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ちょっとした悩み事

兎に角経験談からの話が多すぎるわけですが。

実はこういう部分にも、ちょっとおかしな理由があったりします。

また、その理由について”何故なのか?”を突き詰めてしまうと...

余計に迷路に迷い込む...という感じだったりもします。ハイ。

まぁ、個人としては知ってもらうというよりは、こういう人も居るんだ、という部分を見せる為と言うのも意図なんですよね。あくまで、感受性が高いなのですが、そう言われる人として、こういう人も居るんじゃ!みたいな。

また、そう意図を持ってる理由も、今回の内容にも繋がりはあったりします。

またつらつらと書いてみようと思います。


とにかく面倒くさい

いつの間にか、受け入れられるようになってた事。

どうにもこうにも、違いを指摘されるのに、理由を説明したら否定をされてしまう事。

それだけなら良いのだけど。

人それぞれ価値観もあるわけですしね。

ただ、おかしいとか、有り得ないとか。

違ってると思って声をかけてきたのに、違ってたから、それは無いというのは、相当にいい加減というか。

違うのに、有り得ないってどいうことなのか...

そんな事を繰り返してるうちに、もういいや...というヤケクソからも受け入れた部分でもあって。

そこで受けた否定=ネガティブな物は自分の中に凝り固まるように残ってしまったわけです。幼い頃から三十数年分まるっと。

うん。

そういう事を聞いて何をしたいのか?

何をしたいというわけではなく、違いが気になったから聞いただけ。

違うと感じてからの事なのに、なぜ否定をするのか?

自分と違うから。それが普通じゃないから。

それがこちらに不快だったとしてもか?

そんな事気にしてたら言いたいことが言えなくなる

はぁ。

言いたいことを言うのはかまわないけど、他者の事なのに、自分の価値観で推し量るだけというのは、相当に自分勝手というんですかね。

よく見てる、よく気付く、じゃないんだって。

その場、その環境にある違和感として、嫌でも感じ取ってしまうだけ。

だから気付いてしまう、だから見てしまう。

そして現実として気づくからこそ、意識もしてしまう。

ただでさえ否定される側だから、否定される事のネガティブさと辛さも重々承知。

そこに含まれる負に気付かされるから、取り除いてあげるだけ。

ただそれだけなのに、本当に面倒くさい。


それ故に磨かれたもの

環境感受性という言葉を知ったわけですが。

正直こう、ね。

驚きもしたし、納得もしたと言うか。そういう否定から連鎖する負の部分、ネガティブさを幼い頃から感じやすかっただけだった物なのに。

なるほどね。良くも悪くも、そういう風に磨かれ育ってしまったのね...。

知る事は大事。でも、知ってしまったから呆れてしまう。自分自身に。

そして、磨かれ過ぎてしまったから、ポジティブさに含まれる薄すぎるネガティブさまで感じ取ってしまうようになったというか、何と言うか。

そりゃ、感じとれない、気づけない側からすれば、真面目だ、優しいだ言われるわけだよ。さらに言えば、だからこそ自分には厳しくもあり、時として甘やかさない様に厳しく周囲にも当たる。

自分自身の事だけど、なんでこうなってるのかなぁ。

とはいえ。

だからこそ、話くらいは聞いてほしいものなんだけど、ね。

別に安心させてほしいってわけじゃないし、その位自分で何とか出来る。

ただ、聞いてもらえないという事は、否定に相通じるものだから、そうある他者の行動がネガティブな物として刺さるし、それ故に敢えて、とりあえずの受容をするんだけど。

ストレスや傷も生まれてしまうし、残ってしまう。

ストレスを溜めない方が良い、発散した方が良い?

貴方たちのそれが、ネガティブとして刺さるってのをいい加減分かってくれませんかね。

気を遣うだ、配慮だは相手の為にやるものだから、自分のこうしたいをやっててはダメ。それは相手の為ではなく、自分の為だから。

そういう貴方たちを結局受け止めてしまうという、こちら側の譲歩や配慮が生まれてしまうから。

善も悪も、正も誤も、良し悪しも。違うと感じる相手に突きつけたところで通用する物じゃないんだよ。

あぁ、ホンとに、面倒くさい。


対あるものは

反転もする、そういう物だから。

だからこそ、自分が制御しなきゃいけないのに、何やってんだか。本当に。

貴方の為に、じゃない。それは転じて自身の為なんですよ。

情けは人の為ならず。

ポジティブが反転してネガティブになってしまう、そしてそれすら反転させてポジティブに解釈して受け止める、受け流す。

だから、ストレス溜まるって言ってるんです。

対あるものは二つで一つ。いくら自分がそういう物として突きつけたとして、相手に逆で刺さる事もある。

そのくらい、普通にわからないの?自分がされたら、すぐ感情を出してしまうくらいなのに。

光があるからこそ闇を認識できる、闇があるからこそ光を認識できる。二つで一つ。どちらかが欠ければ、片方だけの辛さも苦しさも生まれる世界になるだけ。

だから相互。一方通行じゃないのに、正しいだ間違いだ、善だ悪だと一方通行な言説の多さに眩暈もする。

災い転じて福となす。

そういう諺もあるのに。

本当にやれやれですよ。


という感じで、あとがき(長め

まぁ、違うから指摘されるわけだし、そうある側の気づきや見える物が見えないのはわかるんだけど。

どうありますか?って聞かれて、もう過敏性腸症候群での腹痛と下痢なんかも朝の通勤通学の時間帯というトリガーがなくとも、ホイホイ出るほどになってしまって。

ストレス溜まり過ぎでしょう、って感じなのですが、発散以上に受ける側が圧倒的に多すぎるので、受けない様にするには眠るしかない...。

そんなレベルになってしまってます。嫌なら見ないなんてのは、配慮や気遣いが出来ない側の言い訳でしかないし。

まぁ、いちいち気を遣ってられなければ、完璧に出来ないのもわかりますけどね。

とはいえ。

だからこそ言葉にして伝えてるのに、それに対して共感出来ないようだと寧ろ傷を抉るだけで。

わからないなら、わからないで良いんです。そう言ってくれた方が、自分自身が違いを認識してるので寧ろ気持ちは楽になるわけで。

色々見えすぎる、感じすぎるだけでなく、それ故に世界観が違うと言うか。現実における環境なんてのは、宇宙すらもひっくるめて環境っていう見方なくらいなので、分からない側のスケールの小ささでこられても、ね

ほんとこう、キャパオーバーして潰れてるのに、何でこう気遣われた事に対し不備があっても受け止めなきゃいけないのか。

というか、聞いてほしいだけであって、気遣ってほしいんじゃない。そういう事にすら気づけないってのは、話聞いてる?になってしまうだけで。

という感じで、正直辛いです、ホントマジで。

自分がこう思うをやられても、相手がそれに共感できないんですよ。相手の方が先に共感出来ない状態を示してくれてるし、それが見る、聞くだけでわかるっていうか。

気にし過ぎ、って言われるけど、周りが気にしなさすぎなんですよ。もう色々受けすぎたから反転するってくらいあるわけで。

現実を深く見つめすぎ。

そのラインが普通に見る、聞くのライン。そう返して言葉に詰まられてしまうくらいなんですよ。トホホのホ。

うん。

それ程に違いが過ぎてるからなのか、言葉にしてるのに聞いてもらえないというのはもう、生き地獄っていうか。

歯の隙間でスースー呼吸する程のお腹の痛みと、お腹の下りに合わせた腸の動きも分かるほどに感じるから、これまたシンドイんですよね。痛みと不快感のダブルパンチだし。痛みが治まった時点で、体が相当な疲労を感じててしばらくそれで血の気が引くくらいだし。

そういう身体的な痛みや不調すらもストレスになるから、もうやめてぇ!なわけで、沈み過ぎると目に見えた発狂はしなくとも、そういう物が自分の中にあることすら分かってしまうし。

それ程なので、結局自分が自分に対して疑惑や疑念を持たざるを得なくなって、本当に自分が分からなくなる事もあるし、微妙な環境の変化に合わせて自分が自然と微調整してる様みたいなのも実感できるんですよね。

なんかもう、自分自身ですら、混乱を起こしつつあるレベルにもあります。

特に今月に入ってからという物、今まで鳴りを潜めてた過敏性腸症候群が出始めたと思えば、普通に生活してた頃と同じ頻度で出てるので、また色々溜まってるんだろうなぁ、という感じでもあります。

まぁ、私個人が変に拘り過ぎてると言うのもあるとは思いますけどね。

でも、現実を深く見つめすぎと臨床心理士の先生に指摘されるラインが、自分にとってはいわゆる普通、特段意識しなくても見える聞こえる、察せる、分かるというラインなんですよね。

なのでこう、呆れられもしたと言うか、打つ手無しにもなってしまい。

さてどうしましょう?って感じなので、やっぱりそこは人間ですから、

分かってもらいたい

という、気持ちはあります。おおよそ有り得ないって言われるレベルとはいえ、言葉にして伝えてるんですよね。

特に腹痛っても、体の中の痛みというだけでなく、顔面蒼白だったりするのは目に見えて気づかれてるというのもあるのに、薬を飲めばとか、そんな当たり前の事理解出来てないわけないじゃん...でしかなく。

だからこそ、生き地獄とも言うんですよ。もうウン十年続けてるので。

良くも悪くも、自分自身が実験材料、個人で出来る範囲での追及、分析、検討用のモルモットとは言わないまでも、色々実験やら観察やらもして色々掴んで来てるのが、まんま人生みたいなものなので、ね。

それ以上に、お腹の痛みって相当しんどいし、トイレに行く度に息が上がるほどなので、痛みの制御で体が相当に疲れてしまうと言うか。

それでも、個人の事だから、ねぇ。

そう言う部分のもどかしさというのも、有るにはあります。

でも、お腹の痛みのコレが再発して、頻度が病む前の普通の生活レベルに戻ったらさすがにもう。

黙ってられません、流石に。

生きづらい、生きづらいって、その生きづらさが転じてお腹の痛みや、胃の痛み、ピロリ菌居ないのに胃潰瘍、円形脱毛症、大腸ポリープ他色々、体の不調になって出て治療した事ある?

大腸ポリープとか食事制限は言ったうえで、治療前に下剤飲んで出すから結構しんどいですよ?

それで切除した次第で、経過観察の為に数日入院ですし。毎回入院ですね、になってしまうし。

環境整えるってなったらもう、それこそ邪魔だと感じた人を排除...とか考えたくもないし、だからこそ、概念こねくりまわさんでください、なんですよ。

はぁ。

これを書いてる間も、お腹が痛いやら、何度もトイレに行ってそのストレスも感じるやら。

個人がそうあるだけっても、流石にね?

そういうのも、否定とかネガティブさにしかならないから、面倒くさいってね。

口が開くんですよ、嫌でも。

と、相当にこぼしたところで。

今回はこれにて。


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