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二日酔という堪えがたい裏切り

まずは自作の都々逸から

あくる日も 気持ち好いまま 酔ってるような
二日酔には なぜなれぬ 


二日酔と悪酔い

二日酔はつらいものである。どうしようもなく気持ち悪く、耐え難い苦しみにもだえながら、時にはトイレに籠もり、時には嘔吐しながら、辛抱強く症状の改善を待つしかない。

我々はどうして「気持ち好いまま酔っている」二日酔にはなれず、地獄の苦しみを味わなければならないのだろうか。

酒を飲んだ後で睡眠を取らなければ二日酔にはならない。
もちろん睡眠を取らなくても、飲み過ぎて悪酔いして、その場で気持ち悪くなり、嘔吐や苦しみに苛まれることはある。だが、それは二日酔ではない。その場、その時の悪酔いである。飲んでいる時から時間を置かずに襲ってくる悪酔いは、二日酔とは別ものと考えたい。

そうした悪酔いも、気持ち悪さでは二日酔とあまり異なることはない。七転八倒するほどの気持ち悪さや、嘔吐などと格闘することになる。
だが、悪酔いとの死力を尽くした戦闘の末に、やがて敵の攻撃は鈍化していく。だんだんと悪酔いは収まっていくのだ。そして、ようやく我々が眠りにつけば、目覚めた頃には、ほぼ復調しているものである。

ここで私が問題にしたいのは、そういった悪酔いのことではない。問題にしたいのは、眠る前には気持ち悪い感じがまるでなく、いい気分で睡眠に入ったのに、朝になって目覚めたら気持ち悪くなっていた場合だ。それを二日酔と呼ぶのではないだろうか。

いや、もしかしたら私が勝手にそう定義づけているだけで、一般的には違うのかもしれない。だが、ここでは、上記のような場合のことを「二日酔」と呼ばせていただく。「寝る前は何ともない、むしろ気持ち好いのに、目が覚めたら、寝る前に飲んだ酒のせいで気持ち悪くなっている状態」である。


二日酔と宿酔

「二日酔」という言葉を、字義だけから解釈すれば「二日間の酔い」ということになるだろう。二日間に渡って酔いが続いていることだ。

だが、二日酔という言葉は、二日間に渡って酔っているだけではなくて「気持ちが悪い」という状態が伴っている場合に使われるのが一般的ではないだろうか。気持ち悪さが伴わなければ、二日酔とは言わないと思う。

また、前日から飲み始めて、零時を過ぎても飲み続け、酔いが二日間連続しても、それだけでは二日酔とは言わない。二日間連続して酔っているだけではなく、睡眠が間に入らければならない。睡眠を経た後に襲われる悪酔いのことを一般的に二日酔と呼ぶと思う。

「ふつかよい」という言葉を表記する漢字には「二日酔・二日酔い」の他に、「宿酔・宿酔い」もある。
「ふつかよい」の定義を「酒を飲んだ後で睡眠状態に入り、その後、目覚めた時の酔い」とするなら「宿酔」という表記の方が相応しいようにも思う。

宿酔にも「悪酔い」を意味する漢字は含まれていないが、やはり「ふつかよい」は、「気持ちが悪い」という状態が伴っている場合に使われる言葉だと思う。


二日酔の原因

どうして我々は、寝る前は何ともないのに、目覚めたら気持ち悪い酔いに襲われなければならないのか。

気持ちよく眠りにつかせてくれた「酔い」が、どうして寝ている間に反旗を翻して「悪酔い」として襲ってくるのだろうか。
こちらとしては、まったく無防備な状態で、文字通り寝込みを襲われるようなものである。闇討ちであり、不意討ちである。二日酔は卑怯だ。すっかり裏切られた気分だ。

「ぐっすり気持ちよくお眠りなさい」と「酔い」が言うから、完全に信用して寝たのに、まさか目が覚めたら気持ち悪くなっているとは思わなかった。何たる背信行為であろうか。二日酔に対して、私は憤りを禁じえない。


ではなぜ、人は悪酔いしてしまうのだろうか。
その理由は、よく次のように説明されている。

「人が摂取したアルコールは肝臓で分解されてアセトアルデヒドという物質になる。さらにアセトアルデヒドは酵素の働きで分解され、酢酸と水になる。これで無害化される。
ところが、アルコールを飲み過ぎると、この分解処理が追いつかず、アセトアルデヒドの状態で止まっている時間が長くなる。アセトアルデヒドには、吐き気や頭痛、胃もたれ、胸焼けなどを引き起こす働きがあり、そのため悪酔いを引き起こす」

この説明をそのまま二日酔にも当てはめれば、二日酔する理由も簡単にわかる。

睡眠につく前は、アルコールがアセトアルデヒドにならず、多くがアルコールのままだったので、気持ち悪くなかった。あるいは、アルコールが分解されてアセトアルデヒドになっていたとしても、そこからさらに酢酸と水へと順調に分解が進められていた。
ところが睡眠の最中に、この分解過程に支障が生じてしまうことがある。多くのアルコールがアセトアルデヒドになったままで、なかなか酢酸と水に分解されなくなってしまうのである。こうなることで二日酔が引き起こされる。

私たちの体が備えている分解能力を超えてしまったからであろう。摂取したアルコールの量が多すぎたのかもしれないし、体調不良などが原因で分解能力が下がっているのかもしれない。あるいは、その両方が重なっているのかもしれない。


二日酔は悪酔い

では、もう一度冒頭の都々逸に戻る。

あくる日も 気持ち好いまま 酔ってるような
二日酔には なぜなれぬ 


この都々逸の言うような、気持ち好いまま酔っている二日酔に、どうして我々はなれないのか。その理由を、これまでの考察から導き出してみよう。

初めの方で述べたように、二日酔というのが「酒を飲んだ後で睡眠状態に入り、目覚めた時の酔い」であるとしたら、その段階で気持ちよく酔っていることはありえないことになる。
なぜなら、寝ている間にアルコールの分解が進み、酢酸と水になっているか、あるいはアセトアルデヒドの状態で止まっているからである。

つまり、酢酸と水に分解されていれば酔いから覚めていることになる。
分解が進まず、多くがアセトアルデヒドの状態で止まっていれば、悪酔いしていることになる。
このどちらかになるため、気持ちよく酔っている状態はありえないのである。気持ちの好い二日酔は不可能なのだ。

もし起床後も気持ちよく酔っていたとしたら、それは二日酔ではなく、寝る前の酔いがそのまま持続しているだけである。アルコールの分解が進まず、多くがまだアルコールのままで体内にあるということだろう。ただし、これは、よほど短い睡眠以外はありえないのではないだろうか。時間が経てばアルコールはアセトアルデヒドに変わるからだ。

以上が、「どうして気持ち好いまま酔っている二日酔にはなれないのか」という疑問についての考察と結論である。

ここから先は、この考察と結論への付け足しということになる。
我々は、卑怯な不意打ちを仕掛けてくる裏切り者の二日酔を相手に、どのように対抗すべきか策を練ってみた。


二日酔の覚悟

これまで述べてきたように、二日酔には悪酔いしかありえず、気持ちよく酔っている二日酔はない。しかし、悪酔いしているにもかかわらず、まるで気持ちよく酔っているような状態を無理矢理に作り出そうという戦略に基づいて、ある作戦が決行されることがある。

ちょっと粋な感じもさせてしまう危険な作戦。「迎え酒」である。だが、これは実のところ姑息で、誠に浅はかな所行である。

そもそも、激しい二日酔の場合は、迎え酒は不可能であろう。経験上から言って、酒の匂いをかぐのも、見るのも嫌になっている。迎え酒などとても飲めたものではない。仮に無理に飲んだとしても、すぐに嘔吐してしまうと思う。水を飲んでも吐いてしまうくらいなのだから。

軽い二日酔であれば、迎え酒で、その場しのぎくらいの効果は得られるかもしれない。迎え酒で酔って、気持ち悪さを感じる能力を麻痺させられるかもしれないからだ。
だが、アルコールを分解する能力が弱まっている体に、さらに迎え酒を入れたら、消化器官など自分の体を痛めるのは間違いないだろう。そんなことを繰り返していれば体を壊すに決まっている。

もっとも、迎え酒をやらなくても、それ以前に連日の深酒で、もうとっくに体は壊れているかもしれないけどね。


などと、つまらぬことを考えながら酒を飲んでいたら、なぜか杯が進んでしまった。今は何となく楽しく、好い気持ちだが、これから寝て朝起きたら二日酔になっているような予感もしないではない。

朝になって起床してから二日酔だと分かり、信じていた「酔い」に裏切られたことに気づくのは本当に癪に障る。それが嫌なら、もう二日酔の覚悟を決めて寝るしかあるまい。
「ああ、どうせお前が裏切るのは分かっているさ」

二日酔する 覚悟を決めて
眠むる前から 迎え酒

今後ともご贔屓のほどよろしく御願い申し上げます