Nakashima Houkou

中島法晃:浄土真宗本願寺派光輪寺住職/美術家 東京藝術大学美術学部彫刻科卒業.2019年保見アートプロジェクト主宰.作品 https://houkoun.myportfolio.com/work 研究室 https://houkouart.myportfolio.com/work

Nakashima Houkou

中島法晃:浄土真宗本願寺派光輪寺住職/美術家 東京藝術大学美術学部彫刻科卒業.2019年保見アートプロジェクト主宰.作品 https://houkoun.myportfolio.com/work 研究室 https://houkouart.myportfolio.com/work

最近の記事

芸術家のオートエスノグラフィー #13 〜社会の中に生きる芸術家〜

 2011年3月11日14時46分、太平洋三陸沖を震源位置とした地震が発生し、東北地方を中心に莫大な被害を受けた。この震災は気象庁により「東北地方太平洋沖地震(以下東日本大震災または震災)」と命名された。地震の規模は、マグニチュード9.0は日本周辺における観測至上最大の地震であった。2024年1月1日に起きた能登半島地震でも多くの尊い命が犠牲になった。地震大国と言われる日本であるが、どのように備えて生きていくかを個人としても考えておかなければならない。  多くの芸術家は、東

    • 芸術家のオートエスノグラフィー #12 〜芸術家の労働が作品に与える影響〜

       中島は、芸術活動をおこなう傍で、僧侶として寺務を、また美術講師として様々な学校で講師として美術指導をおこなっていた。美術研究者たちは、「アーティストの多くはアルバイトをして生計を立てている。」[林2004, p.24]、「芸術家の4分の1が赤字の穴埋めのためにひとつ以上の非芸術系の仕事に就いている。」[クサビエ2007, p.85]、「アーティストは複数の仕事を持つことによりリスクを軽減する」[アビング2007, p.242]など、多くの芸術家は成功するまでは副業を持つこと

      • 芸術家のオートエスノグラフィー #11 〜地域における芸術家像と実存〜

        #10 はこちら 1.芸術家同士のコミュニティー形成による個人の活動への影響  林容子(2004)は、著書『進化するアートマネジメント』において、「欧米においてアートは個人の考えや個性を表現する重要な媒体であり、精神を開放し、自由にしていくものとしても捉えられている。つまり、アートは、生活に美を与えるばかりでなく、『市民社会』や『自由』と密接な関係にある重要なものである。」これに対し日本では、「アーティストの才能に対する理解も乏しく、尊敬心が希薄であると言わざるを得ない。

        • 芸術家のオートエスノグラフィー #10 〜仏教概念が芸術家に与える影響〜

          #9では、中島の制作概念が形成される過程を明らかにしたが、それ以降、「死生観」に基づいて制作を追求してきたことが、同時に仏教に対する考えを深めていくことになっていた。本節では、中島が開催した個展を通して、美術作品が「売れること」と、芸術家として「作りたいもの」との葛藤の間で中島が考え、向き合う過程を記述する。そこで、仏教思想の中の「縁起」という概念が浮かび上がり、中島にとって葛藤を越えるひとつの手段となったということを明らかにする。そして、仏教概念が芸術家に与える影響について

          芸術家のオートエスノグラフィー #9 〜死生観〜

          #8 こちらから  2004年に帰郷してからの中島は美術の能力を活かす仕事を見つけることができず、教員であった祖母一子(以下一子)や両親などの意向もあり、非常勤講師として美容専門学校や小学校で美術の指導をしていた。さらに、20歳の時に浄土真宗本願寺派で得度したことで、僧侶としても住職の代理でお参りに行ったり、住職とともに通夜や葬式に出かけたりしていた。中島にとっては講師の仕事も寺の仕事もアルバイトのような感覚で、あくまで制作をするための材料費などの資金を稼ぐためという位置付

          芸術家のオートエスノグラフィー #9 〜死生観〜

          芸術家のオートエスノグラフィー #8〜僧侶の都落ち〜

          #7 はこちらから  横地ら(2012)は芸術家たちへのインタビューを通して、芸術家として活動を始めた当初に手がけた作品シリーズが変化するまでの期間は平均で約4年間であり、その間は「既存の美術表現や知識の枠内で創作を進める傾向が見られる」と述べ、その期間を「外的基準へのとらわれ」[横地、岡田2012, p.269]としている。  法晃は2002年に東京芸術大学を卒業したのち約4年間は卒業制作と同じく蝋を素材(写真1)として制作していた。卒業制作展で蝋を素材とした作品が他に

          芸術家のオートエスノグラフィー #8〜僧侶の都落ち〜

          芸術家のオートエスノグラフィー #7 〜藝大卒業制作〜

          #6 はこちらから  東京芸術大学美術学部彫刻科は、卒業論文ではなく卒業制作を東京都美術館で発表することにより芸術学士号を取得する。卒業作品「至心」(写真1)は、仏教でいう祈りの作法である合掌、正座の形を塑造し、それを石膏型にして蝋を流し込むという技法で制作した。  作品に使用した蝋は、実家である寺院で使用された廃蝋燭であり、得度後、約2年間かけて集積したものを使用した。蝋は熱により形が変化してしまうという脆さが内在しているため、彫刻の素材として適していないからと指導教官か

          芸術家のオートエスノグラフィー #7 〜藝大卒業制作〜

          芸術家のオートエスノグラフィー #6 〜得度〜

          #5 はこちらから  法晃は20歳の時に浄土真宗本願寺派の得度をした。それまでは寺を継ぐことに対し、「反発心もあって県立加納高等学校美術科に進学。東京芸術大学で彫刻を専攻(岐阜フリーペーパー「aun」2011,12記事)」とあるように、高校美術科を受験したいということを、当時志望校であった高校の教務主任をしていた父洋晃に相談した時に、美術は大学に入ることが難しいし卒業しても仕事がないからと猛反対された。それに対して法晃は説得し、教育学部のある大学に行くのであれば受けても良い

          芸術家のオートエスノグラフィー #6 〜得度〜

          芸術家のオートエスノグラフィー #5 〜藝大〜

          #4 はこちらから 東京藝術大学での学び  法晃が過ごした美術科高校入学から東京芸術大学を卒業する1990年代から2000年にかけての日本では、公共性に支えられた近代の美術館の制度から離脱し、横浜トリエンナーレや越後妻有アートトリエンナーレなどのパプリックアートと呼ばれる、美術館だけでなく自然野外や街の中などでのインスタレーションや、市民を巻き込んだプロジェクト型の芸術活動が盛んにおこなわれるようになった時代であった。  また、「現代美術」の傾向に関して松井が、 であ

          芸術家のオートエスノグラフィー #5 〜藝大〜

          芸術家のオートエスノグラフィー #4 〜藝大受験〜

          #3 はこちらから  高校生特有?の少し鬱屈した法晃に転機が訪れる。3年生になると有志の生徒は長期休暇の時期にそれぞれ美術予備校に通うが、法晃は夏期講習、冬期講習、受験直前講習を東京・池袋にあるすいとーばた美術学院に通って過ごした。そこでは浪人生がしのぎを削り合うように毎日受験対策に励んでいた。1浪から7浪ぐらいしている人まで存在し、現役生であった法晃にとってはカルチャーショックを受けた記憶がある。しかし、美術研究所に通ったことが法晃にとってかけがえのない経験であった。  

          芸術家のオートエスノグラフィー #4 〜藝大受験〜

          芸術家のオートエスノグラフィー #3 〜美術科高校〜

          #2 はこちらから 美術科高校における学び  高校時代の1997年に制作した作品「雑音」(写真1)は法晃にとっての処女作である。法晃は美術科のある高校で3年間専門的に美術を学んだ。朝7時40分に学校に到着し、ホームルームが始まる8時40分まで「朝デッサン」をし、授業は毎日6限のうち2限は美術の授業があり、放課後は18時頃まで「放課後デッサン」をする。その生活を3年間続けた。岐阜県立加納高等学校は美大進学を目指す高校であり、毎年現役生を数名東京芸術大学に合格させている全国で

          芸術家のオートエスノグラフィー #3 〜美術科高校〜

          芸術家のオートエスノグラフィー #2 〜中学時代〜

          #1 はこちらから 住職継職まであと38年  法晃が通った小学校は全校児童が少なく、各学年1クラスずつであったが、中学校に入学すると町内の3つの小学校から生徒が集まるため全部で5クラスになった。町内の3つの小学校とは小学生時代から少年野球団の町大会で試合をしていたことで交流があり、そこでできた他小の友達と中学に入学してからも野球部に入り親交を深めた。授業では美術が一番好きであったが、勉強することに対しても積極的に取り組むことができた。  中学生になると、テストや成績表で

          芸術家のオートエスノグラフィー #2 〜中学時代〜

          芸術家のオートエスノグラフィー #1 〜1人の僧侶の生い立ち〜

          #0 はこちらから  住職になる。その前に、、芸術家はどのようにして作られるのか。  社会学者のエルンスト・クリスらは、ルネサンス以降に多く書かれるようになった芸術家の伝記の中には、2つの重要で典型的なモチーフがあるという。1つは芸術家の生い立ち、もう1つはその芸術家の作品によって人々がいかに驚かされたか、という話である。それらを通して共通の逸話を抜き出し浮かび上がってくるものは、人々の心の中にある典型的な芸術家像が反映されていたからであると述べている。芸術家の生い立ちか

          芸術家のオートエスノグラフィー #1 〜1人の僧侶の生い立ち〜

          芸術家のオートエスノグラフィー #0 〜住職になる〜

           数年前から父親から「そろそろ住職にならんか」と言われてきたが、2023年9月についに住職になってしまった。  父は19歳の頃に自分の父親を不慮の事故で亡くし、何の引き継ぎもないまま寺を継いで半世紀以上寺の住職を務めてきた。自分の息子には、自分がまだまだ元気なうちに寺院運営管理などについて教えておきたいとの考えがあるそうだ。先日、父が81歳の誕生日を迎え、「まだまだあと20年ぐらいはやっていけそうや」と言っていた。  私は一応、美術家として活動している。 これまで、美術家

          芸術家のオートエスノグラフィー #0 〜住職になる〜