経験から語ってみる17(昔話を交えて
昔話とはいえ、現実のものではなく。
まんが日本昔ばなしという作品の事になります。
何の繋がりが?という感じなのですが、ばっちりあるんですよ。個人としてでなく、おそらくHSPとか感受性が高いタイプであろう人の話が。
そしてそこにあるのは、人の欲や、都合の良し悪しで時代が時代ならフルボッコどころではなく、命を奪う結果になってしまった...という話も無きにしも非ず。
個人的には、まんが日本昔ばなしの終了って、話数がないとか新しい話がないとか継続云々以上に、
これ、放送し続けると都合悪いよなー、だと思っています。
とまぁ、そんな感じで昔ばなしを交えてふれてみようかな?と思います。
昔ばなしとのつながり
いわゆる、神通力や神童、神のお告げが聞ける子、そういう描かれ方をする人がどうなるか?というお話ですね。
こういうのって、ほぼほぼ、
周囲が勝手に勘違いして、周囲が勝手に祭り上げて、周囲に邪魔になったら命を奪う事すら厭わず
という、無責任かつ、自分勝手甚だしい話が多いんですよ。
私自身そうあったというか。
相談上手という話からよく相談を受けてたという時期があったり、不思議とただ聞いただけの話からすっぱ抜いて結果が良い方に動く、という経験をした事って結構多いです。
そして、自分にとって良い方ではなく、相手にとって良い方なんですよね。
何度か書いてますが、話を聞いてるだけでも頭の中でイメージが湧きますし、相手が話してる通りに動いてくれます。そしてその動きの中から、無意識だろうが意識的だろうが、イメージの中の周囲の状況や状態を観察してるので、なんとなしの心理とか心の動きまでが”ある程度の予想が可能”という状態にあったりします。
なので、昔ばなしでいうなら、その場に居ない、その時居ない、過去の思い出話で亡くなった人の話なのに、
正に目の前に居て見えてる、会話してきたかのような様子をぱっと見で示してしまう
という事になり、昔ばなしの作中であればもうこれは!!ってなってしまうという。現在でも、結構驚かれますし、解説しても自分は出来ないからと人によってはイライラ、怒りと共に反論してきたりします。
ほんとこう、面倒くせーのよ、人間って。
そして今となっては、それは自身の感受性や共感から成し得てる物で、決して神様からの~という話にはならないだけ、ということになるんですね。
そういう意味では、現代時代だから自分は生かされてる、生き残れてるという側面も強かったりします。
そこにある人の業
正に業、人間って罪深いんですよ。
そうやって、神童だ、神がかってるだもち上げても、意外と日本昔ばなしでも当人は「話を聞いてればわかるだけだべ」という感じで、感受性による感じ取りや、そこから来る掘り下げ=洞察力みたいな部分から、あくまで恐らく程度で答えたら、なんでか当たってしまってるだけ、という感じなせいもあって、
すごくキョトンとしてる様というのも、作品の中から見受けられたリします。
そりゃ、周りが勝手に勘違いしてるどころか、言葉にして伝えてる、説明してるのに、意に介さずで相手都合で好き好きに言ってるだけでしかない状況が目の前にあるわけですからね。
実際、( ゚Д゚)ハァ?って私もなりますし。
ただ、そこに違いがあるとすれば、
豊作不作や、1年の吉凶など、そんなのどうあがいても無理というのを日本昔ばなしの作品の中だと要求されるんですね。まぁ、死活問題で食えるか、困るか?な部分もありますし、予め知っておきたいと言うのも人間心理なのです。
とはいえ、そんなの無理なのでいくら聞かれても外してしまうんですよね。
そうなるとどうなるか?
持て囃す、持ち上げる中には、勝手に食べ物や、衣類、下手すると金子(描かれ方は小判や千両箱)までを提供する様が見受けられるんですよ。でも、これはそうある人への見返りを期待した上での供物なので、思い通りの見返りがない事に周囲は腹を立てますし、そもそも違うというのを勝手に勘違いした割に、あれはただの人ではないか?と、ようやくそこに来て気づくんですよ。
だから、言ってるじゃないか、普段から...なんですけど。
で、そうなると耳をそろえて返してくれ!ではなく、騙したアイツを痛めつけてやろう、この村から追い出そうとなる。
そして最悪、命を奪うわけですが、不思議と災害が起こり村人もあっけなく...という話もあったりします。
うん。
子供の頃からそういう話を見てたので、嫌でも学んでたんですけどね。
こういうのって。
また、逆のパターンとして、見せかけや騙しで様々な物を提供させる人が痛い目を見てしまうという話もあるんですよ。
意外と学べるまんが日本昔ばなし
学べるんだけど、放映されなくなったので、学べなくなった。
そして、これは意図的じゃないかな?とも、個人的には思いますよ。
本当にそうある人の話は聞かないし、自分たちにとって都合の良さそうな話には飛びついて持て囃すだけでなく、それを主の流れにしようとする。そしてその流れの中には本質がない見た目だけの形骸化が発生する。
結果伴う物は、怒の感情や、それに伴う色々という感じです。
HSPのブームに限らず、こういう側面って見え隠れしてるんですよね。で、自分の都合がいい話にしたいが為、本質を追わないというのは、いつまでやってんだい?という話にもなり得ます。
その、いつまでやってんだい?に気付かれないようにする為に消されたのかな?と。
まぁ、CSなんかでは見る事が出来なくもないかも知れませんが。
そういう意味では、時代劇なんかもそういう流れから、どちらかというと消されたという方でしょう。
因果応報や、しっぺ返しという、己が愚かであるが故に天罰を受ける様をフィクションとはいえ目にしてたら、考え、想像し、自分を改めるのもまた人間ですしね。
そして、こういう部分に正しい、間違いという二元、二極化、二分化に踊らされず、それは何故なのか?という追及を促すのも、感受性だったりするわけなのですが。
なんともはや...という有様かなぁ、って思います。
まぁ、その姿を消した、存在は時の彼方、一応はCSで好きな人は見られるとは言え、そういう人は学ぶ事より娯楽としての見方が強いので、好き物が見てる程度に残してれば誤魔化しも出来るというような、算段なんですかね?
と、痛い所になりそうな部分をチクっとしつつ。
現実すら環境だという話
自分との関係性の有無に限らず、相当に色んな物を感じ取ってしまう程、です。個人的に。
なので、現実そのものすら環境であり、如何ともしがたい物の、それ故に見定める事も出来るというんですかね。
自然環境、宇宙環境、環境ってつきさえすればどこも、そう括られてその中での物の見方が出来上がるんですよ。
個人としては、そういう間仕切りや区切りという物が、元々ないというか、あろうが無かろうが関係ないなので、どうしても現実を深い所で見る事にもなってしまうという話も、実はさも当然という物の見え方をしています。
都合がいい時には持て囃され、困った時の駆け込み寺として扱われる二も関わらず、得手不得手は見てもらえないどころか、思い通りにならなければ抑え込みに来る。
わたしゃ、まんが日本昔ばなしの世界に生きてでもいるのかね?
そう言うのが幼い頃から続いてるんですよ。
そういう意味では精神的に病んだのではなく、周囲や関わってきた人すべて、それは親であろうがなんだろうが、そういう人達に病まされた、とも言えなくもないですが、言わないだけです。
言っても無駄だし、言えば怒の感情で、そうある自分すらも因果応報やしっぺ返しは待ったなし、なので。
平等だなんだいいますけど、こういう因果応報やしっぺ返しって、ほんと平等にあるもんなんですよね。
ただ、それを自覚できるか?観測できるか?の問題があって、気付かないまま受けてたりするかもしれません。
丑の刻参りとか、未だに隠れてあるもんですしね。
人を呪わば穴二つとも言いますが、それすらも超えて人を呪いかねないのも人なんですよ。
はぁ~、こ~りゃこりゃってなぁ。
あとがき
ということで。
ふと、まんが日本昔ばなしを思い出したので、繋げて話してみました。
見た事ある人なら、可能性としてならもしかして、くらいには感じる事が出来る話になってるかなぁ?とは思います。
っていうか。
因果応報だ、四苦八苦だ、他力本願だと、意図せずともそう言う言葉を用いてしまえば、なんかこうそれっぽい人に見えてそうだなぁ。どうしようかなぁ、って思うのですが。
こういう四字熟語みたいなのって、ホント使いやすいんですよね。
それなりに日本では定着してますし、その分何となく程度でも意味は察してもらえるだろうし。変に言葉を使うより楽なんですよね。
うん。
ほんとこう、勝手にイメージが湧くだけでなく、その中から色々受け取れるので、相談にしても、他愛ない話とはいえそれらしい部分があると、勝手に脳内でイメージ化されて、必要とあれば勝手にしゃべってたりするのですよ。その内容をね。
相談なんかにしても、とりあえず話を聞くだけってスタンスなのですが、受け取り手=相談してきた側は何とかしようとしてるのもあって、事が動く分進捗や結果が発生するのも当たり前。
そして、そこには感じ取れる、感じとれないの差で、発生した結果から受け取れる物が変わってしまうので、どうにもこうにも、いくら説明しても出来過ぎるという話にもなってしまう物で。
そこには良い悪いあるし、幼い頃はやはり子供なので、子供のくせに!も付いて回って痛い目を受けただけでなく、成長したらしたで大人の世界にも溜息しか出ないと言うかなんというか。
実際は社会人1年目の時点で、相当に潰れてたんですよ、精神的に。ただ、時代が許さなかったので、否応なしに気力を消費しながら削りながらで過ごしたもんだから枯渇しただけでなく、もう動けないからと休んで回復しようにも削られるという、如何ともしがたい状況が今という感じだったりします。
うん。
何はともあれ、そういう作品をもう一度お茶の間に流してみて、長い時間かけて経過観察でもしてみてくんないかなぁ。
と、最後にぼやきながら、今日はこれにて。