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「走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)」からランニングとの向き合い方を考える-1/4

作家の村上春樹さんはランナーで、ランニングについての本を書いています。ランナーなら誰しも感じたことがある感情を文章で表現されています。

■はじめに:この本と私

私は走り始めて3年ほど経った時に、偶然この本に出会いました。当時は初心者でしたが共感することが多かったです。その後フルマラソンで夢だったサブスリーを達成して、燃え尽きて、また走り始めたという私のランニング遍歴の中で、5-6回読み直しました。その度に新しい発見があり、モチベーションをくれ、時にはランナーの迷い・悩みにも寄り添う文章に助けられました。

今思えば、自分自身のランニング観に大きく影響を与えた内容でした。

先日久々に読んでみて、やはり良い本だと思ったので、私に響いた(線を引いた)箇所を引用させて頂き、自分の考えも添えて書きたいと思います。

走り始めたばかりの方、レースに興味のある方、レース熟練者の方、広くランナー全般に通じる感情や視点があると思います。それには、走ることの本質、良いところだけでなく、醜く苦しいところも、表現されていると思います。

4回に分けて書いており、こちらは1回目の記事です。

■痛みと苦しみの違い

Pain is inevitable. Suffering is optional. それが彼のマントラだった。正確なニュアンスは日本語に訳しにくいのだが、あえてごく簡単に訳せば、「痛みは避けがたいが、苦しみはオプショナル(こちら次第)」ということになる。たとえば走っていて「ああ、きつい、もう駄目だ」と思ったとして、「きつい」というのは避けようのない事実だが、「もう駄目」かどうかはあくまで本人の裁量に委ねられていることである。

→痛みは事実であり、苦しみは主観。トレーニングでもレースでも、脚が痛くても気持ちを強く持つと、体が動いてくれるということ。捉え方・解釈で苦しみは和らげることもできる。

その「苦しみ」を感じ始める物理的な閾値を上げるためには、もちろんトレーニングが大事なのですが、最終的な解釈(”苦しい”と自分が判断する事)にはメンタル面が大きく関わっている、ということだと思います。

レースの終盤は誰でもきついですが、実感としての苦しみをいかにコントロールできるか、は心の強さが柱になります。マラソンが気持ちのスポーツと言われる一つの理由だと思います。

■過去の自分に勝つため

走り手としてはきわめて平凡な──むしろ凡庸というべきだろう──レベルだ。しかしそれはまったく重要な問題ではない。昨日の自分をわずかにでも乗り越えていくこと、それがより重要なのだ。長距離走において勝つべき相手がいるとすれば、それは過去の自分自身なのだから。

→ランニングは極めて個人的なスポーツであるが故に、過去の自分を乗り越えていくことに大きな喜びもある、ということだと思います。自分の成長、が実感しやすいスポーツであり、それが一番のモチベーションです。PB(Personal Best)は誰でも嬉しいです。サブフォー・サブスリーもそうですが、3kmしか走しれなかった人が5km走れるようになる、ことも大切なPBであり”過去の自分を乗り越えること”です。

■空白を獲得するために

空白を獲得するために走っている、ということかもしれない。そのような空白の中にも、その時々の考えが自然に潜り込んでくる。
走っているときに頭に浮かぶ考えは、空の雲に似ている。いろんなかたちの、いろんな大きさの雲。それらはやってきて、過ぎ去っていく。

→幅広いランナーの方が共感する部分ではないでしょうか。今、一人でかつオフラインの時間は殆どありません。一人になって心を鎮めたい時、リフレッシュしたい時、何かを考えたい時にも、ランニングは向いてます。良いアイデアやポジティブな気持ちが生まれてくるのも走っている最中が多いです。瞑想的な効果もあると感じています。過去記事にも書きましたので、ご覧下さい。

■消耗させる

誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。いつもより長い距離を走ることによって、そのぶん自分を肉体的に消耗させる。

→嫌なことやつらいことがあった時も、走ることでそれが和らぐ感じがします。実際には肉体的な疲れが、精神的な苦痛を忘れさせてくれる、ということだと思います。「走ってスッキリする」というのはまさにこれじゃないでしょうか。

別の何かで読んだのですが「お酒を飲むことと、走ることは、脳に対して似た効果がある」とのことです。どちらも「嫌なことを忘れる・和らげる」という。どうせなら飲酒よりも走ったほうが健康的ですね。

■生活サイクル

走るという行為が、三度の食事や、睡眠や、家事や、仕事と同じように、生活サイクルの中に組み込まれていった。

→ランニングは習慣化すると生活の一部に本当になります。走ってない人から「よくそんなに走れるね」と聞かれると「ランニングは自分にとって歯ブラシみたいものだから」と言っています。それは歯ブラシのように簡単、という意味ではなくて「少し面倒だけど、やらないと気持ち悪いし、やるとスッキリするもの」という意味です。

私にとってランニングはすっかり日常の一部です。走れない日が続くと気持ち悪くなってきます 笑

■走り続けることと、意志の強さは、あまり関係ない

日々走り続けることと、意志の強弱とのあいだには、相関関係はそれほどないんじゃないかという気さえする。僕がこうして二十年以上走り続けていられるのは、結局は走ることが性に合っていたからだろう。

→「ランナーは意思が強い人、だから私には難しい」という話を時々聞きますが、ランナーと意思の強弱は関係有りません。実際、私自身もそんなに意思が強い方ではないと思います。なので「走り続ける」という点に於いては、意志の強さよりも「習慣・生活の一部にする」ということのほうが大事だと思います。

前述の歯ブラシの例えではないですが「歯ブラシができる人は意思が強い人」ではないですよね。そうなるためにも、まずは無理せず軽く・短くから走り始めることが大事だと思います。「無理しない走り始め方」については過去に書きましたので、ご覧下さい。

一方でマラソン完走やサブスリーという明確なピンポイントの目標達成には、意思が大事になります。苦しいトレーニングもありますし、レース中も何度も心が折れそうになります。でもそれ以上のものがゴールにあるので、それは報われるのですが。

■走りだす前の気持ち

「今日は身体が重いなあ。なんとなく走りたくないな」という日はある。というか、しばしばある。そういうときにはいろんなもっともらしい理由をつけて、走るのを休んでしまいたくなる。オリンピック・ランナーの瀬古利彦さんに一度インタビューをしたことがある。現役を退いてS& Bチームの監督に就任した少しあとのことだ。そのとき僕は「瀬古さんくらいのレベルのランナーでも、今日はなんか走りたくないな、いやだなあ、家でこのまま寝てたいなあ、と思うようなことってあるんですか?」と質問してみた。瀬古さんは文字通り目をむいた。そして〈なんちゅう馬鹿な質問をするんだ〉という声で「当たり前じゃないですか。そんなのしょっちゅうですよ!」(中略)朝早く起きてランニング・シューズの紐を結ぶときに、彼が僕と同じような思いをしたことがあるのかどうかを。そして瀬古さんのそのときの答えは、僕を心底ほっとさせてくれた。ああ、やっぱりみんな同じなんだ、と。

→私もほとんど毎回、走り始める前は「なんとなく走りたくないな」です。それでも走るのは、走った後に得られるベネフィットを知っているから。でもやはり走り始めは気が重いです。多くのランナーの方に共通する気持ちなんだと、これを読んで安心しました。

「「走りたくない」を やわらげる為に」については過去に書きましたので、ご覧下さい。

■ほんの少しの、走る理由

走り続けるための理由はほんの少ししかないけれど、走るのをやめるための理由なら大型トラックいっぱいぶんはあるからだ。僕らにできるのは、その「ほんの少しの理由」をひとつひとつ大事に磨き続けることだけだ。暇をみつけては、せっせとくまなく磨き続けること。

→この本で私が特に好きな文章の1つです。職業ランナーでない多くのランナーは、別に走らなくても良いし誰にも怒られない。

走らない理由は山ほど作れる、天気・仕事・家族・気持ちが乗らない・二日酔い・脚が痛む・時間が無い…。けれども「自分が走る(少しの)理由」をちゃんと理解して大切にしてあげること、だと思います。

私の場合、以前は「マラソンでサブスリーの為」でしたが、今それは「気持ちを整え、より良い生活を送る為」です。またこれから先も変わるかもしれません。みなさんも自分の「走る理由」を言葉で書いておくと、”トラック一杯分の走らない理由”に負けずに、走り続けられると思います。
「走る理由の見つけ方・考え方」については過去に書きましたので、ご覧下さい。

他にもご紹介したい言葉がこの本にはたくさんあるので、これから何回かに分けてまた書かせて頂きます。

<何度かに分けて書いています。他の回はこちらからご覧ください>





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小池 中人/Nakato Koike
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