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”多様性”は、まだ早い

近年...って表現するとどうも堅苦しさがあるから好きじゃない。

という、個人の好みはさて置き。

どうしても普通や一般的と違う、否応なしに見えてしまうというか、見方が意識せずとも深い部分を見てしまうと言うか。

そういう身にとっては、どうしても

「多様性なんて簡単に言うけど、現代ですらまだ扱うには早すぎる」

生物学や進化という部分でも、多様性という言葉は使われる物で、そこには意識も意図も、感情も。下手すれば本能すら関わらず。

何らかの形で遺伝子という設計図とも表現される部分に刻み込まれ、それが後世に伝わって行く形でようやく見え始める、様々な違い。

そういう言葉でもあるのに、個人差や個性という言葉を使わず意図的に多様性という言葉持ち出そうとしてるようなもので。

そんな状態で、多様性なんて使えるわけがない。

そんな話をしてみようかな、と思います。


思考、感情、意思が絡まない部分として。

自然とそうかたどってしまう、身長や体重。

そういう親の元に生まれたが故の、髪や瞳、肌の色。

多様性というのは、そういう、人としての意識=言い換えるなら脳の処理として発生する事が絡まない部分こそ、多様性と言えるものではないかな?

好きでそう生まれたわけじゃない。

でも、そう生まれたからこそ持っている遺伝子によって、そうさせられてしまう。

そういう意味では、未だに「らしさ」という、日本特有な物に沿おうが、反れようが、個人の意思として言葉が紡がれる様な部分は当てはまらないというか。

幼ければ、否応なしにからかい、イジリに繋がる部分であり。

それを受けた側からは、イジメだと感じてしまう部分。

そういう踏み込んだ部分、どうしようもないほどに先天的としての部分に触れるのであれば、多様性という言葉は使えなくもない。

あくまで一つのケースとして。

逆の考えとして、個人としてはそのように「感じさせられるが故に、考えさせられます。」

まぁ、こういう言い分も、どちらかというと、問題提起です。

言葉や概念を流行らせるばかりではなく。

ちゃんと向き合う形で、深く掘り下げて、個人個人がそれはどういう物なのかを考える、想像する

そういう時間が必要だと思うのだけど、どうでしょうか?

という感じです。はい。


まだまだ時期尚早

まぁ、問題提起とはいえ、鋭く踏み込んでるので、痛い所を突かれる感覚というのは感じようかな?と思います。

否応なく幼い頃から、そうあったが故に、他者からいくらでも観測出来た現実なので、想像するに容易い。

一瞬でイメージが浮かぶ程に「考えて無くて、自分勝手で、無責任」という様があるので、痛い所を突かれたと感じてしまい、自己弁護に走る。

まだまだそう言う人が多いと言うか。

テレビどころか、ネットまでそういう人が跋扈するようになったので、毒されてしまってる。

そういう人すらも居ると思います。

自浄作用を働かせられないんですよ、人間という生き物が。

ちょっと一歩立ち止まって、こういう事を言ってしまうと、どういう影響をあたえてしまうのか?

ホントこう、HSPだなんて言葉に飛びついたのは、愚策としか言いようがないというか。

そういう踏み込みを、一瞬でしてしまうからこそ、意識的に考えたり、想像すると、更に深い部分に触れる事が出来なくもない。

言い換えれば、優れた部分。

そうは思いたくないけど、そういう部分からの言動って、それこそ相対する人々が本能的と言わんばかりに、話し合いをするのではなく、何かしらの否定の形で反応すらする。

無駄に、相手側の方が危機感や不安、劣等感を感じてしまってると言うか。

他愛ない会話だったのに、

途端に感情的になって、怒を発露する。

正直、衝動性だ、注意力だなんだって言い出すと、申し訳ないけど、国が予算だして発達障害を調べた方が良いんじゃない?と言わんばかり。

咄嗟に、反応するんですよ。

なぜ、私がそういう事を言ったのか?

そういう想像力すら持ってないというか、扱い切れてないと言うか。

幼い頃から、昭和の頃から。

ただただ見聞きするだけでなく、無意味に言葉を向けられる、過剰に感情をぶつけられる、その他色々ね。

相手側の都合で、寧ろ痛い目を「相手都合で発生させられてた」

そう言えなくもない程に、こう、ね。

感情出し過ぎると、ボロでちゃうんですよ。

言葉だろうが、文字だろうが、文章だろうが。


無意識への踏み込み

どうにもこうにも、いう事が矛盾する。

それだけでなく、もう既に感情としての動作、言動、声の大きさ、雰囲気ほか色々と。

無意識だから、無自覚にしかなれず、自分がやらかしてる事に気付いてないんだなぁ、と。

それが、「見る」だけでわかってしまうからこそ、地と言わんばかりに「人の振り見て我が振り直せ」をやってしまうというか。

良くも悪くも、そういう感受性を持ってるせいで、学んでなくても、人間心理という部分にいつの間にか触れてしまってる事すらある。

研究による体系化された学問とは別に。

感覚的に感じ取ってしまうが故の、個人的な心理観みたいなのをもってるわけですが、意外と一致する部分をちょこちょこ見かけて。

それだからこそ、心理学って面白いと思うし、HSPなんかは触れて学ばない事には、到底扱えないという意味も隠した上での、触れよう、学ぼうなんですよ。

日常生活で意識して抑えてないと、間違いなく衝突しますよね?

こういう話を面と向かって言われたとすると。

こういうのも、既に、経験として様々な状況、環境、人の違いがあるのに、一致するのが不思議と言わんほどに見て来てしまってる。

とはいえ、頭の中は覗けないので、あくまで多分レベル。

でも、不思議と相談だったり、自然としてしまうアドバイスが的中してるどころか、寧ろ相手が驚いたり、それ故に評価してくれたり、色々する事すらも何度となく。

経験してるんですよ。ウン十年かけて。

なので、自分に限らず、周囲が「つい、うっかり」と言わんばかりにやってしまうからこそ、無意識という部分に踏み込んで触れようとすらしてます。

また、その無意識にすら、深さがあるというのも、ね。

把握してると言うか。

だからこそ、意識としても深い所、いわゆる深層とも言える部分の意識に......みたいな話もするんです。

それ程に、強く意識をしていないと、自分すら制御出来ないのが人間という生き物というか。

道具を使う、言葉を話す、文明を持つ。

そういう部分以外として、「理性と知性」を持つなんて言われる、霊長類ヒト科の人間さんなのですが。

理性はどこいったの?

寧ろ文明の発達、その利器の進歩に伴って、楽や目先ばかりを追いかけるようになってしまってると言わんばかり。

退行とか、堕落とか。

そういう言葉の方が、現状に沿ってるのでは?と思わなくもないのですが、どうでしょう?

こういうの。

まぁ、こういう部分も真面目過ぎとあしらわれるわけですが。

それも相手側からの一方的な決めつけ、枠へのハメ込みであって、話を聞きすらせず「異な者」扱いという、差別やイジメだったりもしなくもない

なので、精神病んだほど、と。

何でわかるの?って、ちゃんと話を聞いてるからだ、YO!!

もう少しこう、話を聞く、という無意識でも耳がやってる事すら、踏み込まないと、個人の差を認識できないどころか、認識出来てるからこそ否定にはしるというね。

なんていうかなぁ。

ほんともう、疲れたよパトラッシュ。


二極化は衝突しか生まない

歴史を振り返るとどうしても、こう、ね。

ある種の「良い、悪い」、「正しい、間違い」のぶつかり合いが戦争や紛争であり、場合によってはテロという様な無差別にすら発展しうる。

それなのにまぁ、テレビもネットも、こう。

一方的が多すぎるよねぇ?って思います。

問題となってる部分を取りあげるにしても、両論併記が必要というか。

もしくは、あくまで個人がそうしてるだけ。

まぁ、個人がそうしてるだけってのは、結構難易度が高いというか。感情が漏れるような言動は気を付けなければいけないと思います。

でも、こう、ね?

Twitterなんかはもう、日常的なバカッターになったというか。

個人の理想しか見えて無かったり。

相手が悪と決めつけるかのような断罪だったり。

コロナ過で正義中毒なんて言葉が出てきましたが、それ以前から急激に増えてるんですよ。

ネットという環境にすらも。

個人としてはネットも20年くらい使ってますし、少なからず普及しつつという時期でも「ネットとか、なんか暗くない?(笑)」と言われたりもしてた頃から使ってるので、そういう変化はもう、現実論なんですよね。

ホントこう、自分さえ良ければいいという無責任。

それを、自由とか権利とかに置き換えて、好き好きにやらかしすぎてるというか。

誹謗中傷を無くすどころか、寧ろ、あのような事件が起こる方が当然と言わんばかりに、そういう人達が増えてる。

それだけでなく、触らぬ神に祟りなしというか、日本人特有のなぁなぁ気質というか。

自浄作用が発生しないまま、その環境が維持される。

という、保守的な様が嫌でも見て取れてしまう程。

保守的だなんだも、自分が当てはめたいところだけ、ではダメで。

自分を顧みて、自分はどうなのか?を考える必要が有ると思います。

性格タイプとかいうので、INFJになったから、問題提起型とか言う人も増えてますが、見えてる範囲狭すぎ大問題というか。

実際に現実にある問題点について問題提起してるのではなく。

自分の理想という、主観からの問題提起が多すぎなのでは?と、個人としてはそのように見えてしまう程にこう、言葉に踊らされてると言うか。

HSPにしろ、性格タイプにしろ。

自分自身を顧みれば、それ一辺倒ではない、それどころではないほどに自分自身の心理、精神、思考、記憶、感情という物は難しく絡み合いすぎてて、そこが見えない大穴というか。

開けて見なければ分からない、ブラックボックスだ、と。

そう言うのって、当たり前の様に気づけませんか?

こういう部分に気付けるからこそ、一点からの視点ではおおよそ現実社会で生きていくためには情報が不足し過ぎてしまう。

そういう不足を補う為に、多角的に、様々な情報に触れに行くんです。

そこに「良い、悪い」、「正しい、間違い」という、下手すれば感情が絡んでしまうような部分は邪魔になるので、排除しなきゃいけない。

そうしてたら、嫌でも自分の主観から離れて、自身の視点が客観がわに寄るんですよ。

うん。

老いも若いも。

男性も女性も。

そういう枠や概念、言葉以上に、自分自身としてはどうなのよ?

少し、こう、ね?

幼い頃から、親すら敵認定。

それ故に精神を病んだとはいえ、気を抜けば「大人しくて真面目な人だったのに」を自分がやる可能性があるから、自分で制御もする。

自分が持ってる物って、多角的に見る事が出来るし、自然とそうあったのでそうしてる身なので、こう、ね?

敢えて言わせてもらうとすれば。

楽とか、欲とか。

そういう部分に負けすぎて久しいんですよ。人間の歴史って。

それは今現在でも、温故知新という言葉と、それをきっちり守るという視点を持てば。

歴史から否応なく見えてくると思います。

それを変えるには?

多様性だ、なんだと、言葉だけを持ち出して上辺だけ繕ってたら、散々ツケを残して来て老害と言われる人達と、同じ事やってしまうだけで。

変えるなんて事が、そもそもおこがましいというか。

個人の感情や気持ち以上に、人間という種として、何をどうするのが良いのか?を。

一歩立ち止まって、考えなきゃいけないと思います。

これ、環境問題とか、温暖化も同じ部分を含んでますから。

本当に、危機感感じてからの、流れなんでしょうかねぇ?

人間って不思議です。


あとがき

なんていうか、ほんともう。

単に季節うつというだけでなく。

更に長いスパンで見ると、10年単位くらいで何かしら発生してるような人生でもあるので、ちょうど1年前に...じゃなくて、ちょうど10年前に、うつ病と言われた日が。

ハッキリと思い出されてしまって、あの頃からかわってねえええええええ!!

と。

再度診断がうつ病となり、振り出しにもどるというか、なんというか。

何でこう、前世があって、わたしゃ大悪人でとんでもない事でもしでかしたのかい?と、冗談めいてしまう程にこう、ね。

ぬ~り~か~べぇ~。

壁がドスンと落ちて来て、頭を抱えてしまうというか。

お前の物は俺の物のジャイアニズムよろしく。

俺は良いけど、お前はダメが、未だに直らないからこそ、同じ様相を昭和も平成も見せてくれただけでなく、令和になっても目にしてしまうのね。

人間すらも、その環境に居る人という形で、影響を与えるんです。

だからこそ、環境感受性っていう言葉に触れてみてねっていうか。

そしてそこに、環境感受性理論、差次感受性理論、感覚処理感受性=高い人をHSPという、という色々が置かれて体系化されて形になってる物がある。

それを見て。

感受性って一体どういうものなのか?を考えるだけでなく、追及していこうとする意識も持って。

それで、自分が変ろうとするなら、それこそ先々で自信が付く事で、自然体のHSPとして振舞えるようになるかもしれません。

そうやって、伸ばす事すらも出来るので、ね。

今そうあれば良いではなく、知ったのなら伸ばして上を目指す事すら出来るのは、運動や学力と変わらない部分もあるんですから。

伸ばすか、潰すか。

それは、あなた次第だと。

なーんちゃってね。

とはいえ、伸びすぎると、色々受け取り過ぎもするので、大変にもなっちゃいますけどね。


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