「差別の意図はありませんでしたが、誤解を招いてしまい、……」だと差別は終わらない
差別はたいてい、しようと思ってするのではなく、無意識に行った振る舞いが差別であることが多い。
これまでに何回か、「それは差別ですよ」と相手に伝えたことがある。差別である証拠や理由を詳細に述べたうえで。
しかし相手の反応は、「そうでしたか、すみません。改めます」ではなく、「それは決めつけです。私は差別しようという意図はありません」または「誤解です」というものだった。
「差別しようという意図はありません。」
そりゃそうだろう。たいていの人は「差別はいけないこと」と知っている。わざわざ積極的・自覚的に差別しにいこうとする人は少数派だろう。
そして差別する「意図があったかどうか」と、ある人が「差別の言動を行ったという事実」とは別の問題だ。意図しなかったからといって、実際に差別の言動を行ったという事実を正当化することにはならない。
よってこの返答になんの有効性もない。
「それは決めつけです。」「誤解です。」
こういう言葉がなぜ出てくるのかを考えてみれば、差別をしている当人が、自身の行なっている差別に無自覚であるからに他ならない。
「私は差別をしていない(と思っている)のに、差別をしていると言われるのは“決めつけだ/誤解だ”」というわけである。
さらに、このような反応をする人は、自身の差別に気づいていないがために「どうして私が差別主義者だと糾弾されなければならないのか。私は無実なのに」という被害者意識さえ持つことがある。
このように、差別した人のうち自分の差別自体に気づくことができない人は、残念ながら、被害者意識を増大させることはあっても、反省や批判を自分自身に向かわせることはない。
そして相変わらず無自覚なまま、差別的な言動を続けるのだろう。
無知・無意識・無自覚
このような愚かで不誠実な振る舞いは、まず社会と他者への無知に始まっている。無知であるがゆえに、なんの思慮もなく無意識に、差別的な言動ができる。そして無知で無意識であるがゆえに、自分の行った差別に無自覚でいられるのである。
差別したという認知と自覚と意識がなければ、その人が自分の言動を反省し、改めることはない。
「差別はいけないこと」という原則を実践するには、無知を克服し、無意識を批判し、無自覚を反省しようとする絶え間ない努力が必要だ。
言いかえれば、積極的な「アンチ差別」にならない限り、私たちは差別主義者のままなのである。