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ご先祖を探す旅 祖父と憲法公聴会

今回は番外編。

場所がわからなくなったお墓を探しにいくんだ~という話を事前にH子ちゃんに相談していました。祖父の名前を伝えたところ、お知りあいの学芸員さんが、古い記録を発見してくださいました。さすが、地元ネットワーク!頼りになる!!

1960年に愛媛県で開催された憲法調査会第31回公聴会にて、祖父は公述人としてお話しをする場があったようです。新憲法が施行されてから13年目。祖父は県立高校の社会科教諭、44歳の夏でした。

公聴会の記録によると、新憲法が施行されて10年がたったころ、新しい憲法を国民はどのように受け止めているのか調査をしたようです。有識者について調査した後、一般市民の声を拾うために開催されたのが憲法調査会公聴会。日本各地で順に開催され、地域の有力者から一般人までさまざまな人にお声がかかったそうです。

朝ドラ『虎に翼』の世界!!
うちの祖父、いいこと言ってるので読んでやってください(めっちゃ長いです)。
※べたっと貼ると読みにくいので見出し・改行を追加しました。

〇高柳会長 ありがとうございました。つぎは愛媛県長岡高等学校教員、川口万寿夫さんにお願いします。
〇川口公述人 政治家や政府が従来述べております憲法改正論は、日本の前途を誤るもので、はなはだ危険なものであると思います。憲法前文にもあります通り、憲法は人類普遍の原理に基くものでありまして、特にその三大精神ともいうべき国民民主主義、基本的人権の尊重、永久平和主義はこれは絶対に変えてははらないものであります。
<憲法改正論について>
 しかしわれわれがよく耳にする改正論の中には、全くこの戦争の惨苦を忘れて、あるいはまた過去の軍国主義に還ろうというような響きすらあるような動きがあることははなはだ遺憾でありまして、私はそういうような改正論に対しては全面的に反対するものであります。
 また改正論の一つの理由としましては、アメリカの押し付けであるから守れない、そういうような思想もあるようでありますが、確かにこの手続上においては、例えば突如憲法草案を示された、そういう点もありますけれども、私は憲法第九条の戦争放棄というものは、決してアメリカから命令されたものではないこと、起草当時の首相であった幣原総理大臣の真意であるということを強調したいのであります。
 もちろんその真実はしりませんけれども、憲法学の本によりまして少し研究してみましたところ、もちろん委員の方は御存知であろうと思いますけれども、それはマッカーサー司令官の必ずしも真意ではなかった。しかしながら幣原首相がほんとうに日本が、今後の日本の平和、あるいは世界平和を守るためには、日本人としてはかくあるべきであるということを、むしろ軍人であるマッカーサーの反対を恐れてまで幣原総理大臣が当時発言したということは、幣原首相の外交の五十年史でありますか、あるいはまた一九五〇年にマッカーサーがアメリカ上院において発言した内容でも明らかでありますので、従ってこの押し付けられた憲法ということは、私は絶対にあてはまらない。そういうことは必ずしも国民全体に普及しておらない考え方ではなかろうかと、そういうことを痛切に感じますので、あわせて強調する次第であります。

「憲法調査会公聴会記録 第31回」1958-1961

<九条について>
 しかしもちろん単純に戦争がなくなるものとは思っておりません。ご存じのように米ソの対立がありますけれども、しかしわれわれが考えておるようなあるいは現在までやってきたような自衛手段によって国が守れるということは私は保障できないものだと思います。例えばよくいわれる日本が軍備なくして国を守れるかという、こういうような証明も立ちませんが、現在のような新安保条約の下においては絶対に日本の安全を保障できるということは何人も証明できないと思うのであります。 それで私は幣原さんが外交官としての長い生活を送り、そうしてまた戦後のこういうような重大な時期におきまして、首相の重職にあった人が考えたという点においては、単なるわれわれしろうとなどが考えたこととは違った、非常に重みのある深い意味があると思いまして、私は現在においても幣原首相の精神を絶対に生かすべきものであるということを強調したいと思います。
 いまのところをちょっとふえんいたしますと、たしかに午前中などたとえなんかも出ましたが、例えば家を守るには、戸締りをすれば確かに盗難を防げるという点はありましょうが、しかしわれわれが例えば火器をもっていたために、例えば包丁をもっていたために相手から傷付けられたということになる場合もありまして、これは水掛論になるかも知れませんが、ほんとうに世界の平和を守るためには日本が武装していくということは決してほんとうに日本のためにもならなければ、世界平和のためでもないと思います。
 また従来そういうような憲法がないということも否定の根拠にはならぬと思います。そういう意味で世界の平和を指導するという精神で、いわゆる素手でもって世界平和を指導するという精神で行きまするならば、世界全体がもう少し前進するものだと思いますが、残念ながら国内の状態をみまするときに、世界が米ソにわかれておると同様に、国内が米ソの陣営に加担して、加担といえば少し抽象的ですが、ソ連側というわけじゃありませんけれども、中立派と政府派にわかれて争っておりますけれども、こういうように互いに相手を的として考えるような国内制作から、決して正しい平和は守れない。そういう点におきまして私は、いまの九条を生かすことによって十分日本の平和あるいは世界の平和を獲得する道があると信じております。

「憲法調査会公聴会記録 第31回」1958-1961

<正しく憲法の改正に努力すべき>
 私のある意味では主観がありましょうが、もしもそうではないというのであるならば、明らかに憲法改正を行うべきであって、憲法改正を行わないで武装を進めるというような行き方は憲法違反であり、いわゆる民主主義の危機である。そういうことは既成事実だからといって、絶対に認めてはならないものだと思います。 憲法学者の中にも自衛権の否定論、賛成論あるいはまた自衛隊の否定論、反対論いろいろあるようでありますけれども、単に既成事実だから認める、国土の防衛計画におきましても、既成事実だからやむを得んというようなことは絶対に避けるべきであって、私はもしも現在の九条を守る限りは絶対武装してはならない。もしも国民全体、少くとも大多数が望んで、そういうことがほんとうに防衛政策と考えるならば現在の憲法は当然改訂を行うべきだと主張したいと思っております。
 それから改正をするのでありますならば、先きの方も述べられたようでございますが、二大陣営が対立しておるようないまのような姿ではやるべきではなくて国民がよく納得した、ほんとうに国を愛する立場から十分に考えてやるような気運がなければ-これは実際に不可能かと思いますけれども-やるべきではないと思っております。その点は政府もまたあるいは反対党もほんとうに国家の将来を考えて、正しい憲法の改正ということに努力すべきものではないかと思っております。
 例えば字句の翻訳調の点など述べられておりますが、私のどっかで読んだところによりますと、憲法の英訳の方が先きにできてその間日本人はかん詰めにされておったというような事実もあるかとも承っております。そういうような下に育った憲法を尊重するというような気持ちにはなかなかなれぬのもやむを得ないと思いますので、いまのような精神を守る限りにおいては、それでまた国民がほんとうに憲法の意義を理解した正しい手続きの下においては、ほんとうに国民に身に付く憲法の改正を行うべきだとこういうふうに思っております。それで午前中にも出ましたことにつきまして時間がありませんから少し断片的に述べさせていただきます。

「憲法調査会公聴会記録 第31回」1958-1961

<国民審査について>
 九条のことについて私はそういうふうに強く感じておるんですが、国民審査の件につきましては、裁判官の国民審査への反対論もあったようでありますけれども、私は国民主権である限り国民審査は残すべきであると考えます。わかりやすく極端な例を上げますれば、最高裁の裁判官を信ずるがゆえにこそ無意味なものが投票に残っておるんで、世界的権威をもつ裁判官と信じておりますが、そうでないならば国民投票において必ず過半数は反対するわけでありまして、それすら必要がないということは、よい司法が行われておるという証拠でありますので、確かに投票の仕方なんかは問題でありますが、審査制度は当然残すべきだと思います。あるいはまた現在行われておりますような首相の罷免権、あるいは新安保条約などの重要な条約の制定、そういうことにつきましてはすべてではありませんが、ときと場合によりましては-国会に重大な事情がある場合には-首班指名あるいは条約改訂などについても国民全体の意向が反映するような規定を憲法の中に加えられたいと私は考えております。

「憲法調査会公聴会記録 第31回」1958-1961

 それから勤務評定の話題も出たように思いまするが、法的にいいますと確かに合法的な面もありますが、合法であるから正当であるとはいえないわけでありまして、運用を誤まればこれは不当なものとなる。例えば必要以上に給与と結びつけたりしておる現状などは、これは正しい姿ではなかろう、もちろんその例は少ないかも知れませんが、そういう行き方を取るということはやはり職権の濫用であると私は考えております。

「憲法調査会公聴会記録 第31回」1958-1961

<国民の権利と義務>
 それから午前中の方で、国民の権利ということは沢山書いてあるが、義務のことは書いてないという御意見もありましたが、権利の裏には必ず義務があるのでありまして、残念ながらそれは国民あるいは青少年に徹底しておらないうらみはあるけれども、その権利とともに義務があることをよく周知されれば片付くことでありますし、それからまた私は単なる社会の具体的な現象だけにとらわれずに広くみましたならば、私は国民の権利を濫用するよりも、やはり権力者が国家および地方においても権利を濫用するという面がむしろ強いのではないか。そういう面においていわゆる国民主権主義に基いて、ほんとうに国民のための政治家であるというような運用は必ずしも行われておらぬのではないか。あるいはまた国民が余り理解しないことを利用して、例えば政権のたらい回し、あるいは地方議会においては議長の四ヵ年の任期なんかの法律を全く無視するというような動きが全国的に行われております。権力者、当局者がいまの憲法の条章をもっと守ることなくしては国民に権利義務は徹底しないと考えております。

「憲法調査会公聴会記録 第31回」1958-1961

<公務員は憲法に忠実であるべき>
 それから九十九条ですが、天皇はじめ公務員は絶対に守らなければいかぬということになっておりますが、それと当局者が、要路に立っておる人が、いまの憲法の精神と全く反するような改正を述べておるということについては、私は疑義をもちまして、いゆる悪法も法でありまして、いわゆる高度の政治性といわれておりますが、総理大臣が述べることはあるいは適当かも知れませんが、末端あるいは地方の行政官、あるいは教育行政関者、そういう人たちが新憲法に違反するような言動をもっておるということは現憲法下においては許されない。野人になって改正論を唱えるべきものであるとそういうふうに私は考えております。従って守れない憲法でなしに、守れる憲法にすること、それから仮りに不備が起って来ましても、少くとも、公務員はこれを遵守して、適当な手段による改正手続きがとられない限り、現在の憲法に絶対に忠実であるということに私は努力したいと思っております。

「憲法調査会公聴会記録 第31回」1958-1961

<男女同権>
 それから現憲法は女子の立場を非常に尊重しております。いわゆる男女同権でありますが、その点も将来仮りにいわゆる国民の身に付くような改正が行われるといたしましても、当然それは女子の尊重は継続すべきものでありますし、また従来の民法学者の多くはあの戦争中においてすら家父長制なんかをだんだん減少するように努力して来たわけでありますので、すべて反動的にまた元に返えるということは、先きに述べました普遍の原理に反する、返って日本を誤らす大きなものとなりますので、女子の立場を高め家父長的なものが復活しないように今後も改正するとしましても、こういう点を十分留意していただきたいと思います。

「憲法調査会公聴会記録 第31回」1958-1961

<公聴会の参加者>
 それから革新派の不参加については、会長さんもそれに関するお話しを述べられましたが、私も公述人の一人としてはなはだ遺憾に思うものであります。もちろん議論をすればこれは国会の承認を受けなければいかぬとか、あるいは公述しても駄目だというような議論はありましょうが、折角こういう機会があるわけですから、午前中にもいろいろ述べられましたように、あらゆる角度からそれぞれ自分の信ずるところを述べることによって国家あるいは地方も進展するんじゃないか、その意味において私は組合代表者の不参加を残念に思うものであります。あるいは調査会なども、今後は社会党代表者なんかも極力加えて、ほんとうに国民が一体として改正するというような調査になお一層努力されたいものだと思っております。

「憲法調査会公聴会記録 第31回」1958-1961

<天皇制のありかた>
 それから天皇制についてはただいままで余り議論がなかったようでありますので、この際一言させていただきます。国民の中には天皇制の廃止ということはほとんどないと思いますが、仮にあるとしますればもちろんこれは絶対に不当である。そして現在の天皇制が一番正しいんだという考えです。そして憲法改正論者の中には天皇に実権を持たすという方向に変える人もあるようですが、それは天皇を尊重するようにみえますけれども、それは過去の歴史から見ても、結局自分たちのために逆用するに過ぎないのですから、象徴としての現在の天皇制が正しいものだと思いますし、これは法的な問題ではないわけですが、現実の問題としましては、天皇あるいは皇太子殿下などは、むしろいわゆるもっと民衆に会い、公的生活を離れ、私人としては全く自由な立場で生活される。ときには町などにも出掛ける。そういうようなふうに私は天皇制は変って行くべきだと思います。少くとも現在の天皇制については、これに実権を加えてかえって国家の危険を招くような政治には絶対にしてもらいたくないというふうに考えております。

「憲法調査会公聴会記録 第31回」1958-1961

<新憲法の基本精神>
 いろいろ述べましたが要点を述べさせていただきますと、憲法第九条の精神をわれわれが世界に先きがけて、ほんとうに理想に燃えてやるべきであり、あるいはまた幣原さんのような多年の経験者の生み出したものでありますので、これは絶対に続けて行くべきであるということ、それから国民が納得しほんとうに国民が考えた憲法に直すことにするならばこの改正には賛成でありますけれども、新憲法の基本精神というものは絶対に離れてはならない。こういうことを主張したいと思っております。

「憲法調査会公聴会記録 第31回」1958-1961

<青少年と違憲問題>
 最後に私、教育者の立場から憲法に関することで一言しておきたいと思いますのは、これは宗教などのことは述べませんが、ただ感じますのは御存知のように青少年の犯罪が非常に激増しており大問題になっておりますが、特に地方に行けば行くほどそうで、こういうものは結局道徳が不徹底であるからだといわれております。
 結論からいえば封建道徳にあこがれた発言も多いし、極端にいいますれば文部省の指導要領の中にもそういう匂いは皆無とはいえない。こう思いますけれども、青少年を悪くしておるものは一体何であるかということにつきましては、一般に私は問題にされておらぬと思いますが、これは憲法が遵守されておらないからなのだということを私は申し上げいたと思います。
 私はもちろん生徒から直接聞いたことではないのですが、いわゆる暗黙の中に影響を非常に受けておる。一番国家の基本法であるものを平然と破っておいて、それで立派な国民になれということ、立派な青年になれということは無理なことではないか。例えば九条をすなおに読んだ場合に、従前の軍隊とほとんど同じようなものをもっておるものが、九条に反するものでないとは絶対に信じんと思うんです。
 そういうようにうやむやのうちに憲法が乱され、あらゆる問題で違憲問題が現れておりますけれども、ああいうことを放任しておいて片方で青少年に道徳が守られないと非難する。その点私は憲法をもっと遵守するようにしなければならないと主張したいと思います。それからまたその憲法に基づき法律ができましても、売春禁止法その他いわゆる三大ザル法とかいいまして、それを破ることが当り前だというような法律が平然と通過しております。
 こういう状態の下において、ほんとうに純真な青年たちを、あるいはこれから育って行く児童たちをわれわれに教えるだけの主張するだけの権利があるかどうか、そういう意味において少なくとも法治国におきましては、憲法を作る以上は憲法を絶対に守る。法律を作る以上は法律を守る。いわゆる純粋の法治国にしていただきたい。こういうふうに私は思っております。
 種々述べましたが、もちろん主観はあるかと思いますけれども、反対の方もありますが、保守的、革新的二流にわかれましょうが、本日の公述も要するに国家を愛し国民を愛するということにおいては共通の問題ですので、少くとも私はそういうふうに憲法をもって行くことが一番正しい、国民の幸福のためであり、世界の平和のためであるということを主張したいと思うのです。

「憲法調査会公聴会記録 第31回」1958-1961

長文を読んでいただき、ありがとうございました。

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