なぜ王向斎は「站椿だけやればよい」と言ったのか
この1週間、実にいろいろなことがあり、私の認識も大きく変化している。
変化が多すぎて、なかなか文章にもできない。
しかし、こういう節目で書いてnoteにまとめた文章は、後日必ず自分の役に立つ。
流水を掴むが如くだが、やってみる。
なぜ王向斎が「站椿だけやればよい」と言ったか、理解できた。
站椿ができなければ、他に何をやっても意味がないからだ。
どれだけ多くの型や技を学ぼうと、いざそれを使う段になって「自分から遊離」してしまったら、全く意味をなさない。
あるいは、いかなる型も技も、站椿が示す「内外を捉え、そこに居続けること」ができなければ、仏作って魂入れずとなる。
站椿を用いずとも「内外を捉え、そこに居続けること」はできるかもしれない。
より古い時代の武術家にとっては、これは常識だったかもしれない。
しかし武術の型も、形は受け継がれるも中身が伝わらなくなり、見た目が正しくとも中身がない、ということが増えていく。
王向斎の時代には既に「形意拳の形骸化」が懸念されていた。
だから、王向斎は「站椿だけやればよい」と言った。
王向斎の元で学んだ弟子は皆、形意拳などの修行を積んできた武術家だった。
だから、站椿で「中身」を入れればそれでよい、と考えたのだろう。
王向斎は站椿を示し「これでわかるだろう」と考えた。
しかし王向斎の弟子の中でも、ものにできたのは一握りの者だけだった。
さらに「現代人」という、王向斎が想像もしてなかった人々が現れた。
今度は「中身」どころか「形」もなくなっている。
自分の身体がどこにあるかもわからなくなっている。
現代人が、ただ形を真似して站椿だけひたすらやっても、王向斎に近づくことはまず無理だろう。
「なぜ站椿が必要なのか」を理解するのに、私は23年ほどかかっている。
まあ、私はちょっと遠回りしすぎたかもしれないが😅
しかし、遠回りした分の経験はしている。
「経験」こそが本質だ。
身体は、経験によってできあがっている。
私たちは、どういう経験を迎え入れるべきか。
これは、一人一人が自分でデザインするしかない。
自分の経験を他人頼みにすることは、不可能なのである。
站椿がもたらす「経験」。
これこそが、站椿が必要な理由である。
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