見出し画像

読書感想 市川沙央『ハンチバック』(文藝春秋)

ハンチバック。
昨日の朝『君たちはどう生きるか』を巻末まで読み終えて、これから読もう、と思っていた夕方、本作の芥川賞受賞の報が流れてきた。

折しも仕事で(嘘、本当はチームランチで)気疲れしてしまって、本当は退勤即ジムに行くつもりだったのに自席から立ち上がれなかったから、仕事終わりにそのまま通読しました。

全編を通して大きな話として感じたことは「無自覚なマチズモ」への提言なので、その意味では受賞インタビューで市川さんがおっしゃっていた狙い通りの感想だし、「正解」の読み方をしている、のでしょう。
(ちなみに受賞後のインタビューでご本人が答えていたのだけど、「当事者文学」と軽率に表現されていくことについては、了解しているそうです。そのように人口に膾炙することで問題提起できれば良い、とのことでした。)
ただしそこに至るのに、主人公の井沢釈華(著者とイニシャルを揃えている)が世の「本好き」や健常者に対して抱く思いから直接的に…では(だけでは)なく、個人的なショックを経由しています。

自分の中にある仮説が立ってしまった。
それは、自分には「女性が、自分の身体を性の営みに関わらせることの受容と願望」が理解できない、ということ。

まどろっこしいな。↑の表現、ああでもないこうでもないと散々打っては消し打っては消しを繰り返している。

どうやら、「女性の性や性行為への執着」という要素がキーとなると、途端に心が置いてけぼりになってしまう、ということに気が付きました。

実は今年に入って読んだ本で、いまいち心がついていけなかった作品がもうひとつ。高瀬隼子さんの『犬のかたちをしているもの』。物語の核もその不能性の性質も違うけれど、『犬のかたちをしているもの』と本作は、「主人公の、出産できない個体である女性が、性行為に意味/価値を見出している」という点は共通しています。『犬の〜』主人公の薫の価値観に、あの人は社会の抑圧を内面化してしまってる人として描かれているのだろうけど、ついていけなかった。

共感できない部分があるだけならこんなふうに思わない。共感しなくても感じ入ることはたくさんある。
けど「このこと」については、それが舞台装置であろうと、前提条件として受け入れられていることに、まるで置き去りにされているような感覚を覚えてしまった。それが尾を引いて、なかなか物語に入り込んでいけない。
語り手女性が性行為を肯定している、性行為に特別の意味があると考えている、語り手自身もその世界観の中に存在している(本人が営むにしろ営まないにしろ、その選択肢の中で生きている)、それだけで私は疎外感を覚えてしまう。

きっと私自身が性嫌悪的なものを持っているのでしょう。私は自分の女性性がどこまでも嫌いです。自分だけは無性になりたい。世の中にどれだけ恋愛も、恋愛と連動した性欲も連動しない性欲も氾濫していれば良いと思うけど、自分と自分の肉体は参画したくない。

しかし、本作を(三島由紀夫のおかげもある)読むことで新たによぎった可能性もありました。
人は、己にその機能が欠けているからこそ、それに執着し追い求める。
自分のこの置き去りにされている感覚も結局、作中で言われている「読書は紙派」「健常者」であるがゆえの鈍感さであり傲りである可能性もある、ということです。いや、セックスしたくない(試した結果がそうだった)し、しないし、自分が妊娠できる身体なのか、検証する日は来ない見込みだけれども。
私が身体的に不能だと明らかになっていたら、それを十字架として生きていくのかもしれません。

と同時に、この「置いてきぼり感」も、まごうことなく私の「不能感」由来であるのです。私自身が肯定/否定する以前に、そのような有様で存在している社会というものは、こんなにも「性」を、「自分の身体が性的文脈で他者を受容すること」を前提としている。そのことに対する劣等感のような、疎外感のような感覚。
三島由紀夫は『仮面の告白』の没序文で、己の性的指向ゆえの疎外感を「人生の落第」と言い表していました。「普通」にしていればそう難しいはずのことではなく、その水準を満たすことができない方がおかしい。だから締め出される。できるようになるまで落第し続ける。だって、できるようになるはずなんだから。当たり前のことなんだから。


そんな経緯で、私は著者の狙った通りに、己の無自覚マチズモの可能性を、そして無自覚コンプレックスの気配をも突きつけられたわけです。
まあまだサンプル数2なのでね。母数が増えたらまた違う景色が見えるのかもしれないけど。私の読書経験、偏ってるから。大概ジャパニーズクラシックで、しかも男性作家の。
とりあえず今朝から『僕の狂ったフェミ彼女』(ミン・ジヒョン著、加藤慧訳、イースト・プレス刊)を読み始めました。だいぶ前から積読になっていたもの。ジャパニーズクラシックby menから離れてみよう。でもこの後は大江健三郎を読むかもしれない。おい。

悪い癖で大枠の話ばかりしてしまった。
細かい話をしてみようかな。

姿勢の悪い健常児の背骨はぴくりとも曲がりはしなかった。あの子たちは正しい設計図を内蔵していたからだ。

市川沙央『ハンチバック』(文藝春秋刊)27頁

骨格筋が衰えていき発育の遅れや側弯をきたす先天性ミオパチー。骨格筋を「設計図」という比喩は、あまりに説得力があって、それだけ切実だ。「正しい」設計図と形容して、さらには「内蔵」と機械のように、無機物のように表現される。設計図から間違った無機物の末路は廃棄だ。自分の身体に対する否定の強さがいっそう際立つ。

私の心も、肌も、粘膜も、他者との摩擦を経験していない。

同 38頁

なんだか上の引用と対比が感じられないこともない。ここで描かれる身体は有機的だ。別の有機と触れあれば触れ方に応じて良かれ悪しかれ変化してみせるはずの身体は、しかしその機会を持たない。何にしても擦り減ってないというのは良いことのように言われることが多いだろうけど、摩擦を知らないことのナイーブさはネガティブなものとして描かれている。
無機・有機、両サイドから不能感のサンドイッチ。つらい。

抽斗には1億5500万円の小切手が、そのまま入っていた。
そう。その憐みこそが正しい距離感。
私はモナ・リザにはなれない。
私はせむし(ハンチバック)の怪物だから。

同 81頁

モナ・リザスプレー事件のくだりで、モナ・リザは、抑圧される苦悩を不当にぶつけられる対象として現れた(と思う。)。苦悩者が、刹那的にでも救われたくて八つ当たりの形で縋る対象だ。いわば祈りのための犠牲。
田中は罪悪感なのか自己嫌悪なのか、はたまたプライドなのかあるいはそれらは畢竟同じか、とにかく小切手を受け取らずに去っていった。
モナ・リザは、憐みなんて超越した優越的存在であるからこそ醜い感情の矛先となる。弱者男性を自称する男を煽ってけしかけても、男の自尊心との葛藤で憐れみに軍配が上がる自分は、モナ・リザではないのだ。

あとは、そうね。

『私のことは憎んでくれていいから』
TL、というよりBLみたいな台詞だ。

同 76頁

たしかに。

ミニオンって、手があったっけ?長い?短い?どんな手?

同 86頁

あれ、たしかにそう言われると、どんな手?


は〜〜〜〜〜〜〜〜〜

課題図書なわけですが、一読して本当の本当に精一杯捻り出した感想の、これがすべてなので、正直しょげています。自分って感性乏しいかも、という可能性に至るのはつらい。はやく人の感想を聞いて、その摩擦から生まれるケミストリーに期待したい。切に。切に。

一夜明けて、今朝は昨日の受賞インタビューが変なふうに切り取られてネットニュースになってましたね。さっき見たら、元ツイート削除されてましたが。そういうとこだぞ。

ちなみにラスト数頁に関しては、私は、そっちがパラレルワールドなのだと受け取ることにしました。あ、VRの話題が出てきたのもそういうことだったのか。自分ではない自分性。


ちょうどさっき散歩してたら見つけたヘアサロンの写真で終わろう。「おっ」となってつい撮ってしまったSHAKA.

しかし釈華ってすごい名前だよね。「涅槃」については掘り下げて考えるべきな気はしている。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集