人の数だけ自由があるからこそ
自由とはいえ、そこには主義、主張が入ったり、個人個人で違う価値観という物が絡む物で。
そして、その様々に違う、人の数だけ微妙にずれて違ってしまうからこそ、
「自由同士がぶつかり合い、ある種の争いになる」
更には、そういうケースでも「勝てば官軍負ければ賊軍」と。
負けてしまえば、責任追及されるのもやむ無し。
それが人の世です。
自由にやるのは良いのだけど
やったからには、自分のケツは拭けなきゃいけない。
というのも、冒頭で書いた通り、自由は良いけど違う価値観を持つ者同士の自由は、「時として争いを発生させる」ものです。
正直、個人としては「自由も面倒くさい」です。
馬鹿馬鹿しくて仕方が無いし、自由という言葉を振り回すばかりで、暴言や罵詈雑言が溢れるだけでなく、誹謗中傷による自死も事件にもなったわけで。
その結果としての、侮辱罪厳罰化、と。
これは否めない、と個人としては見てます。
こういう侮辱罪厳罰化に対しても、政治家の都合が良いようにとか言う人いましたけど、
「ぶっちゃけ、そういう人達が普段からやらかしてるから・・・」
ここで書いて表に出すわけですが、それ程に酷かったです。
時の総理に、現状への対応の部分で”殺人者”とか、ね。
いくら自由とはいえ、事実無根な事を言ってはいけない。
とはいえ、政治家というのは国民が選挙で選ぶからこそ、反論もしないんですよ。基本的に。
そういう発言も、国民からの意見とか、国民がどう捉えてるか?を測る材料にもなるわけですから。
とはいえ、一部、過剰とも言える程。
下手すればTwitter 中毒なのでは?と言わんばかりに、自分の思想や主張に合わない一般の国民に噛みつく政治家もいますけどね。
そもそも、政治だって同じ政党であっても派閥があれば、そこでの牽制だなんだというのもあるし、だからこそ表には出てこない方=政治家も多い。
そもそも、総理大臣の一任で全部が動くようなら、それは民主主義じゃないんだよ。
法の下の平等も自由も、ね?
法で保証されるばかりではなく、法によって規制もされてる物です。
都合のいいところばかり、見 る な !
だからこそ、罪を犯せば裁判を通して、刑法に基づき裁かれる、と。
法で自由が認められても、他者を害してはいけない。
害するのも、言い換えれば自由なんですよ。
時代によって様々な変遷があり、その流れの中では大きく変わってしまった物もあります。
仇討ちとかね。
昔は、仇討ちしない方がおかしい、という価値観が蔓延ってたわけです。
でも、時代の流れと共に、法治国家として形態が定まってくると、
「どんな理由があっても、仇討ちと称して害するのはよくない。法によって裁かれる必要が有る。」
という風に変って今に至る。そういう物です。
自由って、度が過ぎれば裁かれるんですよ。
でも、加害してないから。
なんてのは、それこそハラスメントという部分とぶつかり合います。
イジメにしても、受けた側が苦痛を感じるか?が焦点になりますしね。
また、個人としても、
「そんなつもりはない」
という一言で、ね?
相当にやらかされてます。それこそ親からすらも。
また、余りに酷い環境でもあったので、今では人によっては、
「流石にそれは酷すぎる」
周囲が自分の主張をする自由を行使するばかりで、言うは易く行うは難し。口ではペラペラ言う割に、自分がその行動を取れてない。
それに対して、今では通院の際「客観視が強すぎ」と主治医に言われるも、そこが個人としての普通というライン。
その、客観をもって対処してたわけです。が・・・。
結果はというと、
どうしようもないほどに複雑で根深い。それ程のうつ病なので、まずは休みましょう。
うん。
客観が強いので、ね?
「それは自由ではなく、ただの我儘だ」
という部分を、図星突きすぎて痛いほどにほじくれもします。
余程が無い限りしないですけどね。
だって、面倒だもん。
言うのは良いけど、言われるのはヤダヤダ!が多いですから。
責任は自由の対義語ではない。それは確か。
あくまで、日本語として。
対義語というものが存在するわけですが、その中では、
「自由に対しての対義語は責任ではない」
という、ね。
自由に対しては不自由ですから。
でも、不自由という言葉にも色んな意味があり、好きにやるやらないではなく、様々な事情から何かしらの難しさを抱えてる人にも適用されたりします。
そこは、配慮とか、思いやりという部分。
席を譲りましょう、というような。
正直、自由も良いけど、自分と違う他人と生活するのが社会です。
家族ですらもそうなので、自由にやるばかりだと衝突してばかりだと思います。
親は子供を想ってるという部分から「勉強しなさい!」というわけですが、子供は親の理想を叶えるための道具じゃないです。
そこは、本来なら話合えれば?と思いもしますが、それは難しいでしょう。
また、子供もそう言われると、「イチイチうるせーよ」と。
好きにさせろというタイプも居るわけです。
ですが、こういう場合も度が過ぎると、自由を行使しすぎたからこそ、社会に出る時にはスタートラインが後方になりもします。
結果、自身の自由の行使でそうなってるのに、そこは認めず、社会が悪いだ、親ガチャみたいに親のせいだ、と。
自由って、行使するのは良いですが、しすぎるとやっぱりみっともないんですよ。
親が優秀だったとして、子供の将来が約束される、なんてのは、子供自身の頑張りもなければダメです。
親が社会を牛耳ってて相当に権力を持ってる。
だからこそ、より充実した環境や立場におかれても、歴史上では暗君、と。
国そのものを無くす、権力を失う、命を奪われる、と。
自由っても、楽をしてばかりだと、自分で自分の首をしめてしまうわけです。
こんなの学校で歴史を勉強するし、世界史なんかも少しでも触れれば、普通に見えますよ?
今でも、権力に胡坐をかいてしまったせいで、逮捕される政治家とかいるじゃないですか。
一体、普段から何をどう見てれば、自由に対して責任を取る必要がないとか、言い出す人が出てくるんでしょう?
ホント不思議。
それは、犯罪だから。
いやいやいやいや。
自由ってね?
自分の権利とか、そういう部分も含みますし、権利の為に悪さをするから罪と。
イジメなんかでもよくある「あいつ変ってるから、からかってやろうぜ!」なんてのも、個人としての楽しみの為に、自由を行使してると言い返れるものです。
個人の楽しみを楽しむという、自由も含まれる行動ですから。
そもそも、正義と悪という部分にも。
自由と権利というのは含まれますし、だからこそ大義名分という言葉すら存在する程ですよ。
大義名分=自分たちの自由や権利を求める。
だからこそ、時の権力者が横暴働けば、革命だ、一揆だ、下剋上だ、と。
今さえ良ければいい。
自分さえ良ければいい。
その結果生まれるのが、イジメだなんだだし、最悪自死まで行かなくても、
「されたからこそ、精神疾患を抱えてしまってる」
そういう人も居ますし、少なからず心に傷は残るもの、です。
なので、イジメが事件になると、様々な自由から、様々な発言も出てくる。
でも、そこにあるのは「混沌」と。
自由も、責任も、正義も。
必ずしもという、絶対はないわけです。そして、そうあるからこそ、自由同士の衝突も生じる。
そして、ケース次第では冒頭でも書きましたが。
勝てば官軍負ければ賊軍
対義語云々ではなく、それこそ人の在り様という部分から、責任を追及されてしまうし、今の世の中そう言うの溢れてるでしょ?
自由とはいえ、相手を蔑み過ぎると、誹謗中傷。
あれだけ騒ぎになったというのに。
自由という言葉って、そういう危険性も持ってるから、
「扱いには注意をしなきゃいいけない。」
ハサミや包丁と変わらない物です、よ!
あとがき
ぶっちゃけた話。
見えてるラインが違い過ぎる=現実の見つめ方が深いとか、客観視が強いとか。
精神科医や臨床心理士という、ね。肩書持ってて仕事してる人に言われるわけなので。
個人としての、発言、その自由を行使したら、ほんとこう、ね?
結構酷い事になります。
正論並べすぎてて怖いと周囲に評価されはするも、自身としては「客観的に事実を指摘しただけ」という感じで、ね。
あくまで個人の判断とか価値観からの話だから、正論とかいわないで?
そもそも、言ってるつもりがないが故に、個人の発言レベルなのに「正論とか持ち上げ過ぎ」ですから。私の方は。
だからこそ、「言葉は凶器だし、ハサミや包丁と同じ。使いようでは人の命も奪える」と。
それ故に個人としては、自由も良いけど、人として自制もする。
それこそ、理性を用いて。
我慢もすれば、耐える事もやります。
そういうタイプからすると、自論だけで、現実に対する客観的な視点が欠けた様な話は、ちゃんちゃらおかしいですし、
正直、呆れます。
誹謗中傷にしても、イジメにしても、
「まさか命を絶つまでとは、思いもしなかった」
自由を行使しながら楽しんでたら、相手は自ら命を絶った。
これが、イジメや誹謗中傷が抱える一面です。
馬鹿馬鹿しい。
こうなれば、自由ではなく罪に置き換わりますから。責任追及されるわけですが。
「言われてる相手の事全然考えてない」
自由って下手すると、今が良ければいいという部分からの、大きな落とし穴を持ってる物ですよ。
ほーんんとこう、センセーショナルに報じられると。
善だ悪だと断罪したり、外野から石を投げる人が居る。
自由には怖さや、恐ろしさもある。
そう気づけないのは、何故なんでしょう?
人間って不思議。