「セクシストおじいちゃん」
森喜朗くん(83)が会長を辞めた。女性のいる会議は長引くから、発言をある程度規制しないとだめらしい。
今度は二階俊博くん(82)が、自民党の党幹部会議を女性に見せてくれるようだ。もちろん発言権はなしで。
「おじいちゃんセクシスト」たちが世間を騒がせている。
彼らの発言を問題視する人々は声を上げた。セクシストにNOを訴える声の中に、「老害」という呼び名が混じる。
あるいは声をあげない人の中に、また「おじいちゃん(たち)」が変なこと言ってる、とスルーする感覚が見える。
みんな、彼らの発言がおかしいことに気付いている。少なからず違和感や反発を覚えている。と同時に、彼らの性差別的な価値観を年齢のせいにしている。そういう風潮がある。
確かに年齢は、ある人が人生で経験するできごとに影響を与える。生まれた時代、生きてきた時代に社会が持っていた価値観を浴びて、その人は生きてきたからだ。
かといって、森喜朗(または二階俊博)=おじいちゃん=セクシスト=老害という等式は正解ではない。
性差別発言をした「森喜朗(または二階俊博)」を「老害」という言葉に結びつける人の頭の中には、「セクシスト=害」という感覚があるはずだ。その感覚自体は間違っていない。セクシズムは害だ。性によって人間は差別されてはいけない。
その感覚があるからこそ、森喜朗や二階俊博の発言に違和感や反発を覚えるのだろう。
だが、その違和感や反発が、彼らが「おじいちゃんであること」に向かうのは間違いだ。彼らへの批判は、彼らに根付く「セクシズム」に向かうべきなのであって、彼らの持つ「老齢」という属性に向かうべきではない。
「おじいちゃんセクシスト」だけでなく、「おねえさんセクシスト」も「おにいさんセクシスト」も「おばさんセクシスト」も「おじさんセクシスト」も「おばあちゃんセクシスト」も、あらゆるセクシストが同じように、性差別をしているという理由で批判されるべきだ。
「若い」ということが性差別フリーを意味しない(実際、私と同年代のセクシストはうじゃうじゃいる)のと同じように、「歳をとっている」ということが必然的にセクシストであることを意味しない。つまり「老齢である」ことはセクシストであることの正当化にもならない。「おじいちゃんだからそういう価値観なんだ(から仕方ない)」は通用しない。
「おじいちゃんであること」よりも「セクシストであること」の方に注目すべきということだ。
彼らの発言への違和感や反発が、彼らが「老齢」であることに向かうのは間違いだと述べた。1つ目の理由は上記のように、批判が向かうべきは年齢関係なくセクシズムそのものだからだ。
もう1つ理由がある。彼らへの批判を年齢に向け、「老害」と呼ぶことは、「歳をとっていること」と「性差別すること」と本質的に結びつける考え方(本質主義)だからだ。ジェンダー論は、本質主義を取らない。先述のように「老害」という言葉を彼らに使う人には「性差別は害だ」というジェンダーの感覚があるはずだ。それなのに、ジェンダー論が回避する本質主義を使っている。これは矛盾だ。
本質主義というのは、「おじいちゃんという種類の人間は、性差別をする(=害だ)」と想定されているということ。それが生まれつき自然なもので、社会的歴史的文脈から独立しており、時間を経ても変わらないと思われているということだ。
おじいちゃん=セクシストという等式が「本質的」ならば、森喜朗くんや二階俊博くんに変わるチャンスは無いということになる。
果たしてそれでいいのか?
ジェンダー(性別)というものは、社会的実践の産物であり、構築されたものだ。「生まれつきで変わることのないもの」ではなく、「可変で流動的なもの」だ。
したがって性別による関係性も可変であり、新しく構築していける。女性は本質的に男性に従属するものではなく、社会のしくみを作り変えることによって性別に関わらず対等な関係を築ける。これが、ジェンダー論の取る「社会構築主義」の立場だ。
ジェンダー研究の重要なポイントは、本質主義ではなく社会構築主義の立場を取るという点だ。だから老齢であることを「本質的」にジェンダー平等の敵と見なすことは、ジェンダーの論理に矛盾する。
森くんや二階くんも、他のあらゆる人間と同じように可変で流動的な社会的動物なのであり、文脈の中に生きている。彼らが現在持っているセクシズムは批判されて然るべきだ。彼らが性差別をしてきたこと、家父長制の維持に加担してきたことは絶対に無実ではない。しかし、彼らの老齢を元凶としてはいけない。彼らが変化する可能性を否定してはいけない。それはジェンダーの論理に反する。私たちは本質主義的にではなく、社会構築主義的に考えねばならない。
私は最初からフェミニストだったわけではない。というか、なったのはつい最近の、ここ何ヶ月かのことだ。
気づくという段階を、人生のどの時期で通過するは人それぞれだ。私自身これまでさんざん加担してきたものがある。特権だって享受してきた。そのことに自覚的になること、自己批判をすること、他者からどう見えているか知ること。しんどい作業だが、私たちはそうすべきだ。