見出し画像

小説 「通奏低音」(6)

 そろそろかな、と1時間経ってから打ち合わせ部屋のカギを開けた。こもっていたせいか、なんか変な匂い、空気もどことなく黄ばんでいる感じがする。

 さっそく窓を開けると、黄色い空気の向こうで、金原女史はプライドがグチャクチャになったらしく、泣きそうな表情でぐったり、吉野先生は曲が実現するのが嬉しいらしくニコニコしている。高杉は言いたいことは全部言い切ったようで、腕を組んで踏ん反り返っていた。靴の先は一段と大きく開いていて、靴下が半分見えていた。

 今日の柄は茶色のチェック地らしい。

 滴水美術館での本番は成功だった。

 アマチュアのオーケストラで、よくやることだが演奏前プログラムとして、ロビーなどで簡単な曲をやったりする。下手ながらも地域の人に、演奏者に親しみを持ってもらうためだ。

 高杉から「場を温める意味で何か弾きましょうか。きらきら星変奏曲あたりでいいですかね、はあ」と申し出があったのと、さすがに今日は頭を洗ってきたのを確認して何も考えずにお願いした。

 が演奏が始まってすぐに後悔した。この曲はきらきら星の平和なイメーージがあるが、後半になるにつれて、「これってブラックホールの襲撃ですかあ?」と聞きたくなるぐらい音の大群が次々に押し寄せるのだ。

 最後に低音の「ド!」をピアノのハンマーが壊れるぐらい叩きつけて演奏が終わった。観客はあっけにとられてしばらく周りを見渡した後、怒涛のような拍手が湧いた。

 「始まってへんのに、こんなに盛り上げてどうすんねん」と岡崎じいさんが頭を抱えている。

 吉野先生はあまりのめちゃくちゃぶりに腹を抱えて笑っている。「申し訳ないけど、あはははは、アマチュアさんのコンサートって、下手くそなので、誰も期待しないのよ。私も呼ばれて迷惑なぐらい。でもこんな予想外なプログラム、初めてよ。はっははは、あーおかしい」と笑いが止まらないようだ。金原女史は相変わらず横を向いている。

 盛り上げるだけ盛り上げて降りてきた高杉は浮かない顔でしきりに「はあ、んー・・・はあ」と何度もため息をついている。

 あの、どうかしましたか。すごく盛り上がったじゃないですか。高杉は舞台袖に俺を引き込むと口を開いた。

 「昨日、練習が終わってから、母親の病室にレコーダーを持ち込んで、練習の録音を二人でね、静かに聞いたんです。母親は本番には来るのはとてもとても無理なものですから。母はねえ、日本に帰ってからも演奏を続けていることを心から喜んで、ほめてくれたんですね。ただ帰りにお医者様からはそろそろ覚悟したほうがいい、と昨日言い渡されまして演奏中も気が気でなくて、すみません、はあ」。

 俺も父を亡くしているので、彼の気持ちは痛いほどわかった。

 「我々の演奏会はいいですから、お母様の元に行ってあげてください。演奏会なんていつでもできますから」。

 するとカーテンの奥で聞いていたのか、歌の吉野先生も「ブランデン五番でしょ? 私、ピアノでもプロを目指したことがあるんです。DとAの和音をじゃんじゃん弾いていればいいんでしょ? 簡単簡単、やるわよ」と、これもこれで高杉の神経を逆なでしそうなことをいう。

 高杉はもう覚悟は決めているようで「いただいたお仕事ですから、私がやります。私の最後の演奏を録音して、何よりもう一度、母に聞いてもらいたいのです」と譲らない。

 ブランデンブルク第五番は成功だった。最後の高杉の「ギュインギュインギュイーン」という例の過剰な通奏低音に、観客も手をたたいて大喜びだった。

 幸い高杉の最後の録音はお母様に聞かせることができたらしい。

 それを知ったのは本番が終わった1ヶ月後に来たメール。お母様を笑顔のまま送り出すことができた、母もオーケストラの皆さんに感謝をしていた、という丁重なお礼が書かれてあった。

 ほとぼりが冷めた頃を見計らって、彼と最初に会った梅田の喫茶店で待ち合わせた。

 「高杉さんはこれからどうするのですか。吉野先生もこのような形で一緒に演奏を続けていきたいと喜んでおられますが」。金原女史が本番終了後、逃げるようにコンサート会場を後にして、後日消息不明になったことは伏せた。

 それより、これからどうやって生きていくんですか。ご自宅があるとはいえ、合唱団の指導だけでは食べていけないでしょう。我々だって十分な謝礼はおわたしできないですよ。普通のお仕事はしないんですか。通奏低音で思いきり魂を解放するような演奏をされてたじゃないですか。あれができるんだったら何があってもこわくないでしょう」。

 たたみかける俺を前に、高杉は、わかってくれないのか、と悲しそうな表情で

「あのね、トーキョーゲーダイを出た以上は、いまさらほかの仕事はできないのですよ」。

 そうか、高杉も金原女史と同じで、音楽にしがみついていないと生きていられないのか。

 「考えてください。通奏低音だって、好き勝手やっているように見えますが、左手でベースの音を絶対外さないから、形になっているのです。そこを崩したら人生もめちゃくちゃになります。あなたにはね、はあ、わかっていただけるか、わからないですが」。

 高杉は改めて俺の方に向き合うと、決心したように口を開いた。

 「あのですね、いったいあなたは本当にバッハが好きなのですか。そもそも何のために音楽をやっているのですか? あちこちにいい顔をするのは結構ですが、本当に楽しんでいるのですか」と言い終わると、高杉は視線を落とした。

 「割り勘で」と主張する高杉を押しのけるように、勘定を支払って街に出た。

 誰かに話を聞いて欲しくて、尾崎に電話を入れたが、仕事中らしく留守電のままだった。た。それから梅田の街をどう歩いて行ったか覚えていない。


いいなと思ったら応援しよう!