、今回はこれにて。