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実方とつれない枕草子
枕草子の小白河の法華八講についての記事、藤原実方に注目すると、清少納言との関係について考えてしまうのです。
前回の続きも含んでいます。
清少納言の実方
遅れて来た女車に使いを送り、反応を見る公達。使いはなかなか戻って来ません。藤原義懐は女車から歌が届いた時のために、実方に
「歌などよむにやあらむ。兵衛の佐、返しおもひまうけよ(歌でも詠んでいるのだろうか。兵衛の佐、返歌を考えて用意しておけよ)」
と命じます。
義懐は実方ならおもしろい歌が詠めると認めているのですね。
女車へ使わした者を用意させられたのは、この屋敷の主の養子の実方でした。
ちなみにこの頃の実方は、本当は少将です。
『実方集』にも義懐の名が出てきます。
また、実方も義懐も花山天皇に重用された点でも懇意であったと考えてゆるされないでしょうか。
ところで、清少納言は、後に定子付きの女房として出仕した折、新嘗祭で若い女房に歌を詠みかける実方を記録しています。
(宮の五節いだせ給ふに)
…まいて、歌よむと知りたる人のは、おぼろげならざらんは、いかでかと、つつましきこそはわろけれ。
…まして、歌を詠むと知られている人の歌は、ただならないものなら、どうしようかと、慎ましげに返歌しないことこそよくない。
清少納言は中宮定子のメンツのために、代わりに返歌を作るのですが、実方には伝わらず、ここでも二人が話す事はありませんでした。
実方は枕草子の清少納言とは、接点の無いけれど、歌の上手と認識されています。
実方の清少納言
実方の方は、彼の私家集で宮中で清少納言との昔の関係を匂わせています。
もとすけがむすめの、中宮にさぶらふを、おほかたにて、いとなつかしうかたらひて、人には知らせず、絶えぬ仲にてあるを、いかなるにか、久しうおとづれぬを、おほぞうにてものなど言ふに、おんなさしよりて、「忘れ給にけるよ」といふ、答(いら)へはせで、立ちにけり、すなはち
忘れずよまたわすれずよかはらやの下たく煙(けぶり)したむせびつゝ
清原元輔の娘が中宮にお仕えしているのを、何食わないように、とてもなつかしく語らって、他の人には知らせず関係が続いているものの、ありふれた感じに話などしていると、彼女はこっそり近寄って、「お忘れになったのよ」と言う。返事はしないで、その場を離れ、すぐに歌を届けさせた。
忘れないよ、ああ忘れないとも。瓦焼きの窯の火がくすぶって煙がこもるように、見せないだけで、あなたを想う気持ちは変わらず抱いているよ。(「瓦屋」と「変わらない」を掛けている)
返し、清少納言
葦の屋の下たく煙つれなくて絶えざりけるも何によりてぞ
返歌、清少納言
葦の粗末な家で炊く煙はつれなくて、隙間から抜けていくものでしょう?私たちの仲は途絶えたのに、どうしてそのようなことをおっしゃるの?
態度には見えなくても想いは秘めているという実方に、冷めた返事の清少納言。
先の会話で、実方が口を滑らせて、何かカチンとくるようなことを言ったようにも思えてしまいます。
もし、清少納言が実方と恋仲だったのなら、小白河の法華八講のことも新嘗祭のことも、おもしろくはなかったでしょうね。
実方との接点がなかった理由
枕草子に実方のことは差し障りなく書かれていることについては、
◎清少納言は定子の輝かしい姿を描きたかった。
◎そのためには自身のプライベートについては必要なかった。
◎そして、実方は定子の妹で、東宮妃である原子のライバル娍子の兄(父の養子)であった。
と、今のところは考えています。しかし、新嘗祭の日、実方に返歌を届けられなかった清少納言は、貴公子たちをその機知の豊かさで驚かせ、定子に仕える女房たちの知性の高さを見せるいつもの彼女ではないような気がします。
研究書などを読んで深めていきたいところです。
こちらの記事もよければ、実方と清少納言について書いています。
【参考】
池田亀鑑校訂『枕草子』岩波文庫
松尾聰・永井和子訳注『枕草子[能因本]』笠間書院
『新日本古典文学大系 平安私家集』岩波書店
他