芸術家のオートエスノグラフィー #7 〜藝大卒業制作〜
#6 はこちらから
東京芸術大学美術学部彫刻科は、卒業論文ではなく卒業制作を東京都美術館で発表することにより芸術学士号を取得する。卒業作品「至心」(写真1)は、仏教でいう祈りの作法である合掌、正座の形を塑造し、それを石膏型にして蝋を流し込むという技法で制作した。
作品に使用した蝋は、実家である寺院で使用された廃蝋燭であり、得度後、約2年間かけて集積したものを使用した。蝋は熱により形が変化してしまうという脆さが内在しているため、彫刻の素材として適していないからと指導教官から再考を促された。しかし20歳で得度した法晃にとっては自然な成り行きであったといえる。
「芸大はアカデミックだ」とよく言われていたが、東京芸術大学彫刻科は伝統的に自然の素材を使用した制作を研究している教授が多いため、必然的に学生の制作素材も決まる。その素材は木、石、ブロンズなど「半永久的に残る素材」であるが法晃は、伝統的で既存の彫刻素材を使用することに違和感を覚えていた。法晃は彫刻科の同期と折り合いが合わず、さらに既存のものへの反発から一線を画すという決意のもと、様々な素材に取り組むことになる。そのきっかけとして、当時東京芸術大学で彫刻科の助手であり現在は世界的に活躍している現代美術作家の小谷元彦氏からの助言によるものがあった。その助言とは、1年生の時の課題で人体塑像をし、それを石膏取りするという課題の時、塑像をしている法晃に対して「君の粘土はチョコレートとかで型取りすると面白そうだね。」というちょっとした言葉を受けた時の衝撃を現在でも記憶している。その時チョコレートは使用しなかったが、この時から既存の素材に捉われる必要がないと確信をもつようになった。
「至心」は、燃え尽きた、また燃え残った廃蝋燭を参拝者の祈りの象徴として捉え、その廃蝋を再利用することで祈りの記憶や、その存在を呼び覚ますことを意図とした作品である。本来、展示中に燃やして形が変化していく様子を鑑賞者に見せたいと考えていたのであるが、東京都美術館の規定により断念することになった。
法晃は20歳での得度を通して、仏教とは何かということを自分なりに考えるようになった。浄土真宗のゴールは「極楽浄土への往生」であるが、法晃にとってはそこに焦点は合わすことができず、「死ぬとはどういうことなのか」ということばかり考えていた。芸大に通いながら、長期休暇で岐阜の寺に戻った時は寺の仕事としてお参りに行ったり行事で参拝者を招いたりなど、僧侶として勤めながらも、心の片隅には常に、「死んだらどうなるのか。お経を読む意味って何なんだ。南無阿弥陀仏とは何か。」という疑問があった。この「疑問」が、卒業制作の構想のきっかけとなった。
「至心」を美術史の中に位置付けると、廃物利用の芸術の起源は、20世紀前半の機械や技術の発展にともない近代化していく社会に対して、歓迎される一方で社会や権力への批判を芸術の側面から表現したダダイスムと呼ばれる運動からであるといえる。第一次世界大戦中にスイスのチューリッヒではじまり、ドイツやニューヨークに広がり、コラージュやフォト・モンタージュ、芸術家のマルセル・デュシャンに代表されるレディ・メイド(既製品)など、それまでの近代芸術の技法とは異なり、新しい発想や技法を取り入れる芸術運動であった。これに対し、第二次世界大戦後1950年代後半から、廃材を集めて作品化する芸術家が現れるようになった。
大量生産、大量消費によって物が簡単に捨てられ、街や各地の処分場に廃棄物が山のようにでき始めたことがきっかけであると言われている。ゴミや廃材を芸術素材として扱うことで、人間を取り巻く環境の一部として、廃材との関わり方や、大量消費社会の生き方を芸術の側面から模索する芸術家が誕生したとされている。廃材を新しい形に再生させることは、僧侶となってからの法晃の中に萌芽した宗教観の現われであったといえる。
また、法晃の在学中の東京芸術大学は、1999年に「先端芸術表現科」を新設していた。20世紀後半の芸術、1960年代から現代までの美術史の流れに関して高草は、「アートという呼称によってしか捉えることのできない状況」[高草2000, p.29]と述べており、1990年代よりデジタル機器を使用した映像作品や、メディアアートと呼ばれるビデオやコンピュータ技術等をはじめとした新技術に触発されて生まれた表現を駆使する芸術家が登場していた。法晃は、日本の芸術、美術大学において新しく学科が誕生しつつある時期に学生時代を過ごしたのである。
その中で、法晃の芸術家としてのキャリア形成にとって記憶に残っている授業の一つに、世界的に活躍する芸術家が講義する「彫刻論」があげられる。当時の著名な芸術家である彫刻家の澄川喜一氏(1931-)や現代美術作家の奈良美智氏(1959-)などが、大学を卒業してから作家としてどのように歩んできたかなどを講演形式でおこなうものであった。学生にとっては、大学を卒業したら彼らと同じような進路に進むためにという、成功者から学ぶことがキャリア教育であったように捉えることができる。法晃にとって、彫刻論を受けての認識としては、「当たり前だけど頑張って続けても誰もが成功できるわけではない。」ということだけであった。美術系大学における教育可能性を考察した喜始によると、
と述べている。そして、美大生のアイデンティティは、自己の制作活動の中で、自己やその作品と向き合う中で形成されていく。美術大学はそのための「自由」な空間であると述べている。法晃も同様であり、大学での「芸術教育」さらには「キャリア教育」は、自らの意思、覚悟の明確化の重要性を学んだということや、卒業した先輩たちの姿を追い、自分と重ね合わせて思考することであった。
#1から#6では、幼少期から大学を卒業するまでの家庭環境から、主に学校教育での法晃の様々な心境の変化と、そこで発見した美術表現との出会い、様々な人物からの影響、さらには得度に関して記述した。横地らは、既存の美術表現や知識の枠内で創作を進める傾向が見られる期間のことを、「外的基準へのとらわれ」[横地、岡田2012, p.269]とし、このとらわれに対する葛藤を描き、芸術家を志した要因と、東京芸術大学を卒業し芸術活動をスタートするまでのひとつの過程を提示した。
創造的思考について心理学的に分析した梅本は、「遺伝因子は可能性、それを実現するのは環境因子である。」[梅本2006, p.11]と述べている。#1において、芸術家の両親、祖先に関する記述をしたが、遺伝因子の可能性に触れることができたかは不明である。しかし、「環境因子」に関しては、決してポジティブな因子だけを指すものではなく、ネガティブな感情から生まれる因子が存在するということが明らかになったといえる。松本は、「ネガティブな経験に肯定的な意味づけを見出す必要があるわけではないが、人は何らかの肯定的な意味づけを見出し得るもので、そうすることでネガティブな経験を乗り越えようとする。」[松本2008, p.108]と述べている。
法晃にとって美術表現は学校教育から逃れる手段であった一方で、学校において評価されたことで自信を取り戻し、自己のアイデンティティが形成されていくことを自覚したという経験があった。法晃は学校や教師への反発の中において、自己を認めてもらうための手段を模索した結果、美術表現にたどり着いた。東京芸術大学を現役合格し、浪人生との温度差を感じながらも、様々な出会いや気づき、何より得度をして僧侶になったことにより自らの追及するべき手段や方法を開拓してきたといえる。
結果的に、法晃は大学を卒業してから就職するということを考えたことがなかったし、考える余地をもつことができなかった。東京芸術大学のウェブサイトを閲覧すると、現在のキャリア支援は進んでいるように感じられる。しかし、純粋芸術(ファインアート)、特に彫刻科に関しては就職率が低いことがわかる。ウェブサイトでは過去5年間の進路状況が掲載してあるが、法晃が学生であった2002年頃とほとんど変化が見られない。大学院への進学を目指す者と、卒業してアルバイトをしながら芸術活動を継続するという選択肢がほとんどであるといえる。同期の半数以上は大学院に進学したが、法晃は進学せずただ漠然と、「芸術家になる」という意思だけをもっていたのである。
椹木(2010)は、
と述べている。法晃は大学までにおいて彫刻の技術を一通り習得することができたが、芸術家として最も重要である制作概念、つまり「制作活動をする意義」を見出すことはできなかった。つまり、学校美術教育における学びとは、美術の技法の習得と、学校生活に内在する他者との出会いによる人間形成術の育成であるといえる。
法晃にとって、学校教育での経験は、美術表現を媒介として人間関係において多角的な視点をもつことができる基盤が形成されたといえる。そして、得度を通して、わずかながら制作概念の萌芽がみられた。
しかし、美術の文脈においては全くどこにも位置づくことのないただの芸大卒のニートになった。
#8 へつづく
参考文献
· 梅本守(2006)『芸術と創造的思考』宝塚造形芸術大学紀要 (19) pp. 1-12
· 松本智子(2008)『ネガティブな経験の意味づけ方の変化過程 肯定的な意味づけに注目して(臨床系)』九州大学心理学研究 (9) pp.101-110
· 横地早和子、岡田猛(2012)「芸術家」金井壽宏、楠見孝編(2012)『実践知−エキスパートの知性』有斐閣 pp.267-292
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