GLAY HIGHCOMMUNICATIONS TOUR 2003
ひとりの赤ん坊が成人するだけの年月が経過しているという事実に、やや目が眩みそうである。
今から20年前、とにもかくにもいろいろな会場のいろいろな形態のライブに参加して、「遅れ」を取り戻さねばならぬという想いに憑りつかれていた十九・二十歳頃。
別に受験勉強でもないのだから、ファンとして「遅れ」なんてものは存在しないわけだけれども。
ともかくGLAYについて「他の人が知っているのに、自分は知らない部分があること」が怖くて怖くて仕方なかったように思う。
あの伝説の20万人ライブに参加していないことがかなり大きなウエイトを占めているのだが、それについてはまた別の手記が残っているので後ほど紹介する機会があるかもしれない。
私の通っていた大学ではいわゆる高校までのような「時間割」のように受ける授業が決められているわけではなく、卒業するために受けなければならない講義の単位数が分野ごとに決まっているだけで、それに合わせて自分で受講する講義を組み立てる形だった。
その講義の内容や単位取得の条件などが載っている説明書みないなものが「シラバス」である。
いい意味でも悪い意味でもどうしようもないほど真面目で、手を抜く術を知らなかった私は、ライブに行くためにシラバスととことんにらめっこし、なるべくレポート提出で単位が取れる講義を選択し、テストがあるものについてはライブと日程が重ならないように必死で予測と調整を行っていた。
なんなら全講義において好成績を修めた者に許される「3年生での早期卒業」をも狙っていたので(結局叶いはしないのだが)、時間割は月曜から金曜までパンパンであった。
この時はまだ無自覚の広汎性発達障害とトラウマを抱えながらの初めての一人暮らし、完璧な学業とライブ遠征を両立させるスケジュール調整。
「ライブなんてただの趣味なのに何故そこまで根詰めるのか」
「ライブなんてただの趣味なのだから体調不良の言い訳にするな」
※この後パニック発作に関する描写があるため、つらい方は読み飛ばしてください。
「学生なんだから学業に集中しろ」と言われればそれまでなのだが、他人にどう思われようと、当時の私にとってライブは文字通り命がけだった。
後に「うつ」「パニック障害」と診断される心身症状に悩まされ始めたのがちょうどこのライブツアー中のことだった。
貧乏学生夜行バス10時間の旅が定番だったわけで、終始パニック発作に襲われて過呼吸と死の恐怖感との戦いの中で泣きながら一睡もできずにそのままライブということも一度や二度ではない。
遠征先の飲食店で、食事が喉を通らないどころか水まで飲めなくなってしまい、泣き出したところでついに相方がキレて「ひとが楽しんでるのになんなの?」と言われ、申し訳なさで胸がいっぱいで、それはもうこの世の終わりみたいなメンタルだった。
ライブで泣いていたのだって、決して感動して泣いただけではなかった。
ライブが始まって照明が暗転するともれなくパニック発作が出るという致命的な症状…息ができない苦しみの中で、まったく冗談ではなく「このライブが最後になるもしれない」という考えが頭を過っては涙していたのだ。
(約1年後に投薬が奏功してパニック障害は快方に向かうので安心してほしい。)
そんな状況にありながら、このツアーのプロモーションラジオへのメンバー出演2本から始まり、ライブ8公演に参加というのはもちろん後にも先にも参加本数最多記録である。
それだけライブというものに憑りつかれ、「遅れ」と取り戻そうと必死だった。
表向き楽しそうな数ヶ月の記録をここに修正・加筆して公開するので、もしこのツアーに参加された方がいらしたら一緒に懐かしんでいただければ幸いである。
2003/01/27 ラジオキャンペーンinFM岩手 担当:HISASHIさん
出待ちの私たちに手を振ってくれたひさしさんが
ちっちゃくて可愛くて格好良くて最高でした。
2003/01/28 ラジオキャンペーンinDateFM 担当:HISASHIさん
プロモーションと言いながらベルマークの話?
ラジオ局前の寒い路上で韓国語の課題をやる。
最終新幹線で盛岡に帰る。
でもその課題は結局B判定。ガーン。
2003/02/28 日本武道館 2階南-K列4*番
すり鉢状の座席におびえた。
あまりにも高すぎて、ステージセットの上面が見えた。
ゴンドラが死角になり、てるさんが降りてきたことに気づかず
「テルがいない!!!」と焦っていた。
「武道館」という夢がまたひとつ叶った。
2003/04/06 横浜アリーナ 車椅子席
2002年の時よりもステージにずっと近い。
花道がないと思っていたら、目の前にてるさんがせり上がり!!
近すぎてビックリして泣いてしまった。
最後に私に向かって合図して、てるさんがリストバンドを投げてくれた。
失礼にもキャッチできなかったワケだが…。
どう思ったのか、じろうさんが去り際にちっちゃくバイバイしてくれた。
悔いが残りつつも、充実したライブだった。
実はこの頃、激しいパニック発作に悩まされていた。
だからこそ聴く音、観るモノすべてが大切に思えて仕方なかった。
2003/04/07 横浜アリーナ アリーナC-19列2*番
対角線上でいちばんステージから遠い席。
GLAYなのか、何なのかもわからなかった。
でも、『またここであいましょう』で紙吹雪が舞ったとき
理由もなく無性に泣けたことだけは強く覚えている。
2003/04/19 盛岡市アイスアリーナ アリーナ14列5*番
2000年のリベンジだった。
狭い会場、ステージの目の前、環境は万全。
アンコールで『I'm in love』を歌い出す。
みんなの声をまとめ上げるのが、もう快感になっていた。
田舎だってこのくらいできるんだぞって。
「みんな歌うの好きだねぇ~」と、てるさん。
してやったり。
2003/04/20 盛岡市アイスアリーナ アリーナ22列6*番
たくろーさんの目の前でありえないくらいジャンプしていたのは私です。
東北にはウエーブの文化がないので、これだけが成功させられなかったのが心残りかな。
2003/04/23 仙台グランディ・21 アリーナ5列2*番
またこっちに向かって投げてくれたじろうさんのピックを取り逃す
失礼なわたしたち。
2003/04/24 仙台グランディ・21 アリーナ39列4*番
盛岡ー仙台を新幹線で往復しまくる日々。
この時間とお金の無駄さはありえない!!
後で思えば授業なんて自主休講してしまえば良かったのに…
なんて真面目だったんだろう。
だからうつ病にもなるんだよ。
てるさんのHOWEVER弾き語りで手拍子するんじゃないよ!田舎!
2003/05/18 横浜アリーナ for VIDEO SHOOTING アリーナC3列6*番
ライブ直後に横浜アリーナの公衆電話で取ったチケットで横浜アリーナに来る。
まさか年に5回もここに来るとは。
シャングリラ(松任谷由実さんのコンサート)!?と勘違いするような夜光ピエロたちが怖かった…
ライブビデオに映るのが夢で参加したこの公演も結局遠い席でカメラの死角。
病気になり、日々生きていることを噛み締めながらまわったこのツアー。
楽しかった。
NO WAR→ONE LOVE
当時の表現をそのまま残しており、文中に一部横柄で乱暴な表現があったことをお詫び申し上げる。
人というのは往々にしてそういうものらしいのだが、私も例に漏れず、この年頃は何故かだいたい世の中をわかった気になっていて、いわゆる「無敵」の状態だったと思う。
それに加えて、大学のレポートを書くことの影響というのも多分にあり、わかった気になっている発言や妙に批判的な物言いがこの後さらに増えてくるので、生温かい目で見守っていただけるとありがたい。
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