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書くリハビリ
幼い頃から色々あったがゆえに内側に溜まってしまってるもの。
それを少しずつ出していこう、という目的のもと書き始めたものですが、今回は自身の性別と、その認識について深堀りしようかな、と思います。
正直な所
物心ついた頃から、性自認は体とは逆。
でも、様々な要因から、無理矢理にでも体の性別で長いこと生きてきたので、歪んでる。
そんな感じです。
ぶっちゃけた話、性同一性障害とか、トランスジェンダーとか言うのは、
そういった方が、説明の面倒が省けるだけ
そんな意味合いだったりもします。
なので、時折、性別の悩みという曖昧な表現を使ったりもするんですよ。
そもそも、物心ついた時に、自認したとかそういうの無いですし。
ただただ、同じだと思ってたよく遊んでる子=女の子と体が違ってた事が、ある日突然、あれ?なんでぼくだけちがうの?となった所から、母親に性別というものがあると教えてもらっただけだし、そこで、体がそうだからと言われても、自分でもよくわからないけど体の通りじゃない!という判断になっただけ。
この時に、母から雷を初めて落とされたと言うか。
そう記憶に残るくらいなので、相当にショックだったんだと思います。
それ故に引っ込めて、とりあえずいう事聞いてたけど、幼稚園に上がって制服で二分化されたら、再度泣きわめいたという感じ。
また、小学校に上がってからも、あくまで学校のルールなので、男子と女子に分かれる事は気にしなかっただけで、そうじゃない時は女子グループに自然と混ざってたくらいで。
小3くらいから、女子のほうが成長が早いからなのか、
「一緒にいたらダメ!」
という感じで、突然の様に爪弾きになりだした時に、ようやく性別を自覚したと言うか、意識するようになった。
そんな感じなんですよ。
なのでこう、感受性と同じく、自分が自分らしくあろうとしたら、違いが出てしまう部分という認識も強いので、あまりこう性別として意識することって無いんですよ。
なので、個人としては公的書類で性別記入した所で、何はどうあれ体はそうだからねぇ、そういうルールだしねぇ、程度でしか無く。
苦痛とか、一切感じないんですよね。
サッカーという競技ではゴールキーパーが決められた範囲でのみ、手を使うことが出来る。
そういうのと、同等でしかないんですよ。
なので、性別の記入とか、トイレや更衣室については、特段何も思わないんですよね。ルールですし。
まぁ、トイレと更衣室は怖いと言えば怖いですが、その怖さを女性側のを利用することで自分が感じさせることのほうが、寧ろ嫌です。
帰属意識っていうんですかね。
自然と女子グループに混ざるタイプだったからなのか、成長してはっきり区別出来るようになった以上、それで苦を与えたくないんですよ。
自身も集団入浴とか、水泳の授業での整列とかが苦痛だったので、それを、ね?
同じ思いさせたくないじゃないですか。
自分が我慢するのは苦痛かもしれません。
とはいえ、そういう時代になったから、理解しろって言われても、男性に感じる恐怖感とその苦痛って相当なものですよ?(笑)
それを、権利だ、LGBTだっていうのは、個人としてはソレおかしくね?って思います、はい。
LGBTという言葉について
最近だと、LGBTQどころか、それ以外もあって、何かの暗号ですか?になるほどなのですが。
正直コレも、突っ込んだところを知ってると、意外と個人の好み、嫌悪からの派生でしかない区別ってのも多いんですよ。
Qはクエスチョニングといいますけど、それもう、バイセクシャル=両性愛という、LGBTのBなんじゃない?という感じですが、
それだとセクシャルマイノリティになるし。
印象良くないし。
そういう言葉にハマリたくないから。
違う言葉にしたい!
という感じでね。自由なのか?我儘なのか?という線引が結構曖昧なまま定着してるというか。
正直こう、いつの間にそんなに増えてんの?と言うだけでなく、性別ではなく、思想になってない?という、ね。
ハマりたくない、あれはヤダはいいんですよ。
でも、それって、個人的な都合でしか無いし、そもそも生物学的に言えば雌雄、オスメスなんですよね。
とはいえ、それだと動物と同じになってしまうし、なんか嫌だ。
そういう部分から、男性女性という人間独自の物が存在してる、とでも言うんでしょうかねぇ。
人間が好き勝手自然をいじくり倒した結果を、獣害って言葉で、あたかも動物が悪いみたいな言い方してるのと同じというか、何というか。
そういう部分はさておいて。
自由も権利もいいんですけどね?
そもそも、自由って、家柄や生まれから、職が制限されたり、将来を決めつけられるという束縛から開放されるという意味合いでの自由だとおもいます。
否応なしに、そう決められてしまうから、みたいな、ね。
確かにこう、性別もそうかもしれませんが、これについては、人間だけでなく動物どころか、植物でもそういう部分があるので、ある意味そういうものでもある、という一面があるというか。
人間は無駄に頭でっかちになりすぎてるってのは、個人として否めないんですよね。
それをこう、ね?
あれはいやだー!ハマりたくないー!って。
そもそも、意識してるからそうなるだけで、性別にしろ、感受性にしろ、何にしろ、
自分が自分だから、という感じで、自分の中だけでもそうしとけば良いんですよ。
なんかこう、ねぇ?
自立が出来てないからこそ、不安を感じてしまい、それを拭うのに他力本願になってるんじゃないですか?
と。
まぁ、他力本願って本願寺の由来なので、南無阿弥陀仏を唱えてれば救われるという、阿弥陀仏に頼るという意味での他力本願でもあるので、使い方としては異な部分は出てしまいますが。
自由という言葉だけでなく、無駄に溢れてる情報に振り回されすぎだと思います、ハイ。
なにをどう言われても、自分はそうなんですよ。
という、個人と全体のバランス取りをするなかで、あくまでプライベートレベルではそういう話はする。
でも、集団とか組織とか、社会に出るなら、それを認められない、違う価値観を持つ、様々に違う人がいるので、大筋で同意してるルールに従うだけ。
それに対して、ヤダヤダって子供の我儘みたいに、ダダを捏ねてるのが現状じゃないですかね?
また、人間生きて年を重ねると、経験も増えるし、その中での出会いもあって、様々に変化するものなんですよ。
それにたいして、今っていう超短期的視野しか持てなくなってるんじゃない?
と。
まぁ、真面目すぎと言われる所以がこういう部分にあるわけですが、そういう変遷もあるのを考えると、
LGBTQを多様性という言葉の象徴にしようみたいなのは。
個人としては、ノーサンキューです。
色々離れて、直近の話
少し前に、虐待というワードが気になって触れてみたと書きましたが。
実際、いてええええ・・・って頭抱えました。
まぁ、うっすら気づいてたけど目を背けてたと言うか。
虚無感という言葉は余りだしてなかったですが、普段から感じたり、もう長いこと支配されてるという感じなのも、そういう部分が影響してたのか、という感じです。
とはいえ、一定以上は、経験が経験だけに、見つめようとすると強烈にえずきます。
父が、何事!?って驚いたくらいなので、多分、相当なんだと思います。
今は転院したので、主治医が変わりましたが、根が深すぎて深刻といわれるのも、そういう、ね。
虐待、と言う部分については、生きるためにと言う部分もあり、目を背けてたんですよね。
また、児童だけなのか?という見方をすると、成長してからも虐待というか、自分を主張すると、兎に角否定。
一族郎党が集まってようなら、周囲から一斉に否定。
そういう感じでも有りました。
母が亡くなってから、しばらくも、ひどかったんですよ。
事情が事情だけに、早く治して、長男だから、跡取りだから、と。
病んでるのに、追い詰めないでくんない?って言おうものなら、それでもあなたは長男だからって強くでられるだけで。
長年、性別について隠してたのも、こういう部分があります。
別の方向から話すと、母が責任を果たしたこともあって、自分に課してると言う面があったんですよね。
母が女子だらけというだけでなく、小学校高学年くらいから、自分が親の面倒をみると言ってたらしく。
それに対して、叔母=全員姉にあたりますが、家を出て嫁いだわけなんですよ。
そして、これが、母が亡くなり際に教えてくれた、1歳時点からの気付き方、察し方のおかしさにつながるというか。
まぁ、弟を妊娠したころはつわりの様子から、何かを察したんだと思います。そういう部分からの、ね。
何でこの子はこんなに気づいて気を遣うのか?という、三つ子の魂百まで、を見せるわけですが、成長しながらも、やっぱり母を見てたと言うか、明らかに、婿養子をとって名を付いだからこその、物言いがおかしかったです。
ほんとこう、昭和どころではない、と言わんばかりに、前時代的。
幼い頃の私に対しての色々も、母に向かってましたし、それに対して父も父で、それはお前の家のことだろう、何で俺がと言う感じで。
これを幼稚園時点で、キヅイテタンデスヨー、アハハハハー。
なので、虐待だと。
そういう意味では、結構大変なんですよね。
そして、その部分にはどうしても、感受性と言う部分も絡んでるんですよ。
すごく迷惑です。繊細さんとか。
もう、隠すことすら出来ないほどに、余裕がないので正直に言いますよ。
迷惑です。
そういうワード使ってる人って、相当にネガティブが出てますもん。
自分さえ良ければいい。
自分が安心したいから、これを広めよう。
みたいな。
そういう部分が分かってるので、敢えて、心理学上の概念に触れたほうがいいですよ、みたいな事も言うんですよね。
なんでか?というと、本当にそうあるなら、一応触れて、考えるようになることで、意見を下げがちにもなるのが人間心理。
寧ろ、そういう方を出す人だと、繊細さなんてどこへやらと言わんばかりに、自分が大事すぎて、自己愛大暴走という、ね。
そういう分岐が発生するんですよ。
都合の悪いものは見ない、都合のいいものだけで埋めようとする。
そういう、ね。
ものだと思いますよ。
というかさ。
自分が怒られるどころか、大して怒られることが無いくらい。
逆に、周囲の方が、他者へ配慮ができないし、自分の主張するばかりで衝突するだけでなく、聞いて無いようでしれっと聞いてて、流れを把握した上での仲裁ができるほど、なんですよ。
怒られたことを気にするって、何で怒られてるの?と。
寧ろ、配慮が出来すぎて、怒られるどころか、評価されますし、怒られるとしても、基本的に相手が言うに詰まった上での逆ギレなんですよ。
言葉で勝てないから、感情で攻撃しようみたいな。
気にする、気にしすぎとかも、基本無いです。
おかしすぎるからこそ、他者からの干渉を受けることで、その整理はしますけどね。
基本的に、それは何故か?と言う部分から、只でさえ初手が深いのに更に深くまで行くことで、色々把握するんですよ。
流石に心や思考を読めるわけではないので、可能性とか、恐らくレベルですが。
それでも、何であんた気づいてんの?と。
いや、見てれば、聞いてればわかるでしょ?
気にする、気にしないではなく、感じ取ったが故の情報からの、状況整理ですよ。そのくらいの区別も余裕です。
うん。
気遣いとか、配慮もしたつもりがないのに、その行動と様子から周囲が勝手に、そうしたんだなって判断してるだけ、です。
だから、行動を取ってた当人である私と、意見が食い違うんですよ。
そもそも、そういうつもりがなくて、指摘されて驚くことも多いですし。
今のって、そんなレベルだった?です。
音とか光とか臭いとかも、苦痛ではなく、周囲がえ!?なんで気づけるの?ってくらいに、小さすぎて、もうそれは動物レベルでしょう?に気づけるからこその、敏感、なんですよ。
今でこそ、通信講座レベルの資格とりましたけど、相談上手と言われてたので、
カウンセラーとか向いてるんじゃないの?
というのも、友人から言われたくらいです。
受容と共感、そういう講座で言われることを知らなくとも自然とやってるレベルだったので。
共感できます!って、ね?
喜怒哀楽の様子を視認すれば、誰しも大なり小なり共感って生まれますよ。
それ故に、隣の芝生は青く見えるという、嫉妬すらも生まれるくらいなのが人間です。
共感してしまうがゆえに、可愛さ余って憎さ百倍。
嬉しい、楽しいが羨ましくみえてしまうってね。
それなのに、どうしてこうなるのかなぁ。
うーん。
あとがき
ほんとこう、コント55号じゃないですが。
何でこう、なるの!(ピョンッ!
ってなってしまいます。LGBTにしろ、HSPにしろ。
とはいえ。
こうして書いてみるとやっぱりこう、色々感じ取りすぎと言う部分と、幼い頃のそういう部分への否定や、虐待とも言える環境が影響してるんだろうなぁ、というのは見え隠れします。
ほんとこう、どちらにしても、別の意図っていうんですかね。
何ていうか、弱い人の味方という振りをしつつ、自陣営に人を引き込むのが実は目的、みたいな人もいますから。
うさんくさい、がとまらないです。
LGBTQなんて、頭文字を取っての総称なので、それぞれ個別に分かれるし、そこから更に様々な人がいるので、イメージ付けしても一辺倒になるどころか、マイノリティの中のマイノリティという、ね。
ただでさえ少数派で苦しんでたのに、なんでステレオタイプな人を作るような流れが出来てしまうのか?というのは、否めないです。
また、HSPなんかも、ね?
生きづらいとか、生きづらさだけじゃないから。
喜怒哀楽
感情を示す言葉がありますが、ポジティブなものもありますし、そういう環境に出向くことで、HSPだなんだ関係なく、お互いが影響しあって一緒に楽しむ、盛り上がるという、ね。
人の感受性ってそういう部分があるのに、なんで生きづらさだけになるのか?っていう。
また、個人としては、自分だけってのがありえないです。
寧ろ、視認からの影響で、他者から感じ取れるものから、サポートとか支援、縁の下の力持ち的な、支えるというのは、自分で言うのもなんですが得意とする方で。
そういう部分が、相談上手とか、そういういわれをする部分に当たります。
話を聞いてるだけなのに、相談してる相手以上に、相手を掴んでしまう。
そこから気づかせることも出来てしまうので、自然と解決に向かう。
ただただ、話を聞いただけなのにうまく進んでしまって、気がつけば相談上手と言われ、駆け込み寺になってる時期もありましたし。
音や臭いにしても、周囲よりいち早く気づくし、光の影響での色なんかも色々と評価は高くなります。
自分としては、それが見えてて当たり前。でも、周囲からするとそれは評価に値する、それ程に目立ってる、と。
人が感じ取れるものって、個人としてはそれが当たり前になりがち。
それ故に、逆に悪い方に働いて出る杭になることも多いんですよ。
また、他者の評価がなければ自覚出来ないほどなので、どうしても他者の視点って絡んできます。
自分だけだと、感じ取れて当たり前、気づいて当たり前。
ただただ、それだけでしかないので。
なのでこう、ネガティブ方向に話題が偏りがちなのは、すごく不思議だし、違和感が強くて気持ち悪いんですよ、ね。
うん。
ポジティブ方向でも、出来すぎ、気付き過ぎでおかしいって言われますから(笑)
クラブDJしてた頃も、お客さんが盛り上がってくれることでのポジティブな影響があったからこそ、うまくやれてたようなもので。
クリエイティブな仕事が向いてるというのは。
そういう、ポジティブ、正の影響を受けて、自分が高まるからこそ、っていう。
まぁ、こういうのは経験してないとわからない部分があると思いますが。
絵を描く、デザインをする、その他色が絡むと、そういう部分って嫌でも出てきますよ。
色って光の反射の影響ですし、黒なんかは光を吸収して、反射が低いからこその黒ですから。
ほんとこう、実態を知らないまま、自分に当てはまると思いこんで、自分の都合がいいを語り過ぎなのでは?と思います。
あくまで個人的に。
ということで。