現実の見方、点と面
個人として、すでに自然体とか、自然体だからこその普通に「見える」が違ってしまってる。
見えるというより、目という感覚器が、視覚として得る情報について、細かかったり、突っ込んだりしたところまで拾ってしまえてる。
それこそ、凡そどころか病院でのカウンセリングですら指摘される程に「深い部分」が自然と視覚で拾える範囲なので、ギョッという一瞬の隙きも見逃しません。ええ。
想像を自分レベルや人間レベルでやるのではなく、においであれば熊や犬の様子からも情報を得てたりするので、人間の中どころか、同じ世界同じ現実で生きてる生命の中では、
「上がいるじゃん?何いってんの?」
と、自然界レベルですらも、自分を評価すらしてもいる。
それ程にね。
見えてて当然なんですよ。見えるって所に絞るだけでもおかしいんだ。
兎に角、点の情報が多すぎ
そして、応用がきかず、得た情報を点でしか扱え無さすぎ。
ま、HSPブームなんて、自分は特別みたいに言いたい人が、自己愛こじらせちゃってるのも側面よね。
敏感だろうが、繊細だろうが、比較もされるというのに、他者との比較を挟まず、”自分に当てはまる部分を強引に当てはめに行ってるくらい”ですし。
HSPという言葉や、そういうタイプが見せる敏感さや、繊細さ、これらがどういうものなのか?どういうレベルなのか?と。
点を繋げて、面に変えて、幅広い内容、幅広い情報として扱えないから、心理学上の概念で言われてるような事が出来ない、と。
そしてそういう人が発信してしまってるから、点どころか、怪しい点だらけにすらなってしまってる。
そして、ちゃんと見据えた上で、理性が働けば、
「流石にコレは、ちょっと待ったを言わなきゃいけない」
ってなるものだと思うんですけどね。
ホントこう、感情にしても、五感にしても誰しも自分の体に持ってるのに、なーんで、こんなに、
「扱いきれず持て余してるんでしょうね?」
自分だけ見て、周囲との比較を挟まない。
だからこそ、自分ばかりに固執して、それこそ人や集団、社会という話に変えても”個人という点でしか扱えてない”という、ね。
全然見えてないことを、自ら証明して墓穴を掘る、と。
人間社会なんて、個人という点が集まった、面どころか立体ですよ。三次元です。
こうやって、話を広げることも余裕なくらいに、「見えてるからね?」
何故、比較をしないのか?
真面目、優しい、人がいい、ほか色々。
こういう評価って自分から言い出す人はそうそう居ないし、居たとしても主張するようなら、周囲から比較をされてしまう。
いくら諸行無常とはいえ、人間の心理というのは、育つ過程での色々が挟まるので、望まずとも維持されるもんです。
だから、人間社会なんて、いくら変えても、保守的なんです、よ!
ってね。
「歴史に刻まれてる、過去と比較すると、同じことやってばっかりなので」
世相や、時代背景という違いはあるものの、人間が根本的に変わってないから。
だからこう、いつまで経っても正義を掲げあってぶつけ合う。世界情勢として、いまやってますよね?
これだけ、平和だ平等だと言葉が飛び交うのに、蓋を開けて社会をみてみれば、そういう出し抜き合いや、足の引っ張り合いなんて、ゴロゴロころがってて。
より良くより、自分たちさえ良ければが溢れてるんですよ。
だから、何も変わらないし、変えられない。革新を謳ったところで、自分たちの利益、自分たちの得を考えてるだけでなく。
違う意見を出す相手。それをちゃんと受け止められないからこそ、自分たちの利益や損得ばかり勘定して事を変えていくだけ。
だから、「根本が変わらない」
治療で言うなら「根本治療が出来ていない」
寛解=あくまで現状落ち着いてる、という表現もされるガンと同じで、忘れた頃に病巣が出来て襲いくる。
そういうのと、変わらないぞ?
だからこその「人間なんて、地球という星に存在するがん細胞」と。
ガンと同じだ、そういう表現をする人も出てくるという、ね。
今どき、ガンってどんな病気?を実際の映像を通して、知るだけでなく学べるというのに、情報を活かしきれないからこそ・・・。
可愛そう、辛そうと。表面的な部分の感情論止まりになってしまう。
うん。
だめだこりゃ、なんですよ。
そういう人たちが自称する、その違和感
HSPブームもよーく見てみるとそういう、ね。
言い出しっぺが言った「繊細さん」も無責任なら、それを真に受けて自称する人も無責任という、無責任のオンパレードですよ。
繊細とはなんぞや?
人が見せる繊細さとはどういうものなのか?
果たして、自分に出来ていることなのか?周囲にはどう映ってるのか?
段階的に掘り下げてないのに、掘り下げが出来るとか、勘違いしてる人も出る始末。
感じるにしても、感覚器が影響をうけるにしても、そうやって掘り下げてくのが当たり前なんですよ。
「だって、自分が異質扱いされるから、何故そうなるのか?が当たり前」
なんですよ?
光からの影響の受け方だけでなく、”色の見え方”、そこからくる”表現”が異質。
こういう部分から連想されるのは、クリエイティブさ。絵やデザイン、色使いと言う部分での評価にも繋がてます。実際に。
音やにおいは”知覚出来る範囲が広い”、”だからこそいち早く”、それどころか”細かすぎと言われる程なのにほぼ正確”。だからこその異質ですよ?
こういう部分は、検知や察知、危険予知やヒヤリハットという、ね。
それを意識しなくても、「自然体がそうある」と。出来てしまってる姿を見せてしまうから、周囲がざわつく。
そして、それを先んじて周囲に知らせもするから、真面目だ、良いやつだ、面倒見が良いだ、なんだかんだ言われもするくらい。
特徴、ですからね?
自分から当てはめなくても、勝手にハマるんですよ。
特徴って、それこそ第三者としての研究者や医師が見立てて判断するというものでもありますし。
そういう他者からの評価も間違いなく挟まれるので、ね?
自称だけじゃ不足するんですよ?
そして、人間社会や集団の中で生活してると、そういう異質さが浮き彫りになるし、嫌でも、良い悪い関係なく何かしら発生しますよ?
「もう分かったから。異質でもなんでもいいから。でも、実際にそうあるでしょ?だから、そういう人として放っておいてください、お願いします。」
そうある自身としては普通の生活をしてるだけなのに、周囲がざわついて放って置いてくれないから、嫌でも浮くんですよ。
それこそ、出る杭は打たれる。
「自分が感じてる生きづらさ」とか、主張する必要もないです。普段の行動、普通の行動が嫌でも、人の域を超えかねない。だからこそ出る杭として打たれるのも日常になりますから。
自己評価以上に、他者からの評価=比較をもって説明できる。
そうあるなら、当然。それこそ自明の理。
それなのに、「生きづらいという言葉から、自分が当てはまる生きづらさ」を持ち出して自称するなんて、違和感しか生まないというのに。
一体何をやってるのか。
情報ではなく、その情報の元となる現実をみなさいよね。
そうあるからこそ把握できる悪い部分も必ずあるし、なにはともあれ島国という、閉じた国であるからこその風潮も影響してますし。
日本で生きづらくなるのは、当たり前なんですよ。
嫌でも「みんなと違う」と言う理由で、出る杭になってしまうし、だからこそ周囲や他者からの評価を使って説明できてしまうんですよ。
ホントこう、自分だけ、周囲だけ、ではなく。
自他共に見据えられないと、違和感を生むだけですよーう?
点から面、面から立体、三次元ですぞ?
そうなんですよ。三次元で生きてるんですよ。
目に見えるものだけがそうでもなく。
客観視という、ね。相手の立場に立つからこそ、物事って多角的に見ることが出来るわけで。
多角的に見る=いろんな側面が見える=見える面が沢山ある=立体
応用をごちゃまぜにすれば、なるほど三次元。って納得できませんかねぇ?
そういう「見え方」が当たり前レベルなんですよ。それこそ、幼い頃から。
だから時折、説明すらもした上で、
「なんで見えないの?」→「そんなの見えてるのお前だけだよ」
という、ね。
これが相談や教えるという状況だとポジティブに働いて、仲裁だと怒ってる側にはネガティブに働く。
ポジティブも、ネガティブも、自由自在ですのよ?
というか、自分自身の事なんですから、疲れてるだなんて表面的な話出はなく。
何がどうあって。
どういう関係性が働いて。
結果として何が生じてるのか。
段階を踏みつつ、細かく細分化しながら、元がひとつの出来事なので。
話を広げもすれば、集約もさせてコンパクトに纏められる。
そういう、ね。
人の感受性がもたらす作用って、何も性格に限らない。更に踏み込めば性格といえど、それも他者からの見立てでしかない、という事でもありますから。
本当にそうあるなら、DOESのDが朝飯前に出来る姿を見せてみなさいな。
鉱石に例えるなら、掘り下げることで目的とする鉱石の収穫量を増やせます。でも、目的としてるのは鉄鉱石だけ、と。
量は多いけど、集めてるのは鉄鉱石という1種。
多いからこそ場所をとるけど、種類としては集約できる。そういうものですよ?
場所を取る広さ、その量でもあれば、種類としては一つに集約できる。
掘り下げるというのは、そうやって分解して情報量を増やせるけど、事の次第としては1箇所に集約できるんです、よ!
線だって点の連続体みたいなもので。
面はその線をつないだ集約した物。
知れば知るほど、応用というのが出来るというのは、学校で習ってると思いますよーう?
あとがき
こういう文字媒体だと、言語化が苦手な人は・・・という話になってしまうのですが。
言語化が出来ないと、情報なんて扱えないから!
映像にするというのは、悪い言い方をすれば、文字を読み解くという脳という領域の使用を減らして、能力を伸ばせなくする原因だ。
言語だろうが、図やグラフだろうが、それが扱えるからこそ作れるもの。
研究論文とか、説明書とか、作業手順書とか。
そういう部分でも存分に能力発揮できるんですよ。
どうやったら伝わるか?だけでなく、個人間の差がありますから、わかりやすく簡潔にするにはどうするか?と。
色々練るんですよ。得られてる情報が多いので。
なので、一番疲れるのは脳だし、一番動いてるのも脳。それこそ、カウンセリングで自動思考が働きすぎ、でもそれは得た情報を整理してるだけ、と。
カウンセリングでも、自他の境界が薄い、周囲に気を使いすぎと言われもしました。
でも、それ程に感じ取るし、気づくし、情報が得られてしまう。結果、影響を受けるかのように見えてしまいもする。
というか、そうある側から言わせてもらえば、
自他の境界って意識してない人が多すぎて、無駄に漏らしてる人のほうが大勢だからね?
と。
個人としては、幼い頃には気付きやすさが邪魔だったし、それを悟られないように隠すという、ね。
望まずして、自分から漏らさない訓練をしてたりします。
そうやって、自分からは漏らさないのに、自分は感じ取る、気づくと言う部分が過ぎてるので、自他の境界なんて薄く見えて当然ですわよ~。
なので、カウンセリングを数回受けた結果、何を望んでカウンセリングをうけてるのか分からない、と言われたので。
そこで終了にしました。
その頃って不安定だったんですよ。自分でわかるほどに。
それこそ、幼い頃から隠すように過ごしてた=認知してても認めてなかった、ですから。自分の、人より気づくと言う部分が過ぎてる、と言う現実を、ね。
悪い言い方をすれば、カウンセリングだけでなく、臨床心理士という資格を利用した、と。
不安定でもがいてたからこそ、自分でも当時は把握を拒否してたほどで。
でも、現実として経験が出来たので、今では「いや、あの時はすみませんでしたぁ!」って土下座ものな状態だったなぁ・・・という把握ができてます。
結局、自分自身が受け入れきれないんですよ。
受け入れると慢心して、満身創痍になりかねない。そういう恐怖感みたいなのもあります。間違いなく。
なので、某艦船ゲームじゃないですが、慢心ダメ、ゼッタイ!なんですね。現実なら尚更。
赤城さん好きだけど、赤城さんにはなってはいけない!
ゲームやってないとわからないような小ネタも挟みつつ。
本当にそうなら、生きづらさ以外も出せるはずなんですよ。
でも何故しないのでしょう?
という、問題提起もしておきますか、ね。
それでは。
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