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二極化・二分化の落とし穴

まぁ、その、ね。仕方のない事かもしれないけど。

世の中を見通して見ると、二分化や二極化するのは良いんだけどそこにハマりすぎたがゆえにやらかしてる人って多いんじゃないかなぁ、と思います。

そこに、”そんなつもりはない”という言い訳がましい気持ちも出てしまい、反論されたり、虚を突かれた時にうろたえると言うか。

二極化や二分化は自分が所属する側を変に上げすぎると、反対側に居る人に対しては、下げ、ディスり、蔑みになって刺さるもんなんですよね。

そういうのを少し触れてみようかな、と。


二分化のヤラカシ事例

あくまで、個人が観測したものだけですが。

HSP、非HSPと勝手に二分化したあげく、自分たちは繊細で傷つきやすいんだからと、とんでもない勘違いをやらかす人が出たというのは過去に見ています。

また、ね。

最近だと発達障害に関して発信してる、Twitterのアカウントなんかが、尊大型というのを説明して注意促したかと思えば、定型、非定型で二分化した揚げ句、

過去の偉人やIQが高い成功者は非定型

とか言ってたりもして。これは続きがあって定型の人はこの程度と、そんなつもりはなかろうが、下げ発言してて、確かに尊大型...なるほど、とかそういうのも観測してしまいました。

いやその、過去の偉人ってその時代には発達障害なんて無かったし、診断基準も無いので、特徴からみて今の診断を当てはめたら同等とか、同じ人にならないですから。

そもそも、人ってそういう二分化で示される点だけの要素で、全てが決まる様な簡単な生き物じゃないんですよ。

他にも育ちだったり、その育つ過程での環境だったり、最悪虐待なんかもありますし、兎に角色々複雑さの集合体が人間であり、個人なんですよね。

男女についてすら、性同一性障害だけでなく、性分化疾患とかも触れてみると、ぱっと見た目で二分化してたら、実は違ってましたなんて事も有り得るというのが観測出来てしまうんですよ。

そもそも、個人として受けてきた真面目過ぎ、気を遣い過ぎってのは、逆の方=突いてくる他者側は、不足してる人ではなく、自分たちは普通だ!っていう感じの二分化みたいなものでね。

二分化、二極化って下手打つと自分勝手になりかねない要素なんだってのを身をもって経験するって形での観測もしてるので、一体何やってんだ...に映ってしまうんですよね。


中道という言葉

以前サラッと触れたりもしたのですが。

諸行無常だ、盛者必衰だと平家物語から学んだと思えば、中道というのに辿り着いて、それすらも取り入れようとしてたりします。

中道って、臨機応変とか柔軟に見たいな感じで、単純に偏らないとか、中立みたいに中間の立場とかそういう言葉ではないようで。

質問箱から僧侶の方に質問したりもしてみましたが、相当に難しいようです。

自分でも、そういう言葉を意識するとすっごい難しさを感じてしまいます。

どうしても、感情を持つ生き物でもあるので、喜怒哀楽によって柔軟さというか、縦横無尽さというか、立ち位置を自由に動かせなくなり、縛られるって事も多いんですよね。

うん。

そして、この中道って言葉を意識しだしてから、善悪二元論とか、二極化や二分化というのが、すごくこう苦手というか、なんというか、避けるようになってしまってる自分も観測出来ますし、それをぶつけられると、カチーンして、まてまて落ち着けって自分で怒を抑えに行く事って凄く多くなってたりもします。

まー、こういうのを子供の頃からやってたら、そりゃ「〇〇くんって、修行僧みたいだよね」とか言われるのも、当然と言えば当然なんだよねーって自分で溜息するくらい。

とはいえ、そうあるからこそ、自動思考を活かして常に考えたり、自問自答したりとかも、しちゃってるというのも否めなかったりします。


肯定・否定の話

先日書いたのも、そういう部分があるからなんですよね。

肯定も否定も、二分化とか二極化みたいなもので、変に拘ったり取り入れ過ぎると、物凄く足元の土台が揺らぐんですよ。

こんなタイプなので、何かの拍子に周囲と言葉をぶつけ合ったら、足元削ってるなーこれは、とか感じたりする事もありますし、その証明と言わんばかりに相手が感情的になってるという事も多いです。

というか、肯定とか否定とか言うから問題なわけで、自分上げ、自分下げと言っても過言でもないと思うんですよ、個人的にはね。

また、自分上げをしとけばヤケクソであっても、意外と気持ちが浮かなくもないし、下げれば気持ちが沈みやすくもなります。

なので、し過ぎる様なら、バランスを取る、匙加減を調整する事も必要になるし、それを誰かの言葉に頼り過ぎてるから、こうしなきゃいけない!みたいになって、自分を苦しめてるだけというか。

そう言うのも、見てるだけでも分かってしまいかねないし、その場では取捨選択して出さなかったりもしますが、その分やっぱりこう掘り下げてしまう事にはなるんですよ。

他者の事だけど、どうしたら負担を軽くしてあげれるのかねぇ?って。余計なお世話になる事も多いですけどね。


観るという事

見るではなく、観るとなってる程に、嫌でも観測、観察がなされてしまう感じなので、目で見てるようで観てるって事も多いです。

観測、観察なので、幅広くとか、より深く見たいな感じ。

なので、カウンセリングでも突っ込まれるというか。それが個人の普通としての観るなんですよね。

そうあるからこそ、気付いて驚かれるし、途中で切り上げもしますが”ほら言わんこっちゃない”も起こり得てしまうと言うか。

偶然とはいえ、個人の体験、経験やその記憶の中ではもう一致もしすぎてて。それでも、有りえないからって否定して、必然にはしないんですけどね。

こういう部分は負担だったり、病みの一部だったりします。

こうやって記事化してても、伝わらなかったり、胡散臭かったりするんだろうなぁ、とは思う物の、これが幼い頃から自分にとっての現実でもあるし、おいそれと他者から崩される事がない自分の土台にもなってます。

だからもう、色々面倒くさいなぁ、とぼやいてしまいもする。

正直、エルフの隠れ里じゃないですが、自然の中でぼーっと出来る様な環境でもないと、常に四苦八苦してしまうんだろうなぁ、というのも薄っすら感じてたりします。

この、四苦八苦ってのも、仏教的な説明読めばナルホド...するかもしれません。

そういうつもりは無くとも、言葉の意味を知ると、そうなってしまってるんですよね。

自分自身が。

とはいえ、そういう宗教的要素も取り入れてますが、ガッチガチの信者とかそういうのでもないので、悪しからず。

単純に学んで取り入れる。人生学びの連続ってその通りだなぁ、をその時々で実感してるというだけだったりします。


それが自分なので

そんな感じで、それなりにはしっかりした物を持ってる物の、人の世のそれに当てはめようとすると、どうしても合わなくなってしまうと言うか。

今年に入ってから、生まれるのが早すぎたというのを病院で言われたかと思えば、就労支援での相談員さんだったり、その他数名からも言われてるんですよね。

実際問題、幼い頃というか1歳時点で有りえない察し、気づき見たいな行動を示してたわけですし。

というか、後出しじゃんけんっぽくって申し訳ないのですが、生まれる時すらそうあったんですよ。

不思議と、二週間キッチリ予定日からズレて生まれてきたわけですが、その間うんともすんとも言わなかったのに、いざ帝王切開しましょうってなったら、気づいたのか反応しめして生まれてきたとか、そんな感じで。

これは言いかえれば、母のお腹から出てくるころにはもう、そういう部分を持ってて、いつもったんじゃい!っていうね。

相当に過去の話だし、偶然というだけかもしれないし、でも1歳時点でのおかしさを知ってしまった以上、私の中では繋がってしまった話だったりします。

弟が4月、私が5月の生まれなので、十月十日逆戻しすると愛着が形成されてる終盤にそうあって、自分から構わなくていいから休んでてと、一人で過ごす事が増えてしまってる、なんともまぁおかしな人なんですよね。

と、書いてみると、愛着障害なのかもしれぬ、とは思いますが。

その辺は感受性でカバーしてるのか、共感って部分で上手くカバーしてたようにも思いますし、そうあるからこそ寧ろそうあってもちゃんと愛着もってるんじゃない?っていうね。

そういう何ともまぁ、不思議な感じもあったりします。

そうでなければ、母親に対してフォローとか、手伝いとかしようとしなかったとも言えるでしょうし。


とはいえなー。

そうなると自分に対しての謎が深まるばかりっていうか。何とも言えない気分にもなるんですよね。

まぁ、必要以上には悩まないけど、考えはするって感じでもあるのですが。

そう言う部分も、自分が自分であるからこその物、という捉え方もしてます。ハイ。


あとがき

なんかこう、どうにもこうにも、自分自身が余りにブラックボックス過ぎると言うか。

占いなんかを頼ってみても、現実を見る、というのがキーワードで上がってきたりもしたのですが、現実ってもどの現実を見るか?が結構な課題だったりもします。

感受性というか、物の見え方として「現実を深い所で見つめすぎ」とカウンセリングで言われたわけですが、それが自分でも普通だし、何で気づくの?何でわかるのみたいな質問や問いも多い方なので、もう何かがぶっ飛んでるってとらえきれれば楽にはなれそうなのですが...。

なんかこう、普通で居なきゃいけないって自己暗示を幼い頃にかけたのが強く残ってるのか、普通でないとされそうな部分、今までに周囲からされてきた部分、一般的という視点からでのおかしな部分に対しての受け入れって、相当に拒否が強かったりします。

ただまぁ、そうあるから、今の世の中って合わないし、そもそも子供の頃から合ってない部分がホント変わらない感じなので、最近はもういっそどこか遠くに隔離してくれないかーみたいなぼやきも、実際に聞いてもらってたりもします。

生まれる前=母のお腹にいた頃も、胎教だなんだ言われると、もしかしたらどころではないくらいに、「長男で跡取り」ってのを言われてただろうなってくらいだし、メンタル病んでてどうにもならないときですら、それを理由に社会復帰を突かれたりして、引きこもってても休まらなかったってのは、自分としては感じてる所で。

それでも生きてかなきゃってあがいてもがいてして、ここまで来たけど、それもまた、相当な物と最近話せるようになった人からも言われる様な状態でもあるので、結構ね。

しんどいんですよ。

という事で。


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