小説 「通奏低音」(5)
「ご存知の通り管楽器は余っていて、弦楽器は少ないんです。高杉先生はトーキョーゲーダイ出ておられてドイツ帰りでいらっしゃいますし、あと・・・」。
ここまで言うと、音大じゃんけんで「負ける」と悟ったのか、金原女史は言葉を遮るように顔の前で手を振って「はいはい、わかりました。いろいろ勉強させていただきまーす」と、やる気なさげに席を立ち上がった。
ある日自宅でビールを飲んでいると、嫁さんがにじり寄ってきた。
「ねえねえ、あんたのオケで歌の曲はやらへんの?」
やれ、というならやるけど。というかそもそも歌の曲は知らんし。
「生駒に私のいとこの貴子ちゃん、覚えてる? 彼女の同級生で音大を出て生駒で地味いに合唱団主催している人がいるんやて。それでね・・・」。
聞くとヘンデルの「ユーリオ・チェーザレ」というオペラがあって、その中で鍵盤楽器とオーボエと歌のとてもきれいな3重奏があるらしく、「小さい頃からの夢やってんて。私もエエカッコしいやから、大丈夫!と言ってしもて」。
なんやそれ、無責任な。
「ただ実現させてあげたら、感激して合唱団連れて来てくれるかもしれへんよ」。
頭の中で「チーン」というレジの音が鳴る。合唱団は人数がいるので会費収支が多く見込める、という話は聞いたことがあった。思わず笑みがこぼれるのを押し隠して言った。「ええやん、やったろか」。
妻に紹介された奈良在住の歌の先生、吉野貴子さんは、少し恰幅のいい、いつもニコニコしている陽気な人だった。「夢がこんなに早く実現するなんて、貴子さんのおかげやわ。ほんまに感謝しています〜」。全身から陽気さを放出している人で、合唱団を率いて一人もメンバーが減っていないというのもよくわかる。
高杉はバッハとほぼ同時代のヘンデルの作品とあって乗り気だ。金原女史も3人全員プロということでプライドが満たされたらしく、「ま、結構ですわよ」と鼻をツンと動かしながら、二つ返事で引き受けた。
3人を見渡しながら俺は言った。
「では次の本番のプログラムとして採用します。コンサート会場は芦屋市の滴水美術館です。観客と親しみを感じてもらうように、観客数も二十に制限してアットホームなコンサートにします。3人だけの練習時間を設けま・・・」。
言い終わらないうちに高杉が「練習の前に、みなさんプロということで、曲の解釈など打ち合わせをさせていただければとおもいますが」。
歌の吉野さんは「ぜひぜひお願いしたいわ」と楽しくて仕方なさそう。金原女史は一瞬目を泳がせたが「ええ、ま、まあ」とおとなしく部屋に入っていった。相変わらず髪の毛を洗っていない高杉の後ろ姿を見届けて、外からカギをかけた。
我々アマチュア組はブランデン5番の自主練習。岡崎爺さんは高杉が置いていった例の真空管録音機をひっくり返しながら「いつの時代のもんやねん」と言いつつスイッチを入れた。
一段、一段できるまで信じられないほどゆっくりなテンポで合わせる。ゆっくりしてもできないメロディーは、テンポは早めてもできるだけがない。ここは心静かに自分の下手くそさと向き合う貴重な時間なのだ。
「ちょっと失礼」。どういう打ち合わせになるか、のぞき見たい気持ちを抑えられず、打ち合わせ部屋の壁に耳を当てる。「だーかーらー、ヘンデルの、あのですね、バロックの演奏方法ってどうお考えになっているんですか」。高杉が興奮する声が聞こえる。「うっうっ」と金原女史がしゃくりあげるような声が聞こえる。「ベートーヴェンやブラームスですか。世の中にはお好きな方がいらっしゃるようですが、オーボエならバロック音楽を勉強するのが常識ではないですか」と、ベートーヴェンとブラームスが「えっ?呼んだ?」と墓から這い出てきそうなぐらい、めちゃくちゃなことを言っている。
そろそろかな、と1時間経ってから打ち合わせ部屋のカギを開けた。そこで目に飛び込んできたのは衝撃的な光景だった……