書くリハビリ 敢えてのブレイクタイム
もう、敢えてというか、強引にでもというか、違う話しないと、ホントもうね。
個人として受けてきた、人間のいい加減さというネガティブに影響されすぎです。
正に環境感受性。
環境にあるネガティブさに影響されやすい。
自分の行動で示してしまうほどに、的を得てるというか。
まぁ、今回は小休止という感じに。
しなきゃいけないよ、流石に(苦笑)
どうしても受けるネガティブな影響
ネットに限った話ではなく。
聞き取りたくないのに、自然と耳が感じ取るだけでなく、人の感情という部分ではすぐさま踏み込んでしまうからか。
現実でも、すごく大変です。
今は世の中の不安が強くなってる時期だし、そうあると、言語化が出来ない幼い子ども達が、ね。
金切り声で叫びを上げてる事からも、すごく影響を受けるんですよ。
でも、SOSを発してるのは身近な大人に対して。そして特に親、それも母親なんですよね。
場合によっては踏み込めない、なので行政が遅れるというのもわかるんですよ。
「それが本当にその子の為になるのか?」
すごく難しいです。
助けに入っても、助けを求めてた親ではなく、他所の人が介入するわけですから、それが悪影響になる場合もあります。
幼いから理解できない、ではなく、幼いからこそ長く抱える傷、風邪のように脳炎や髄膜炎、肺炎という危険な状態に行き着くものと同じじゃないですかね。
こういうのも対処が遅れるほど危険ですし、そこには見定めが出来ないことには、ね。
いくら寄り添ったとしても、寄り添えてる”つもり”で終わりかねない。
なので、時として人に巡り会えるか?否か?というような、運要素が絡むのも人生であり、人間社会かなぁ、と思います。
将来が想像できない、必ず想定できるものでもない、だからこそ、正解もない。
なかなか難しいと思いますよ。
個人に焦点を当てての難易度という話
自分で言うのもなんですが、相当に厄介です。
単純に気づく、感じ取るだけでなく、言語化の部分もある種の異なんですよね。成人知能検査での言語性IQ、それでは数値化が出来ない部分を持ってる。
そういう部分に迫ろうとしたら、相応の実力、能力長いと難しいです。
私が拒否してるだけ、と。
周囲に誤解されることがあるのですが、それは、いつまで経っても自分と、自分たちと違いすぎるという姿勢を崩さず、話を聞く=受け止めるをしないからこそ、
そもそも、根本の対処が間違ってる、という感じです。
彼を知り己を知れば百戦殆うからず
孫子の兵法でよく言われる言葉なのですが、対人関係もバッチリ当てはまります。なにも、戦いのためだけの兵法ではないんですよ。
また、相手を知るということは、相手を受け止める、受容するということも出来ないといけません。
そうでなければ、ただの、思いこみや、一方的な決めつけです。
知ったつもりになってるだけだと、つもりでしかないので、全然届かないんですよね。
しかも、つもりであるが故に相手に届いてないのに、お前のため、これだけやってる、と。
恩着せがましい発言をすると、拗れるだけなんですよ。
でも、こういう事って、ネットに限らず現実でも多いですし、個人としてもそうあります。
皆と違う→1人だけ出来てる→能力が高い→みんなと違うから→貴方はできてるから→能力が高いから。
だから、個人としてそう判断するに至った根拠は何なのか?と、何度も聞いてる。そんな、比較して凄いというのは、評価ではなく、ただただ比較でしかない。
評価=良い部分、悪い部分を見定めて、判定する。
そうなんですよ。
比較した上で出来るからではなく。
その人は何故そういう事が出来るのか?どういういい部分があって成し遂げてるのか?
見定めなきゃダメです。
個人としては、どうしようもない程に、言われたら即返せるほど相手の方を見定める事ができてしまうので、相当に難しいんですよ。
最近は、精神科通院の話でも、言うようになってしまいましたが、
現在の主治医:受け止めてくれてる、受容を感じさせてくれる。
それ以前 :そういう人は居ないとか、気の所為、勘違いが即出てくる
これ、すっごく大事だなぁ、と痛感してます。
とはいえ、自然とやってるだけなのに、相談上手だ何だ、と。
まぁ、驚くのもわかりますが、それ程に色々感じ取るだけでなく、話を聞きながら脳内はPCのような状態です。
例えるなら、表の窓では相談を聞く、裏の窓では聞いたものの処理ほか色々やってる。しかも処理速度も早い。(※ここでの処理速度はあくまでPCに例えての話です。)
なのでまぁ、厄介なんですよ。
こういう記事を書いてると、意識してやってるように見えてしまいますが、自然とか、無意識の内にそうなるだけでなく、記憶として保管もされるんですよね。
更に個人を分解してみる
実際は感受性だけでなく、上でも書いたような頭の中での処理や、記憶力という部分もあります。
また、ね。
幼い頃から、本の虫と言いますか。
子供用の図鑑なんて、指紋だらけになるほどに、何度も読み返してましたし、そうあるのは不思議がられてました。
また、小学校に上がってから漢字を習い始めて以降は、読める読めない以上に母がもつ文庫本に手をだすようになり。
小2では担任が子供向けの江戸川乱歩作品を置いてくれてたし、許可を貰って記録を残し、返還が出来てれば、自宅への持ち帰りOKだったので、すごく読んでました。
読むことで、読んでる内容から想像する=映像化が頭の中でされてたのは、その頃からでしたし、動物図鑑を読んでは、動物番組を楽しみに待つ、という、ね。
懐かしいですわぁ(笑)
あとは、ドラえもんのアニメを見ながら、理不尽=のび太くんが悪さをした結果、ドラえもんにしわ寄せが行くという回では、泣いてしまい母が驚いたりも。
幼稚園に通いだしてからは、そういう部分も見られるようになったんですよね。
ちなみに、このドラえもんについては、当時はカセットテープレコーダーしかなくて、録音してたが故に音声記録が残ってしまうという。
成長してからは恥ずかしい過去の記憶になってました。一時的にですが。
ただ、ただですよ。
否定は受けすぎました。
これはもう、どうしようもないですし、誰が悪いとは言わないのですが、否定してきた人たちは、自分たちがやってたと受け入れるのも難しい。
更には、そういう受け入れることの難しさも、客観視から理解出来てしまうので、どうにもこうにも、難しい。難儀な人にもなってしまってます。
まぁ、そういう影響もあるからこそ、善悪や正誤というのは個人の主観を極端に用いないとも言えますけどね。
そして、そこは長所であり、短所でもある。そういう物になってます。
更には、突き詰めすぎたので、中道や、諸行無常、諸法無我、空とか、実践するしないではなく、少なからず触れて知って、考えてみるという、ね。
宗教って心の拠り所になるまでは、人としての振る舞い、その教えという学問みたいな要素もあったものと思います。
なので、時折そういう物に少しでも触れると役に立つことってあるのよ~。
とか言うのですが、こういうのも、おかしいと。
言われるんですよね。
あとがき
ちょっとこう、ね。
どうしても勢いづいてしまうというか、ネガティブ漏らされると、それを打ち返してしまいがち。
なので、敢えて気持ちを切り替えようと、一旦書いたものを消して、違うものになるように意識しつつ書いてみましたが、まぁ、似たりよったりにもなってしまうかなぁ、と。
まぁ、無理して書かなくても良いのですが。
なんかこう、自分の中に変化があったので、止まろうにも止まれないという部分もありますし、なんだかんだで、自分自身が再度立ち上がろうとしてるからこそ、無意識も影響して少しずつ外に出してるというのもある感じです。
今の状態も、ある時突然に現実で結果を確認することで、自分の中にある開けられない箱が開く、そういう側面もありますし、少なからずそう感じてます。
以降の内容はオマケという感じで。
まぁ、オタクだし良いかなぁ、と思いつつ。
2番の出だしが、
生きる意味 役割を 受け入れたときこそが
幾度 幾度となく 訪れる スタート
なのですが、どうにもこう、自身の体験と被るというか。どうしても、自分の中では拭えないほどに、そういうポイントってあるんですよ、ね。
うん。
って、そんなに聞かせたいんかーい!って感じですが、アニメとは別に、歌ってるangelaというユニットも知ってほしいなぁ、触れて欲しいなぁ、とは思います。
アニメで使用される曲が多いですが、歌詞は結構深いと思うんですよ。
まぁ、ここまで書き忘れましたが、自分に取っての音楽も、色々、ね。
影響がありますし、クラブでDJをしてた時の経験は現状においての、国と個人という部分には、良いものを残してくれてます。
なので、音楽も侮れない。
そう思うんですよね。
ということで。