不安と個人の感受性について
うつ病と診断され、不信から引きこもり、再度診断されたのは、
「全般性不安障害」
でした。
簡単に言えば、原因のはっきりしない不安の場合が全般性不安障害と診断されるようです。
とはいえ、医師による診断が必須なので、必ずしもそういう不安があるから、というのは理由にはならないので勘違いしてはダメです。
そして、そういう症状以外の部分でも、様々に言われるわけですが、
気にしすぎと言う部分は、不安と取られる事もある。
とはいえ、気にしすぎと言っても、ただただ現実にそれが見えてしまったが故の考察と言うこともあり。
気にしてない、と。感じ取ってる当事者は答える事もあります。
個人としては、そういう「気にする、しない」のすれ違いや誤解も多いし、不安を感受性だと誤解してる人も多そうかも?と思いもしたので、少しふれてみようかな、と。
思います。
最初に診断された、恐らくの理由
実際問題として、全般性不安障害と診断された頃は、性別についての抑えが効かなくなり色々爆発したことが切っ掛けで、
家族や親戚から、フルボッコされ、急性の人間不信みたいな状態になってました。
話を聞く、相談するというのは、あくまで相手が打ち明けることを受け止める。それが自然と出来てしまうのですが、だからこそ、周囲のそういう部分は苦になるっていうんですかね。
素直に辛い、苦しいを伝えると、相手側の考え、意見、気持ちがまるで打ち明けたものを打ち返すかのように、即座に飛んできてしまい。
「ちょっとまって?なんで貴方の話になるの?」
という、ね。
辛い時は素直に辛いと言っていい。そういうのに言ったら、それはおかしいだ、違うだ、勘違いだと。
否定をされてしまってたわけです。
なんじゃこりゃ?何で素直に伝えろというのに、伝えたら、相手側の意見を聞かされなきゃいけないのか?
しかも、それで余計に苦しくなるので、それも素直に伝えると、
「お前の為を思っていってるのに、言い返すな」
というような。(゚Д゚)ハァ?って状態になるんですよね。
この辺は学生時代の同級生だったりで、相談上手だ、聞き上手だと言う友人たちも似たような感じで。
相談に乗るのが上手いと言う相手が相談した時に、自分の言い分言った所で簡単に打ち返されるのが想像できるっしょ?
という、結構呆れる状態になったりします。まぁ、出来ないから、相談した所で、こちらの話ではなく相手の言い分に話がすり替わるわけですが。
そういう、ただでさえ色々拗らせてるのに、メンタルめった刺し、滅多打ちにする人が多かった環境もあって、一気に崩れ落ち、病院に逃げ込んだ、というのが正確な状態だったりします。
そういう状態を前提にすると
個人としては、自分の感受性で感じるものに不安はありません。
あくまで、五感や痛覚、見えない感覚で何かしらの状態や状況、事の流れというように、大きいスケールでも扱えそうな情報として捉えてるだけ、です。
それをもって、可能性というのを想像すると、
「よくないことは起こるかもしれない」
という、結果には行き着きます。ですが、可能性という時点で予測でしか無く、実際に起こる保証なんてないので、不安にもなりません。
なので、コロちゃんの初期でも「なるようにしかなってないんだけどなぁ」と。
様々な情報から、何故この様な状況になってるのか?がおおよそつかめてたので、動じる事もしなかったです。うん。
人によっては観察ではなく、洞察、洞察力とか言いますしね。表面的な情報であっても、そこから踏み込むのが当たり前ですし、そもそも現実に対しての見え方が深い方だと言われもしましたし。
それが普通なので、2月末のも最初はショックはあったけども、よくよく考えると、ここ数年それらしい動きをしてるってニュースで言ってたしなぁ、です。
うん。
なのでこう、感受性としての部分から、不安が発生してるというのは、ほぼほぼありません。
現実に置かれた自身の状況があれば、その限りではないですけどね。
そういう部分は、年齢や経験を重ねるごとに耐性は付いてきてます。
そもそも、普通の事だしなぁ
まぁ、あれこれ長らく語ってきたわけですが。
そうある個人にとっては、いくらおかしいだ、変だ、ありえないだ言われても、それが普通の事だし、ちゃんと現実に照らし合わせるということもやってます。
時折こう、変なこと言いますけどね。
今日は、三毛別羆事件についての動画を視聴してましたが、突っ込んだ内容があったので、
「あー、それなら自分がその羆だったら、嗅覚で得た情報から、そう動いちゃうなぁ」
なんて、感想を持ったりしたという。なんで、羆に感情移入してるんだよ!と言われそうですが、そうなるんですよ。
嗅覚での情報取得がおかしいと言われるだけでなく、動物相手でも感情や学習能力という物があるので、立場を置き換えるという客観視が働いてしまいます。
実際、自分のレベルでも、単純ににおうだけではなく、臭いから状況や状態、臭いの方向からの位置や規模という情報もなんとなく掴めてますしね。
また、幼い頃から向き合い、付き合いした部分だし、自分にしかわからない成長や変化も、自分自身だからこそ可能な分析や考察なんかも行って落とし込んでます。
なので、感じ取る事が、性格や気持ちにはあまり関係してきません。
というか、感じ取ってしまうせいで、気づきやすいのってもう普通の事なので、そうある身だと、それを受け入れてもらえないと、疑問をぶつけられても、おかしいおかしい連呼されても、困るだけなんですよね。
人間誰しも違いを持ってるという共通認識がある。
それに対して、私の場合違いがあろうが、それはその人だからこそという扱いをして、その人の人間像だったり情報として受け入れます。だからこう、よく気づくだ、配慮するだ言われもするんですよね。
それどころか、下手すると当人が気づいてないレベルの癖に気づいて、言い当ててしまうこともありますし。
違う人だからこそ、違ってるのは当然なので、自分と比較する必要がそもそもないんですよ。
自分と比較して、違うとか、おかしいとか、そりゃ当然で当たり前。
なわけですが。
なんで、逆に扱われるんでしょうね(´・ω・`)
お前の違いはおかしすぎる!ありえない!普通じゃない!
これもまぁ、長らく付き合ってるわけですが。軽く流しても、喉元過ぎれば熱さを忘れるで、何度も同じこと言われるのは正直面倒ですよ。
個人として不安を感じるとき
それはやっぱり、自分の身が危うい、そういう事を感じ取ってしまう時だけですね。
なので、幼い頃は色々抱えてたと言えば抱えてました。
上で上げたような、違いは誰しもあるというのに、私は受け入れられるけど、周囲は受け入れてくれないだったし、それに対しての親や大人からのケアがない。
それどころか、私のほうがおかしいだ、悪いだ言われてましたから。
なので、警戒心と言う部分からもストレス半端なくて、過敏性腸症候群と言える症状が小学校に上がる頃には出てしまってた、というのは否めずです。
また、そういう経験を積みすぎて刷り込まれたのか?
それとも、感覚が鋭くなりすぎてるのか?
現状では、特に目で見て耳で聞いてでは、何も発生してないのに、見えない部分からの影響を受けてると言わんばかりに、外に出ると体調悪化をします。
そういう部分では、不安を感じてるとも言えそうですが、実際問題としては体調が悪化するだけで、不安を抱えてるときの頭の中のモヤモヤする感じなどは一切ないんですよ。
感受性の部分が抜けてておかしい。
そう言われ続けた影響としては、個人としての客観視の扱いには作用してる。そう言える部分はなくもないです。
すっごい客観的に観てるので、こういう感情が発生してる時は、体がこういう反応をしてる、という区別や結びつけもできてるほど、です。
そして、それが出来てしまってるので、相談に乗ったりすると、目の前で話してる相手だけでなく、話の中にしか出てないはずの人の感情も読めたりすることがある。という感じなんですよ。
言語化と言う部分の影響なのか、自然と話しの主題がその場に居ない他者でもイメージがわくし、それが動いてるので、その中から感情の動きなんかも、予測でしかないと言いつつ、何故か一致させてくる。
うん。
そんな感じなので、ね。
何かしら感じたとはいえ、感情にはなりえないし。
感じたものが起因しての、何かしら体の反応があるからこそ、それを脳が「そういう感情」と判断してるという、ね。
そういう事すらも言ってしまう。
こういう部分は、そもそもが幼い頃におかしいだ違うだ、と。
こちらの体の状態や頭の中が見えないからこそ、感情なんてわからない!というのに、ごちゃごちゃ言われてたので、ずっと考察してきてる部分だったりします。
出来てしまって結果が出た後であっても、その場で否定とか食らってましたからねぇ。
そういう意味では、ちょっとこう変な方向に行ってるのかも、知れません。
うん。
あとがき
ホントこう、幼い頃から見聞きするという部分も、情報として受け取ってて。だからこそ、面倒見が良いと評価されるほどに対応できていた。
今となっては、そう言えるほどなのですが。
逆に言うと、いい評価だろうが悪い評価だろうが、おかしすぎると言う所から実態は否定されるばかりで、把握されたことがない。
なので、自分で幼いながらも考えたり、分析したりで、立ち回るしかなかった感じです。
まぁ、色々経験してきたわけですが、感受性としての感じ取り、体の反応の発生、感情や思考の発生というのは、きっちり区別してます。
そして、こういう部分が相談にのる、話を聞くと言う部分では、相手の情動から思考にたいして、多分、恐らくとか言いながら、言い当てたりして、おかしいと言われてしまう。
学生時代に弓道部でしたが、2年になってからの指導の様子も、
「なんでそんな所にきづくのか?おかしいだろ?」
と、言われてた部分には弓道経験者には伸び合いで通じそうですが、いわゆる筋肉の動かし方っていうんですかね。
それを、自分の練習の時は意識的に動かしてただけでなく、頭の中にイメージが出来るような状態だったので、それを自然と指導で活かしてたと言う感じです。
「いや、どうみても、ここは筋や筋肉の動きがこうあるでしょ?」とか言って、そんなの見えない!とか言われてました。
こういう部分も幼い頃から、キャッチ出来てるものが違うだけでなく、それを自然と脳が処理するし、その中にはイメージの発生というのもずっとついて回ってたりします。
なので表面的な部分を処理、観察もしつつ、踏み込んだ深い部分も同時に処理してるという、ね。
頭の中は常にCPUで言うなら2コアですよ?とか言ったりしてしまう、と。
そういうのも、こうやって記事を書くと意識的にやってそうに見えそうですが、
自然体でそうあります・・・。
こうやって記事を書きながらも、音は方向や距離、車ならアクセルの踏み具合とか、どうでもいい関係がない事すらも処理してくれるんですよ。
また、それらが記憶しようとしなくてもされてて、思い出すことで、後々の助けにもなるのですが、如何せん個人の頭の中の話かつ、表情や表向きには出ていかない部分なので、周囲には驚かれもする。
説明を何度もしてるんですけどねぇ・・・(´・ω・`)
ということで。
あれこれ、書いてきましたが、自分の内側を掘り下げれるなら、感情や感想と、感受性と言う部分は、違います。何度と無く言ってますけど。
体の反応も必ずあるんですよ。
緊張したら心拍が上がるし、血の気という血流の変化もありますし、だからこそそれを脳が「緊張してる」という判断もする。
これも、体内での様々な反応と、それを感じ取ってる神経?と、脳での処理があるから、と。
とはいえ、ね。
エビデンスとかないし、個人の経験レベルなので、うさんくさいんだろうなぁ。
ということで。
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