Netflix映画『ハーフ・オブ・イット』とインターセクショナリティ
インターセクショナリティの話と言ったらあまりに作品の文学性やエンタメ性を無視しているかもしれない。
だがNetflix映画『ハーフ・オブ・イット』のキーワードはintersectionalityとunderstandingだと思う。
主人公エリーは中国系で、父はPhDを持つエンジニアなのに職は田舎町の駅長。学校で彼女は中国系であることでからかわれている。
そんな彼女が恋しているのが、同性のアスター。
教会や晩餐、学校での会話から、キリスト教の信仰がものすごく根強い町であるという伏線が張られている。その伏線が導くシーンが、ポールの「大罪」という言葉だ。
エリーのアイデンティティを拒否するのは、キリスト教の信仰だけではない。
学校で、家庭で、友達の間で交わされる会話や行動の1つ1つに、その要素が見え隠れしている。
例えば、アスターの、男の話をしない女の子は初めてという言葉。
例えば、ポールの、キスしてほしいんじゃないのかという言葉と行動。彼の、女性の意思は男性が汲みとるもので、わざわざ言葉にしなきゃ分からないのはバカだという考え。
例えば、トリッグの、僕が好きだろという自信満々で的はずれな言葉。
例えば、アスターの父親の、もっと姿勢よく、女性らしくという言葉。
例えば、エリーの父親の、君たちは別れたのかという言葉。
女性は男性が好きで、男性は女性をリードするもので、女性は女性らしく男性に好かれるように振る舞うもので、女性と男性が一緒にいたら恋人なのだという価値観を、当たり前のように共有している。
しかしポールは、古着屋で女性らしいブラウスとスカートを選ぼうとしたエリーに、「君らしくない」といってシャツとパンツを選んだ。
そして「正しい愛し方」は1つだと思っていた彼は、エリーを理解することをとおして色々な愛し方があることを知った。
この映画のテーマはunderstandingなのだろうか。
“地獄とは他人である”
作中に2度登場するサルトルの言葉は、「他人が他人であるがゆえに理解されないという地獄」という解釈なのかもしれない。
それでも理解しようとする他人どうしの姿を、この映画は描こうとしたのだろうか。
ポールの代わりに書いていたはずの手紙で、エリーはアスターに理解されていると感じたし、アスターもまたそうだった。そしてポールも、間違えながらエリーを理解していった。