多様性について語ってみる
若干、個人として見てきた物という、経験談も入るのですが。
よく見聞きするようになった、多様性という言葉。
こういう言葉が取り上げられる事は良い時代になったと感じる反面、現状では多様性なんて扱いきれない、という疑念がどうしても拭えません。
と、言うのも、この言葉すらも、
自分ないし、自分と同じ思想理想の人に向けて使われる事が多く、次なる大義名分、身旗印にしよう
そう言う動きがどうしても観測出来てしまうんですよね。
結構前に、ネットの普及から個人情報やプライバシーという言葉にも目が向けられたわけですが、これも同じ様に、
自分にとって都合がいい、自分たちにとって都合がいい
そう言う扱いになってしまい、現実の問題として何がどうあって、個人情報やプライバシーが問題になるのか?という、根本の部分が無視されてしまい。
自己保身の為に使われる機会が多くなった...。
そもそも個人差すらろくに扱えない、自分と違う他者に対しては個人差の外として不満ほか、ネガティブな感情をぶつけるばかりというのが現状でも見て取れてしまう。
こんな状態じゃ、言葉を新しく持ち出すばかりで、ストレスが増えるだけの社会、世の中にしかならないでしょうに...と個人的には思います。
そう言う部分から、少しばかり多様性という言葉に触れてみようと思います。
多様性とは?
そもそも、多様性という言葉は何を示すのか?と調べてみたわけですが。
便利ですねぇ、と言わんばかりにこういう検索結果が出てきました。
Wikipedia先生の難点は、学術的とまでは行かないまでも、意外と難しい表現や言葉が使われてる所。
なのですが。
個人的には、そういう部分に対して知ろうとする意志がなければ、言葉を扱う事がそもそも無理、というスタンスでもあるので、敢えて利用しています。
ホントね。リンクだろうが、直接検索だろうが、どうしても知ろうと追及したくなるし、それ故に自信の感受性は未だ成長中かもしれない、と思うので刺激として利用してます。
という、個人の事情はさて置いて。
多様性となると、一見字面から個人差とか人間色んな人が居るという部分に行きそうですが、どうやら違うようです。
こういう違いもね。有耶無耶にされた揚げ句、都合よく利用されもするので知っておくに越した事はないなぁ、と調べてみて気づかされました。
また、そういう難しさから、個人差とか個性とかいう言葉が既に認知されてるし、使われる事もあるのでそれを使えば良いと思います。なので、敢えて多様性という言葉を使わなくても良いのでは?という疑問も同時に浮上します。
うん。
実際問題として、個人としては幼い頃から、その個人差とか個性という部分も周囲が都合よくあつかって、出る杭は叩くぞ!と言わんばかりに叩かれてきたというか。
未だに叩かれもしますし、言葉のキャッチボールとしてのコミュニケーションの不成立という物をそういう部分から感じさせれます。
明らかに違うので私に問う。
でも説明を聞くと自分との比較から、逸脱してるとしか思えない。
そうあるから、お前のそれはおかしい、普通じゃない、だから有り得ない。
生まれた時から見てきてる親ですら、こんな感じです。
自分たちと違い明らかに過ぎてるから確認しようとした割に、違いが過ぎるからそれはないというのは、どういう矛盾ですか?いい加減個人差だ個性だとして扱ってくれ、というのですが。
不思議と叶わないもので。結局就労支援のA型作業所から離れたのも、そういう扱いで結局ストレスが増加し、症状が悪化したからこその戦略的撤退というのが大部分です。
そう言うのを幼い頃から、そして未だに、社会という人が集団を成して生活してる部分に出てしまえば、嫌でも好き勝手に扱われるので、敢えて人と交わらない環境に逃げ込んでるのが現状だったりします。
まぁ、幼い頃からどうこうだけでなく、現状がもうそうやって自分から避けない事には回復や療養がままならないという状況にもあって。
多様性とか、扱えるわけないのに、何で持ち出してくるの?(笑)
メンタルを病んだ原因、その深い部分を話しても、病んだ結果がそこなのにまだまだ足りないとか言われたら、潰れるどころではないって言ってるのに。
ほんとやれやれです。
プライバシーや個人情報云々
個人情報保護法、という法律があります。
これも成立に向けては色々あったんですよね。
政治家が保身の為に設定しようとしてる!という、何を根拠にそんな事言うのか?という流れもありましたが、それだけではなく。
そう言う言葉を知ったからと、自分の都合や目先だけを見て、プライバシー!プライバシー!と叫ばれる姿もよく見かけてました。
相手が何故そう言う言動や行動を取るのか?というのはおかまいなし。
自分に不利益、自分にとって不都合、そういう物に反射的、衝動的にプライバシーの侵害!と言葉を荒げる人が多かったんですよね。
で、そういうタイプの人程、社会や学校、国の政治に不満をもらし、子供の為にもっと良くしろ!と言い出す始末。
どんなに社会が良くなろうとも、年齢次第では子供にとっては親が絶対という部分もあるので、親が面倒を見れなければいけないと思います。
個人としてはメンタルを病む以前から”自分は親になれるのか?”と常に考えてた結果、機会を逃して今があるという身なので、まずは社会よりも親でしょうに...と嫌でも思ってしまいます。
結局そうやって求める割に、プライバシーの侵害!他人が口を挟むな!と地域や社会を否定し続けた結果、生まれたのが分断です。
そういう様子を見てた人は今でも、もっとこう...という部分があっても口を挟まないでしょうし、親のそうある姿を見て育った人も、余計な事を言うと相手が怒るだけかもしれない...と控える人も多いのではないでしょうか?
地方に住んでると、今でも少なからず我慢はして近所と接する、という様子は見受けられます。昭和や平成初期ほどないのですが。
ただ、都市部に行くと、こういう部分は顕著だと思います。
こういう分断を生んだ結果、親に相談出来ないという事を近所の人に相談するだけでなく、親には話さないように内密にやってもらう事でのストレス軽減という効果が得られなくなったんですよね。
子供の為、子供の為と言いつつ、寧ろ逆の結果を生む事になったのも、そういうプライバシーや個人情報という言葉の取り上げ方、扱い方が影響してると思いますし、メディアが助長したと言うのは否めない一面であると思います。
多様性とはなんぞは?
人間については、どうしても生まれてくる子供に何らかの支障がある、という部分だけでなく、倫理観という部分から敬遠される部分ですが。
自然界に目を向けると、やはりそこは動物なので案外普通の事だったりします。
ただ、結果として発生するのは、遺伝子の多様性が失われる事。
同じ遺伝子ばかりを重ねたところで、弱い所は弱いままになるし、それが時折悪い形でも出てしまうので、結果として種の存続が危ぶまれるという状態を招く可能性も出てくるそうです。
免疫だけでなく、体の作りなんかも遺伝子による部分があるので、より多くの遺伝子を組み合わせた方がより強い存在が生まれるというのも、進化や遺伝子を残すという部分に自然と刻まれてると言うか。
犬を飼った事がある人なら、血統書付きより雑種の方が病気も少なければ長く元気で過ごせてくれる、というのを聞いた事があるかもしれません。
実際の根拠とかは不明ですけどね。
血統書というのは血が混ざる事を避ける為に得られる物で、そうなると反面として多様性が失われる事になるんですよね。結果、どうしても他の遺伝子から取り込める強さという要素がなくなり、何かしらの難を抱えてしまいかねない。
こういう部分が、多様性、という事になろうかと思います。
なので、違う人、色んな人が居るという話でもなくなるんですよね。
加えて言えば、交わればすぐに効果が出る物でもなく。
進化の実際は色々謎も多いと思いますが、長い時間をかけて重ねたからこそというのは否めないものです。
そう言う部分を考慮すると、多様性なんて扱いきるには長い時間も必要ですし、それこそ枠や固定概念を打破しなければ、人間には成し得ない物、扱いきれない物だと、個人としては思います。
うん。
なんか、くっそ真面目になってない?
キャラじゃないんだけどなぁ...。
あとがき
という事で、多様性という言葉について、出来る範囲で深掘りしてみました。
そもそも、個人差とか個性という言葉すら扱えてないのに、種の多様性、進化の多様性という扱われ方もする”多様性”なんて現状使い切れる物じゃない、手に余ると思います。
ホントこう、ね。
HSPや感受性の話で、どんなに差があっても、それはもうコイツはこう言うやうだからという、個人差や個性として扱われないという事を経験として触れがちですが、未だに続いてて、どうしてもネガティブな刺激や影響を他者からぶつけられ易いんですよ。
そう言う身でもあるので、多様性よりもっと浅い所にある言葉をまずしっかりと...と思うのは、個人として当然の所だったりします。
人として本能的に優劣を感じてる、なんてのはお前何様でもあるのですが、実際問題として、感受性として気づく、感じる部分について違うと気づいてるのに、自分たちと違い過ぎると抑えつけられるので、そういう所に辿り着いて当然なんですよね。
「なるほど、そこまで違うんだね」という事になった事が一度もありません。
状況や相手の気分次第で、凄いと褒められもすれば、それはおかしいと、気づいたのが同じ人なのに矛盾をぶつけられるんですよ...。
加えて、言いたいから言っただけ、自由の内としてるせいか、発言に責任を持てないと言わんばかりに覚えてないから質が悪い。
人それぞれ違うんだから、個人差だからと言ったところで、違い過ぎるから有り得ないって、ね。
メンタル病んでて治療しに行ってても、受容されてるという事にして、こちらが気付かれないように踏み込んだ受容をするというのは、どういうことだってばよ...です。
うん。
こういう話をすると、どうしても愚痴っぽくなる。
でも、何とかしたいですよ。うん。
お涙頂戴っぽさが出てしまうので、敢えて触れないようにしますが、原動力というような部分には、そういう経験もしちゃってるのでね。
個人としては自分で向き合えなくもないけど、辛いもんは辛いです。
また、不用意な発信から、巡り巡って他者が何かしらネガティブな物を感じてる様子というのは、自分の事以上にやりきれない気持ちにもなります。
なのでね。
正しい間違いではなく、見て知って、調べて考えて、そして想像もする。
配慮や気遣いすらも、そういう学びに相通じる部分がないと出来ない物です。
口うるさいとは思いますが、個人としてはそういう事は主張していきたいかなぁ、と思います。
という事で。