人の見方
とにかくよく気づく。
それどころか、相談という困ったことや、悩みなどを話そうものなら、話してる当人どころか、会話に出てきた関係のある人ですら、
「多分だけどさ、普段からこんな感じ・・・じゃないかな?」
多分、恐らくなので、おっかなびっくり言うわけですが。
「当たってる!」
と。
びっくりする人がいるだけでなく、偶然だからとこちらが言っても、
「偶然でもすごい!」
こうなることがある、それ故に相談上手と言われる。
HSPという言葉に触れると、そういう過去を上げたりしますが、実はコレ。
全然違うんですよねぇ・・・・
はぁ・・・
そもそもとして
当たってる!なんて、わけがない。
ただただ、パッと見の印象というだけでなく、少なからず想像できた行動や言動が、どう見ても一致という、ね。
「見た目だけであって、実際相手がどうなのか?という相手の心理や思考は不明」
個人として、共感という部分では、あくまで見た目の話であって、悲しそうであっても相手の心理や思考はどうなのか?それはわかりません。
というのと、同義です。
わかんないの。
基本的に他人のことは。
ただ、言葉でコミュニケーションをとったり、人の様子としての言葉、真面目だ、優しいだと様々に”様子を例えた”言葉があるだけ、なんですよ。
で、やっかいなのが、この様子を例えた言葉。
概念なんかもそういう、ね。
見た目だけでなく、コミュニケーションとか、調査したとしても、そこで何らかのバイアスが掛かってて”実際は不明瞭なまま”かつ”見た目の印象”で言葉が作られてる。
だから、真面目であるからこそ、冷たく見える人だったり、真面目なんだけど、優しい人という、ね。
真面目として、人を表してるのに、別な部分としては冷たいだ、優しいだ、と。
あんたそれ、相手のことわかってねーじゃん!
こういうのを、ね。
日本語なのに、日本人がよく知らないまま、ホイホイ使うから。
どうにもこうにも、おかしな表現が山のように出てくる。
それが原因だったりするんですよ、ねぇ。
それこそ、衝動的で尊大では?
そういう言葉がある、一致した!
とはいえ、何を考えて、何を目的として、相手はそういう行動をしてるのか?
どうでしょう?
あくまで見た目ではそうであっても、相手がどういう目的で、どういう心理で、どういう思考で、そういう行動をとってるか?という部分は、
ある程度までは一致。
だったとしても、そうしとかないと面倒だからそういうことに”されてる”という可能性もあります。
”個人としては、まさにこれなんですよ”
「真面目とか、気を遣うとか。そうではなく、目で見た瞬間どころか、下手
をすると視野に入るだけでも。気付いて判断するより先に行動、にでるこ
とすらあります。」
「だから、見えたから行動しただけ」
そうなんですよ、目が細かくどころか、詳細に状況把握を一瞬でやりかねない。
それ程に”様々な点を感じ取ってて、一瞬で判断すら挟まず、うごける”
とはいえ。
”全てがそうではなく、それが可能になることがあるだけ”
ぶっちゃけ、最近は生きづらさを前面に押し出す人居ますけど。
アンタの人生、生きづらさだけで構成されとるんかい?
しかも、自分以外。
家族にしろ、職場にしろ、周囲にいる人はどうなのか?
多少のことは表に出さず、黙って頑張ってるという可能性は?
ほんとこう、うちの父親もそうなんですが。
「自分がそうだから、他人がおなじになる、その理由を明確に説明してください。それこそ、自分が同じと思うではなく、そう思うにいたる根拠の部分を話してください」
出来ない人多いから。
言葉があろうが、その言葉通りだと言える、明確な根拠。
要は「その言葉通りだった」というのは相手に確認してないでしょ?
それ程に「勝手に決めつけるなんて、失礼で尊大ですよね」という。
いっときあまりに酷い時期がありました。
うちの父親なんですけどね。
自分が指導する立場にいるとはいえ、指導した相手が覚えない。
アイツは覚えが悪い、コイツはコレを覚えれないからダメ、と。
ホントもう昭和のダメ親父の典型です。
しかも、うつ病を拗らせてメンタルやられてて、社会復帰どころではない私を相手に、そういう話ばかりしてたんですよ。
あまりにひどかったので。
「あんたそれ、ちゃんと指導してんの?私が学生時代にやってた弓道なんかは部で教え上手って言われてたけど、教えても覚えない人とか居なかったけど?」
そうなんですよ。
その、弓道部所属の頃、高校の頃から散々に。
「成績が父の思い通り、理想通りじゃない」を理由に。
「自分のほうがすごくて、お前は全然ダメだ」と言われてたので。
その仕返しをした、そんな感じです。
更には、教え上手と周囲に言われる理由、原因を理解してたので。
説明したら、あらあらまぁまぁ。
「教えた相手に伝わったか?」は確認してなかった。
やっぱりかい、父上・・・という予想通りだったので、珍しく私がお説教したという出来事も経験してます。
正直、他者の話が出ないで、”自分基準でしか考えられない人”って、ものすごく尊大すぎて、失礼な人だと。
思います。
「おかしい、あり得ない」レベルであれば
都合のいい時は上げて、褒められるのに。
あまりに感じすぎてて、人の域を超えてるので。
褒めたと思えば、即座に「おかしいありえない」
こういう手のひら返しが、幼稚園児の頃から。
「まぁ、いつものことだし、こういう人って話きかないから、放って置いていいよ」
と、言われる本人が呆れて白けてしまってるほどに、言われますから。
自分に取っては、感じれるのは幼い頃から変わらず。
でも、そうじゃない人にとっては、自分がそうあらないどころか「会ったことないわ、そんなに感じれる人」というほどです。
メンタル病んでて、市のサービス使ってて、指定の相談員さんがいるわけですが。
話しを聞くだけで、偶然とは言え一致しすぎどころか、そこを参考に動いたら事態が進んだので。
「共感性のおばけですね」と。
冗談で言い合える間柄なので、そう言われましたが。
やっぱりいつも通り、私の方は、
「いや、たまたま偶然。昔から、こういう事多いんですよ」
ほんと、ね。
正直、感じる感じないとは言え、意識しなくても出来てしまうほど、です。
光が眩しいとか、しょーもない。
こちとら、日中であればカーテンしてないと、我慢して過ごす事になるほどに感じ続けてますが?
PCのモニターだって液晶なら、ね?
仕組みとして、光源があるので、目に響きます。
PCを使ってると、疲れ目になりやすいのも、肩こりだけでなく、そういう光源からの光の影響という部分もありますよ?
とはいえ、それでツライツライ言ってたら。
それこそ生きていけないですからね?
小学校に上がったら、幼稚園とかと比較すると、グラウンドや校庭が白くて眩しかったんですよ。
それで、眩しいって素直に言ってたら「おかしい」と。
皆から言われるから、グラウンドの白さが眩しいのは自分だけなのかー。
それだけでなく、校舎も光が当たってると眩しいのですが、それも自分だけ。
こういうのは、今でこそ慣れましたが。
正直いうと目に響いてる=眩しい、なんですよ。
強い光が当たったから、ではなく。
そういう白なんかも光の反射があるゆえに色が見えるので。
色によっては、反射と吸収の兼ね合いから、眩しく感じるものです。
光沢がなければ、一番響かないのは黒です。
光を吸収するといわれてるからか。
今でこそ慣れた=意識しなくても我慢できてる=常に体は我慢してる
辛いとか、疲れるとか、そもそも「当たり前過ぎるレベル」です。
でも、そういう感じるという部分が、自然と様々な方向、様々な形で出るので、人当たりという部分では、特段様子をうかがってるようには見えないのに。
何でそんなに気付けるの?と疑問を投げかけられるほど、自然と。
周囲からは「配慮してるよね」と見られてしまう。
だから配慮出来るとか、やってるではないのですよ。
普通の状態が、そういう部分でも過ぎてて、そうじゃない人からは「配慮してる」という言葉が出るほど。
なのでいっとき「見ればわかるでしょ?」と口にしすぎてたので、叩かれてもいた、と。
見ただけじゃわからない。
そんな事出来るのお前だけ。
いやいや、そういうのは君だけだよ、と返しても。
周囲の人を呼ばれて、話が伝わると。
「普段から思ってるけど言ってないだけで。」
「すっごく気が付きすぎてる」
「あーれ?誰しも目があるし、見えてるのはほぼ同じだし、見えるんじゃないの?」
が、そういう感情の機微や、相手の様子という部分では違ってた。
知った時は、結構ショックでしたよ。
良いか悪いか判断できないだけでなく「おまえだけ出来てる。おまえだけおかしい」でしたから。
母親については、そうある、と教えてくれてただけでなく。
少なからず受け止めてくれてたので。
まだ、確認は取れてましたけど、ね。
父は認められないので、言えば切れるし。
小学校になれば、幼稚園より、1日が長いですから。
確認できる人が居ないので、事あるごとになにか言われるだけでなく。
出来すぎる事で叩かれる。
見えてるからこそ出来る事をやったから周囲は反応したのに、
「おかしい、ありえない」
否定を日常的に受けるほどだったので。
学校に行くこと自体が苦痛になりすぎて、過敏性腸症候群を発症した。
でも、昭和だったので、そういう症状はなかったし。
痛みとお腹の下りに耐えながら。
学校どころか、高校出て社会人になっても治まらず。
週の大半がそれなので、痛みこらえながら、普通の生活してましたが?
ほんとこう、楽したい人達ばかりだったので。
とにかく、違いすぎる部分を持つ個人なんか、体の良いスケープ・ゴート扱いだし、楽どころじゃねーって。
真面目な話として。
真面目、という表面上の理由だけで、そういう辛さを訴えると。
嫌な顔されるばかりだったわけなんですよ。
こういう話も、あまりの酷さに
受け止めてくれる人すくないですよ。
我慢してるのは誰でも同じ、とか、今でも「昭和とかわんねー!」ですから。
違い過ぎる、という部分は。
他者にとっての「自分たちの有利=多数派だから」になるようだと。
痛みも辛さも知ったこっちゃない。
こういうのを40年ほど経験してますがなにか?
結構、これ、本当の話です。
幼い頃からそうあったので、それこそ人格変えるほど繕うのが当たり前。
なので、「自室から出るだけでも」、環境からの影響という言葉が分かるほどに、自分の中でスイッチ入るのがわかってしまう。
もう、40年って取り返しがつかないほどに、ネガティブどころか、よろしくない環境で育って、過ごしてしてきてるんですよ。
結果、精神病んで、もうダメだ-という感じ。
やる気を出すも何も、過敏性腸症候群としての下痢や痛みに耐えるところだけでも、相当に気力削ってるので。
普通に生活する、を体が受け付けないほどになりました。
自分がどう、ではないんですよ。
あまりに感じすぎてしまうので、素直に出してたら、それこそ見知らぬ他人なんてどうでるかわかりません。
それこそ、親からすらもケアがない。
そういうとっても親不孝だと言わんばかりに言ってしまうほどに。
本当に辛い時こそ、一人で立つ。踏ん張る。
そうするしかなかったんですよ。
心配するのは良いけど。
やりたいようにやらせてくれる。それに寄り添うだけ。
という人いないですから。
「自分はこう思う」を即座に付きつけるのは良いけど、こっちの実態とあってないので「良いから放っておいて」としか言えないんですよ。
分からない、掴めない。
相手を伺えないのに、心配するから、心配がきちんと出来てない。
痛いだ、辛いだ、苦しいだを我慢するだけで精一杯の状態で、何かあれば自分から申し出る。
普段からそうしてても、勝手に口挟んでくるから、神経をヤスリでこすられるような感じになってしまう。
こういうのって、心配してるとはいえ、心配は相手の為にするものだから、逆撫でになるようだと、自分の不得手を自覚して行動しないとダメなんですよ。
で、相談員さんに話した内容が、こういう部分。
心配してるんでしょうけど、恐らく、家族が距離感誤ってるので。
追えば逃げる状態だから、押してダメなら、引かないと。
その人は、話しを聞く状態に”なれないと思いますよ”
という感じで、距離感を意識したほうが良いで?という話しをしたら、たまたまそこが当たってた、という感じです。
個人として、なんでわかってくれるのか?受け止めてくれるのか?と。
相談してて言われる部分も、こういう部分です。
無理な時は話さなくていいから。
話したくなるまで付き合うし、いくら日が空いてもいいから。
時間気にせず、もうだめ!ってときは、連絡してこい。
こっちも事情を把握した分動くから。
そういって、相手に合わせて行動してただけ、です。
で。
個人としては、これ、普通じゃない?
という、ね。
どこか、ネジ外れてるんじゃないの?
冗談でもそう言われるほど、なんですよ
あとがき
正直、辛いなんてのは。
たとえ子供であっても、子供側の心理、思考、気持ちがあるから。
親や、大人の思い通りにならないのが当たり前。
そして、懐かれるという部分では。
こういう部分を受け止めて。
実際、同じ様な部分であろう、自分の経験をはなしてると、相手側がそれを一致してくれるだけ、です。
コミュニケーションって、そういう、気持ちの部分でもすり合わせ出来たほうが、良いと思います。
自分が出来なくて苦しい。
でも、他者が出来ないのはダメ。
これは、深い所でそうある人が確実に多いです。
心配してあげてるのに、とか聞くようならもう、即座に、
「心配って相手の為にするものでしょ?なんで、してあげてるのに、とか。
思い通りにならないのはおかしい、みたいに言ってんの?」
お前のためにやってるんだから、こっちが満足する反応を示せ。
そんなの心配じゃねーわ・・・と思います。
お寺の鐘がゴーンじゃないですが。
叩いてるけど、音がならない。
で、どうなってんの!ってお寺の人に聞いたら、こうすれば・・・と。
思いもよらぬ叩き方で、ゴオオオオオオオン。
みたいな。
お寺の鐘はこう叩けば音がなるはず!=心配してるのに!
という感じで、実は何も相手を知り得てないし、間違えてただけ。
こういう事多いですよ?
相談上手と言われ、よく相談に乗ってたときも、こういうケースありましたし。
意思表示しても、その意志を汲んでくれない。
相手がしたいだけの、心配や気遣いをされるばかりで、ストレスだ!
とかね・・・(´・ω・`)
まぁ、逆に、心配される側が、もっとこうして、もっとこうあって、もっともっと!と、自分を出しすぎて自滅してるというケースもあるので、一概には言えないですが。
共通して言えるのは、他者に対して自分を出しすぎ、と思います。
こうしてるから、こうなってくれるはず。
こういうことだから、気付いてやってくれるはず。
ハズハズ運転してたら、子供が飛び出して事故。
そういう話聞くでしょ?
地方在住なので、マイカー必須。
それ故に出来る話ですけどね。
自分がこうあるから、相手、他者もこうあるはず!
なーんにも、普段から、見えてもなければ、見てる”つもり”なだけなんでしょうね。
そして、こういう自分を出しすぎての”つもり”に触れると。
「あんたって、感受性が高いのね」
はぁー。
普段からそうあるのに。
気付けないんだよなぁ。
やれやれです。
ということで。
今回は深い故に、個人としてのどす黒い部分をだしましたが。
正直言って、本当にそうあるなら。
疲れるなんて当たり前。
寧ろそれが対人関係であるほど、把握できるものですが?
それこそ、感情の機微も感じすぎる方なので。
その対応のレベルに驚かれます。
そういうのが普通、それ程に感じる身からすると、ね?
なんでそんなに、ほいほいと、他人を絡めてツライツライいってんの?
自分の事すらもわかってないでしょ?
流石に、もうね?
呆れるどころでは、ない。
です。
辛い自分が可愛そう、それを言葉使ってやってるだけじゃないの?
厳しいかもしれないですけどね。
それこそ、そういうのが漏れてるんですから。
こちらとしては、感じさせないように、隠せ?
とも、言えてしまいます。
それでは。