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孔子の宣う「天命」とは何か
一昨日、53歳になった。
孔子は「五十にして天命を知る」と宣ったが、この「天命」という言葉は誤解されてるな、と感じるようになった。
「天命」を「ミッション」と考えるなら、私の天命は未だにさっぱりわからん😅
そんなものあるのか?という気すらする。
そうではなく、天命とはおそらく、単に「命」という意味だろう。
「ああ、自分はいずれ死ぬのだな」
という感覚。
単なる知識ではなく、自分の中からその感覚が生まれてくるのが五十、ということだろう。
まさにそうした感覚を味わうようになった。
身体的にはまだまだ全然いける。
ブラジリアン柔術の道場でも驚かれる。
ただ、この身体性は、自分の肉体に「武術の身体」をまとっている故である。
(「まとっている」という言葉は本当は正確ではない。本当は表層的肉体の「内側と外側に」武術の身体があるのだが、イメージとしてわかりにくいので便宜的に「まとっている」と述べている)
私も現代人なもので、現代的環境に身体が戻ってしまうことがある。
そうすると、昔悩まされてきた腰痛が再発したりする。
誕生日だった昨日は、全身蕁麻疹が発生し、なかなかしんどかった😅
武術の達人も、普段の歩き方はもう杖をついてヨボヨボなのに、型を表演してみせるとなると別人のような神速で動く、ということがある。
これも「武術の身体をまとっている」ということだ。
武術の身体は、肉体を超えたところにある。
だから年齢に関係なく使える。
これが武術を学ぶ所以である。