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幸福な人生、上質な生活について

どうすれば幸せに生きられるのか。

小さい頃、テレビに出ている大人たちは幸せだろうと信じていた。注目されて、お金もあって。でも、ニュースで著名人の自殺を耳にするたび、確信は薄れていった。著名人と一般人に関わらず自殺はするのだと。自殺の理由の全てが、必ずしも不幸に起因しないにしても、幸福な人生を送ることは、自分が何者になったかではない。

生まれた瞬間から死ぬまでが人生だ。

人生をストーリーとするなら、それを鑑賞できるのは自分ではなく、死後の未来の人間だけで、今を生きる僕らにその評価はできない。つまり、今成功だと思っていることが、将来的に自分の首を絞める結果になるとしても、それは自分ではわからない。一時旺盛を極めた権力者が、最期自分の信じた部下や、民衆の手によって惨殺されることは歴史上繰り返されてきたことだ。優越感の絶頂にいる権力者が、自分の悲惨な末路を想像できないだろう。一時の成功の喜びがあったとして、それが不幸の引き金になったとしたら、人生を包括的に見た時幸せと言えるだろうか。

社会の中での自分の立場や成功は、相対的なものだ。

承認欲求を満たすことはできるだろうが、他者ありきでしか得られないものでもある。人生は一人でいる時間が圧倒的に長いものだ。幸福な人生を送ることは、社会を介在しない、個人の中でしか成し得ないのである。

僕らの命はとても脆い。

誰もが今日が命日になってしまう可能性がある。でも、その可能性を考慮して生きている人は少ない。街に出ると、携帯を見ながら歩いている人、ごった返したホームで黄色い線の外側を歩いている人をよく見かける。人間なんて車や、電車にちょっと引っ掛けられただけで死んでしまうのに。それは、自分には未来があるという思い込みによって、今を大切にしていない。

かなり注意している人であっても病死や事故死といった、突然の理不尽な死は訪れる。幸福な人生を送るにあたって、過度に恐れる必要はないが、頭に置いておくことは必要だ。死んでしまえば、幸せも何もないのだから。

僕らの認識するこの世界は、自分の感覚でしか干渉できないものだ。

見える景色、聞こえる音、匂い、肌に触れる空気、その温度や湿度といった体によって感じられる諸要素があるから、僕らは世界を認識できる。死んでしまえば、世界は認識できなくなり消えるわけだから、感覚が世界の全てだと言ってもいいかもしれない。感覚は年齢によって衰えることはあれど、生涯にわたってあり続けるもの。ならば、幸福な人生を送るためにこれほど都合の良いものはないだろう。

感覚だけが唯一正しく、未来でも覆らない絶対的なものだ。

オーロラを見て美しいと感じる、さざなみの音を聴いて心地よいと感じる、シトラスの香りを嗅いで爽やかだと感じる、まあ何でも良いが、感覚によって得られる情報とそれに対して抱く感情は、その瞬間に導き出された答えなのだ。これは自分の中で完結しており、不変である。

人生は一瞬の感覚の積み重ねだ。

一瞬の感覚を大切にして生きよう。一瞬の感覚を大切にすることは、その永続性を利用して、生涯にわたって幸福感を得続けることに繋がる。目的が幸福な人生を送るという、未来を見据えたものであり、刹那的に生きることとは全く性質が異なる。

良い感覚に触れる機会を増やしていくことが必要だ。

一瞬の感覚を大切にすることは、それに意識を向けることもそうだが、自分の体が心地よいと思える環境を、自分で整備してあげることでもある。身近なところでは、映画やアート、小説、音楽、料理、服などなど。長い歴史をかけて人類に感動を与え続け、愛され続けているものたち。これらは言わば、幸福な人生を送るために人類が生み出した叡智の結晶だ。自分の生活の中に多く取り込み、感覚を駆使して体感しよう。幸福感を得られることはもちろんだが、生活の質が格段と向上することにもなる。

そして何よりも重要なのが、自然に触れることだ。都市化が進み、人類が天然の自然に触れる機会は減っているだろう。ただ、自然は感覚の全てを刺激し、幸福感を与えてくれる根源的な存在だ。身の回りにないのなら、こちらから出向いていくほかない。自然と聞くと、疲労の溜まるレジャーを想像してげんなりするかもしれないが、ただその場に身を置いて、感覚に身を委ねてあげるだけで良い。きっと幸福感を得られるはずだ。

今ここから始めよう。

僕の提唱したことは複雑なことは何もなく、誰もが当たり前のように行なっていることを指摘しているに過ぎない。ただ、皆無意識であるというだけのことだ。

今自分は何を感じるのか。感覚に意識的になって、良い感覚を大切にしてあげよう。それだけのことで人生は今より良いものになる。

仲田壮大(2023.3.5)


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