寧ろ要らないこんなもの
正しい間違いを言うには、相手と話し合って突き詰めた上で、でなければできたものじゃないから。
とはいえ、どうしても見えてしまってる。それだけでなく、溜まりすぎると不思議と奥底の方が見えてしまうというか。ポイジティブなものとして受け取れてたものがネガティブで受け取ってしまう事にもなってしまう。
自分と違うから、ではなく、目にした瞬間でそうなるし危うさの自覚にも繋がるので自分が嫌になってしまう。
感じ取りすぎてしまうと言うことは、時として自分を苦しめるという悪いものでもあるんですよ。
そういう事が言いきれるくらいに、こういうのも何度も経験してきてて。
なので、こんな物要らないレベルになってしまう人も居るわけですが、なんでこうね。
こうなんでしょうね。
正直普通のほうがマシ
こんなね、感じ取りすぎてしまうような感覚とか感受性とか、もう要らないです。ってなるくらいに疲れてしまう事も多いです。
なので、思いの外眠って意識を閉じる時間も増えてるのが実際で。
現状みたいに、不満だなんだとネガティブさが溢れる環境が出来上がると、大なり小なり関係なくこういう事も起こり得ます。
うん。
眠れる時間が増える=実際に眠れると言う状態でもあるので、体の疲れを探ってみると思いの外そうでもなく。
脳やメンタル、心理面での疲労なんだろうなというのも把握してたりします。
実際、相当に疲れてる様も見える事にもなるので心配されもしますけどね。
もういつもの調子すら出るどころか、疲れた~、疲れた~だけにしかならないような感じなので、「これは危険信号だなぁ」って感じてるような状況です。
うん。
正直、こんなに感じ取れるようなの要らないですよ、ほんと。
普通レベルに感じ取れる程度のほうが、知らぬが仏で幸せなのかも知れません。
問題があるので”普段は”言わないのだけど
あくまで、私個人を通したらこうなる、というだけなので深く考えないし良いもしない。
そして、あくまで個人の経験からの話なのですが。
そうある当人の主張より、その違いを認めながら自分たちの普通に合わさせようとして違いを認めないという、やり取りの結果が1対他になってしまうんですよね。
また、ある程度までなら受け止められなくはないけど、私と言う人間に取っての核心に近づいていくとどうしても多数側に迎合されてしまう。
そんな状態なので、本当に1対他になります。
で、当人の話より、その他多くが認めないからなかったコトにされるなんて
差別やイジメと言う概念も当てはまってしまうのでは?
これ、疑問形でも突きつけると面白いほどに、あっ…って気づいた瞬間に取り繕おうとして必死になって、最終的に怒るんですよ。
普段こちらの言い分を聞かないで、おかしい、あり得ないというだけでなく、その原因が自分と違うだけでなく学校や職場という場所であえば、周囲の人を呼んで実際にそうあることを確認する。
更にその上で、”ほらみろ、お前だけが違うんだ”というね。そういう事を言う割に、私の方からその他大勢としてこうですよねっていうと、
自分とその他大勢は違う!!!
・・・・・はい?(笑)
ホントこう、幼稚園の頃からずっとこうあるんですよ。
だからこそ、自分じゃない自分、周囲の言う普通に合わせられる自分にならなきゃいけないって言う、
自己暗示をかけて生き残ろうとしたんですよ、自然と。
過去の事だし、話を聞いてくれる人が居なかったし、それ故に観察してくれてる人が居ない。そういう理由から今でもそうありがちですけど、結局当人の言い分よりも自分の判断を優先した結果、過去の否定してきた人と同じ側=差別をする側、イジメる側にもなるんですよね。
そうならないように、最初は小出しにしながら話たりするんですが、実際に珍しい、余りいないって気付いてても、前例がないって理由だけで言ってる事が無かった事にされますからね。
うん。
そういう意味では、そんなつもりはないと言うのは時として自分の足元揺らがせるどころか、一気に崩して地獄に真っ逆さまにもなりかねないので、使わない方が良いと思います。
という、個人を通して見た場合の、その他大勢の話でした。
正直こう、感情的になって否定される事多いですけど、感情的になる=図星ってバレるだけなんですけどね。
だから、話し合う時は冷静さも大事です、とか言う事もあったりします。
ちょっとした悩みとして
客観視とか、客観的に見る、という事を主張するくらいなので、自分が自分に客観視を出来て無きゃいけないという自戒もしてたりします。
そういう意味では、客観的に見るとやっぱり
自分でもおかしすぎるわwww
になったりもします。なんでこんな物をもってるのか?何で嫌でも見えてしまうのか。
意識しなくとも、直感みたいな「あっ!」の一瞬で相当に受け取ってしまうし、見えてしまうって事も多いんですよ。だから、感覚処理感受性が高いという表現も納得できるという感じで。
それでもね。
度が過ぎてて、これは実際にどうなんだ?という風に悩んだり、考える事もするんですよね。
そういう意味では、違う人も過ぎると毒だし、特別という事以上に自分が大なり小なり苦しむんですよ。
うん。
また、ね。
気づくときは一瞬で気付いて見抜いてするのですが、そうあらない時は自分にとって要不要を感じ取りから一瞬のうちに仕分ける、という部分もあるので、これまた一般的とか普通を持って来られると、えらいのんびりしてる様にも映るんですね。
なのでこう、兎に角普通とか一般的とか、当たり前が出てくると凄く厄介にも感じるんですよねぇ。
という事で、少し別な要素を付けたします。
優柔不断は違う
個人的に優柔不断になる時は、好みとしての選択を迫られるとか、予算の関係でどちらかを選ぶという時にしかなりません。
最近、優柔不断さという部分までHSPの事として扱われてるような物を見てしまったので、釘を刺しておきます。個人的に、ですが。
なんていうか、ホントこう、上辺だけで追いかけないで?って、ね。思います。
反応が鈍いとか、判断が遅いとか、無いですから。
そして優柔不断だ判断だなんてのも、感じとった部分での話ではなく、脳で処理された後、得られた情報からの思考=判断の話なんですよね。
何をどう感じ取ってるという感受性の話ではなく。
感じとって得た情報ではなく、それで得た情報からの思考だなんだっていう所にシフトしてしまってると思います。
そしてその判断という部分には、個人としての、能力や性格、思考、他色々と別な要素が絡んでくる、と。
人間の行動や心理を見つめていくと、意外と細かく分かれるんですよ。そういう細かく分かれてるという事も、感受性が高いようなら意外と一瞬で見えてそうなのに、これまたなんていうかなぁ。
うん。
HSPって心理学上の概念なんですよ。
情報としてこういう物があるというより、心理学という学問で解説されてる概念なので、そこを知らなければ判断出来ないと思います。
それなのに、知ろうとしないまま上辺に流れてる情報だけで、自分を当てはめてって、普通の人と変わらなくなってしまうんですよね。
なので、注意しておいた方が良いと思います。
というか、しなくても気づくんだけどなぁ...。
あとがき
どうにもこうにも行き詰った感が強くなってしまい。
幼い頃から性別の部分もあったせいか、余計に普通じゃ無さ過ぎた分、兎に角普通という概念で叩かれ叩かれが続いたせいなのか。
見えてしまう、という一瞬でも深い所まで見えなくもなくて。
そこに現状抱えてる精神疾患での、落ち込みや抑うつが発生すると自身がネガティブな状態でもあるので、余計に影響を受けやすくなってしまうというか。
なので、敢えて楽しむ事すら避けてるという状態だったりします。
ポジティブすら、その奥が見え隠れするのでネガティブに反転する
そういう受け取り方すらしてしまうので、自分で自分の危うさに危機感を覚えてしまってます。なので、敢えて離れるというか。
ほんとね。
色々あったから、早めに対処しないと危ういが故に相当に痛い思いするのが見えるから避けるという感じです。
うん。
それにしてもなんていうかなぁ。
感受性って誰しも持ってる物であるからこそ、概念に当てはめるのは慎重にならないといけないと言うか。
私は真面目くんです!
私は優しい人です!
そういうのを自分主観と自分のできる事で語ってたら、途端に痛い人と見られるのと同じなのに、他者から指摘される感受性の有りようの話が出てこないというのも、なんだかなぁ。
そこに対して、個人としては自覚が出来ないレベルなので否定する、他者はいやいやそうある人だって言ってくるけど、詳細を話すと今度は有り得ない、それはおかしい!って否定するという、矛盾した言動を見せ始めるんですよね。
客観的に見てるはずの他者が、ついてこれなくなるっていう。
それほどに、おおよそ大勢、一般的とか普通という概念からは嫌でも押し出される事になるわけなのですが。
なんでだろうねぇ。
ほんと。
という感じで、今回はー、こーれーにーてー。