敵はストレス
(あー、コアラに生まれてて良かったわ、これは) byコアラ
さて。
よくHSPあるあるで、あたかも”自分と違う他者”や理解がない”世の中”を問題視してる様子をみかけますが、正直な所、
敵はストレスのみだと思います。
これは幼少期からずっとそう。
その事について、幼少期からの経験を踏まえつつ、色々話してみようかな、と思います。
まぁ、如何せん昭和50年代生まれですが、そういう時代だったというだけでなく、それでも流石に配慮が足りないでしょう?というのも見え隠れするかもしれません。
それでは行ってみますわよ。
幼少期の頃から
単純に感じとるだけでなく、その行動の結果から学習するタイプでもありました。兎に角、叱るではなく怒るで親含め周囲の大人が感情的になるという感じで。
当時はまだ見知らぬ人からの仲介とかもあったので、人がそれなりに居る場所だったら、可愛そうだと感じてくれた赤の他人の方が、「本人はそう言ってるのだから」と助けに入ってくれてたのも懐かしいです。
まぁ、ね。
そんな感じなので、敵は兎に角ストレスだったんですよ。ただ、それを知らない幼少の頃は、親や周囲の大人が敵だと認識し、得られた情報から”自分が生き残るためには?”を自分で判断し、黙って隠すという事をする様になってました。
それでもね。
自分の感情を幼稚園児とか小学校低学年レベルで、そうそう隠せるものでも無くて。
「黙ってないで、言いたいことをハッキリ、素直に言いなさい!」
とかも言われてたんですよね。ただまぁ、私の場合良いも悪いもを感じ取って、その頃から少なからず掘り下げて考えてただけでなく、物心ついた頃には既に感覚として、体と自身の性別が違うんだというのを感じ取ってただけでなく、そのせいで動きや仕草、ちょっとした事が男の子らしくなくて。
そこから「男の子らしく」という理想や教育方針からなのか、余計に怒られる事も多かったんですね。
で、ここで余談ですが。
LGBTQなんてのは総称です。性的少数者=セクシャルマイノリティと呼ばれる人の総称なだけです。
なので、LGBTQだからではなく、レズビアン(L)だから、ゲイ(G)だから、バイセクシャル(B)だからという、性的嗜好=恋愛対象やパートナーの対象の性別が同性、両性だという感じ、トランスジェンダー(T)だからという性自認の話、クエスチョニング(Q)だからという性別に固執せず自分に問い続ける、という人達の総称なんですよ。
最近はこの辺をよく考えず、LGBTだからという人も増えてますが、それって間違いともいえます。
プロのスポーツ選手なら、プロの世界業界が先にあってそれぞれのチームがあるので、プロ野球選手として呼ばれても不満はない方が多いと思います。そして、そのプロの世界の後にチームがあるという形なんですね。
これがLGBTQの場合、それぞれが該当する概念や言葉が先に来ますしLGBTQなんて言葉が無かった頃は、それぞれが属する名称で呼称されてたので、LGBTQという言葉が流行ったからと、特に知りもせず貴方はLGBTQだ!とか言われると、何言ってんのお前?というだけになります。
この辺LGBTQという概念が後者だけでなく、そもそもそういう言葉が無い頃にはそう呼ばれなてない、それはただの総称なだけで本質ではない、こういう部分から不快に感じる人もいます。
なので、知ったかで他者をLGBTQだというのは、正直やめた方がいいんですよ。
と、余談を挟みましたが。
幼少の頃からね。
素直に言えって怒りはするものの、怒る=感情的になりすぎてるだけでなく、子供のくせにという大人特有の決めつけから、素直に言ったところでこれがまた怒られる、怒りという油に火を注ぐだけって状態は日常だったんですよ。
なので、ストレスという言葉を知らなくとも、自分に何かが溜まっていくのは感じてました。
言えば怒られる、言わなくても怒られる。年端のいかぬどころかまだまだ言葉も概念も大して知らない相手に、よくもまぁそうカッカカッカと怒っていられましたよね......というだけでなく、感情的になってるので話が聞いてもらえず相手基準で怒られてるだけというのも把握してました、私。
なので、気が付いた時には親の愛情もそうですが、大人からのそれも、全然感じ取れないくらいだったんですよね。受け止めとか、受容とか。
黙ってても怒られる、言えと言うから言えば怒られる。
それを感じ取って把握してるので、言わない方がまだ自分の負担が少ないというのは当時から既に把握してました。
それだけでなく、叱る、指導するではなく、感情的になって怒に支配されて怒ってるだけというのも感じてたし、逆にそういう大人たちが言った事をなかった事にするという矛盾も発生させてたんですよね。
それについて言及すれば、また怒る。「子供のくせに!」と。
なのでまぁ、ストレス社会ですか。へーってくらいに、幼少の頃から嫌でもストレスは「与え続けられてた」という状態でもありました。
小学校以降
上がってから早々に、今でいう過敏性腸症候群の下痢型を発症するようにもなり。朝起きて、準備してたら~登校し終わるまでの時間のどこかで、突然激痛を伴う腹下りを起こすようになってましたね。
これは、イジメの元にもなりましたし、これもまた親含め大人たちは受け止めとかしてくれない。話すら聞いてもらえない、が日常になりストレスは加速しました。
まさに、悪影響のループ状態が日常という感じです。
その割に、感受性が既に育ってたというか、そもそも高くてこの頃から1言えばそれ以上理解するという状態でもあったので、
良い所は自覚もないし、やれというからやっただけ。それなのに周囲から出る杭だからなのか、言い分を聞かずに過剰に褒めちぎるという状態にもなりました。
そういうのもあったからなのか、小学校低学年の頃ってイジメが特に多かったんですよね。同級生からの。褒められてるからっていい気になるなよ!みたいなね。
これが成長するに従い教師という側も加わるようになったというか。学級委員や実行委員、誰もが面倒くさがる係りやトイレ掃除なんかは回される機会って相当に増えました。
あなたは出来る子!
は?何見て言ってるんです?普段は、男らしくないって怒ったり、もっと自分を前に出してって引っ込み思案を突くくせに。
そんな状態になったんですねぇ。
時折、敵は人間って幼少で感じてたのは、こういう都合で手のひら返しを大人がやってしまい、言った事を反故にするという、矛盾を自然と発生してたのを気づいて把握してたからなんですよ。
ほんともうヤレヤレです。
中学以降
マシにはなったものの、イジメだったり、男らしくなさは嫌でも言及される。
この頃には相当に隠せるようになったつもりですが、二次性徴終わって高校に上がったくらいから、「見た目は男子なんだけど、私達に近いように感じる」とか女子に言われるようになり、明かせなかったのでトホホしてたもんです。
ほんともう(´・ω・`)
中学の頃なんてセクハラ受けてましたしね、同級生や体育教師から。下についてんだろ?男だろ?って。
それすらも、悩んでるからって相談しても、誰も話を聞かないどころか、自分基準の物差しでしか計れない物言いしかされなかったもんです。
相談って何?嫌でも、そう思ってしまうほどに。
この頃から普段言われなくても、実は真面目が過ぎると受け取られてたとかも経験する様になりました。
こんな感じでね。
人間として集団生活してると、目立つ部分でもこんな感じ。目立たない部分でも良い所は周囲と違うからと褒め、何かがあるとそれを理由に面倒事を押し付けるだけでなく、協力するという言質も貰ってたのに逆切れで協力?なんですか、その言葉はって状態になり。
ストレスって嫌でも、過剰に受ける状態になってましたね。
そして現在
そんな私からすると、時代なんかかわってねー!です。
自分基準の正誤や善悪だったり、言葉や概念を知ろうとせず自分解釈に歪めて好き勝手に扱ったり。
ほんと、人間ってどうしようもないなぁ、って嫌でも感じさせられてしまう。
そんな状態です。
ホント、ヤレヤレです。
因果応報という言葉も割と使う方なので、これはもう前世からの因縁、因果か?とか嫌でも思い浮かぶ程、です。
こういう部分から、結構早い段階=子供の頃から自分探しではなく、単純な問題として、自分は果たして人間なのでしょうか?とか悩んだり、嫌でも外側に立ってるなぁって感じてしまうんですね。
成績もどちらかというと、上中下という三段階わけでも上の方、問題行動も起こさないどころか、多少の不満を口にするも面倒事を引き受けるタイプ。
何か問題を起こしたわけでもないのに、振って湧いたように周囲との違いを普段は口にせずとも、同じような状況で言ったり言わなかったりをされる。
こんな感じなので、ストレス半端ないです。
今の時代って、寧ろ劣化してると言うほどに、自分基準の正しさや正義でしか物事を見れず、批判や否定ばかりしてるのも日常になり、頭抱える程なんですよね。
正義中毒って、自分基準の正義の横行の結果ですよ。
何が良い悪いじゃなく、気が付けば何かにつけて自分目線で良い悪いいうだけで、それがどうしたの?どうしたいの?っという部分すら、とりあえず言いたいだけで特に理由はないみたいな。
特に理想に目が眩んでる人って酷いです。
都合の悪い現実はガン無視、そして自分基準の正義をバイアスにして相当に歪めてますから。
ひどいもんだ。
かと言って、正しさや正義を語る割に、自分や同じくする人には激甘で失敗をしても正すどころか、擁護して、そこから更に違う悪に向けての断罪を行う。
個人的には、意味のない悪影響のループを見ず知らずの他者が勝手に追加してくれてて、ホントたまったもんじゃない。
こんなの精神病んで当然ですよ。寛解どころか改善すらしなくて当然です。
あくまで、個人の言い分ですけどね。
違った切り口として
よくそれでグレなかったとか、凶悪犯罪起こすような人にならなくて良かったとかも、それなりに話を聞いてくれる人には言われますし、逆になんでそうあれるのか?を問われたりもします。
最近こう、少年法に対しての言われも酷いものがあるというか。
個人的には、一歩間違えば自分がその身というくらいに、精神的苦痛や虐待という状態が幼少の頃からの常だったという感じです。
悪いものは確かに悪い。
ですが、三権分立で司法が裁くって国なんですよね。日本だけでなく他でも。まぁ、海外の方は厳しめですが、その分獄中での問題や、賄賂による獄中生活の贔屓なんかも聞かなくも無いんですよ。
百聞は一見に如かず。
その百聞すら、自分が持ってるバイアスで、都合が悪いものは除外してたり、歪めて現実より自分の正しさ優先で物を言うとか、流石になんていうかもう、ね。
最近になって、色々知ろうとして話や情報を見聞きしてます。Vtuberの中にも少年院で指導する側の経験を持った人が情報発信してたりします。
それが、良い悪い、正しい間違いではなく、普段見えない部分としての情報として知れるので重宝してるんですね。まぁ、そのVの方は色々感じる物があって好きで見てるというのもありますが。
昔から、感受性って言うか、嫌でも感じ取って気づいてしまうというレベルだったので、今の世の中って相当に井の中の蛙って多いよねぇとか、とんでもない思考が発生したりするくらいです。
過去を洗ってみると、相応に親から虐待を受けてたって人も少なくもないんですよ。それでも、親をしたってるけど、親が口約束を反故にしてそれが理由でその場限りとはいえ、荒れる子もいるそうですよ?
最悪拗らせたままで、出ていきかねない程な子も多いそうです。
そんなの知ったこっちゃない、じゃないです。
多様性だなんだ口にしてる割に、自分がそうじゃないから、悪い相手は叩くとか、何が多様性なんだよ?ふざけてんのか?ってくらいに、自分に固執し過ぎですよ。
人間社会って、自分とは違う他者だらけなのに、ほんとこう。
酷いです。
そういう部分から
HSPのあるあるブームもね。
何度も言ってますが、自分都合、自分基準が多すぎなんですよ。
色んな考え方がある、じゃないです。多様性でも無いです。
それを逃げ口上や建前にしてるだけ、です。
HSP名乗ってるのに、全然感じ取れてなければ、何も見ようと、知ろうとしてない井の中の蛙なんですよ。
幼少から、こういう部分=感受性としての感じ取りの高さから、散々他者都合で嫌でも痛い目をみせられ、ストレスを与え続けられた身としては、片腹痛いです。
苦しいだ?悲しいだ?
感じ取れるんだから、進んで自分から知ろう、触れようとして自分の足でたてるでしょうよ?
幼稚園児の頃から、足りない部分があったとはいえ、そうやって生きてきましたよ?
悪い部分もあれど、長いものに巻かれなければ生きづらくなるのが、人の世です。
そんなの昔から変わらないんですよ。だから、時代が明治になる頃には自由民権運動とかもあったんです。
結果はどうなんですか?
自由って言葉を、自分が好きなように、他人なんて知ったこっちゃない、そう扱う人が増えただけでしょうっていうね。
ほんと、ヤレヤレ過ぎるんですよ。
おこちゃまレベルであった私すら出来てた事が、ネット使って情報発信とかするレベルになって出来てないとか、どんだけなんだよ、もう(笑)ってくらいに酷いです。
名を訪ねるなら先に名を名乗れ、ではないですが、他者を否定するならブーメランで跳ね返されない様に、自分を正すのが先でしょ?
なんでしないの?
自分で自分の正当性を確保せず、口だけ、言葉だけ使ってても、騙されやすい人でなければ通用しないですよ。
ほんと、どうしてこうなった、人間よ。
そういう風に感じてからも、相当に長いです。
ヤレヤレ。
まとめ&後記
と、愚痴っぽい記事になったかもしれませんが、実際問題として、
これが個人として経験してきた現実です
脚色もクソもないです。自分は違うからって言われても、屁でもないですし、過去の経験だけでなく、記憶に残る範囲での感受性の高さとかも寧ろ掘り返して差し上げます。
自分で自分を掘り下げられてないでしょうしね。
代わりに掘り下げてさしあげましょう?
というかまぁ、正義中毒だ、正義警察だなんてのは、自分は違う!って目を逸らそうが見る人からすれば、同じ事やってますよ。
ネットっていう匿名性の高い部分があるからって、そこで発散して攻撃的意思を外にボロボロ漏らしてるだけです。
道具や文明なんて、人が使う物として編み出されてるのに、使われてる人多すぎやしませんかね?
と、嫌でも感じなくもないですが、これもまた人間という生き物の姿の一面である、というような捉え方もできてしまう。
自信が道を踏み外さなかったのは、そういう客観視というか、相応にフラットに見れる視点を幼少から持ってたおかげでしょう。
一歩間違えば凶悪犯罪者。
自分はそうならなかったと言うのは、ただの結果論なだけです。
自分と違う他者を否定したり、意見を見ようとも聞こうともせず自由を好き勝手と履き違えて、自分の物として扱ってる人間の強欲さの表れでしかない。
酷い話で、もう動物以下じゃんね?犬とかのほうが賢くない?ってくらいに、呆れさせてもらってます。
とはいえ、自身も完璧じゃないですし、どこかで同じ失敗もしてますし、偉そうに言えるものでもないんですけどね。
兎に角ストレス半端ないです。
隔離なんてさせてもらえないからと、寝て意識を閉ざしてるだけでも生活はできません。
でも、生活出来ない程に、行動を起こすだけでも体にストップがかかるだけでなく、気分も沈んでします。
あー、自分って本当にめんどくさい。
という感じで。
感じ取れる=相応にストレスも受けるんですよ。光や臭い、音だけでも相当にありますし、体調すら悪化するレベル。
そこに、人間のアレコレも加わったら、たまったもんじゃない。
嫌だったら見なければ良い、それがやりづらい世の中にもなってるんですよね。そして、嫌だったら云々も逃げ口上や建前です。
裏は、自分可愛い、自分は正しいではないですか?
そんな善悪二元論みたいなのは、ポイっと捨ててG(虫のアヤツ)にでも食わせておけばいいんですよ、ってくらいに持たない方が色んな考え方が出来ますよ。
ってか、私からすれば、他者も環境なんですよ。なので、環境感受性って言葉はすっごくしっくりきました。
心理学としてどうこうではなく、感覚的な感じ取りから、自身の経験や色々も含め、スッと自分の中に入って来て、なるほどなぁ、心理学って凄いねって実感するくらいなんですよ。
という感じで締めくくって。
本日分にしたいと思います。
それでは。