世界史とか紛争とかホットミルクとか
なんだか今日は病になる前の頭のモードに近いのでリハビリも兼ね暴力的なアウトプットをしてみようと思う。
寒いのでホットミルクを作った。下北沢にあるカフェの真似をしてラム酒を垂らすと香りもよくほんのり甘い。映画のロケにも使われ、曽我部恵一が経営していて、あまり知られていないが曽我部恵一は反戦や非戦の歌のコンピレーションアルバムを出している。それにロケにお使いになった映画監督は「あったってことは、なくなっても、あったことは残り続ける」という通底した価値観として映画を撮り続けていらっしゃる。
最近、世界史を学んでいるんだけど、世界史は基本的に戦争や争いが中心だしそこがある種に面白さでもある。ナポレオンがいなければナポレオン法典はなくその影響にあったスタンダールは「赤と黒」や「パルムの僧院」は書かれず、スタンダールの作品がなければ夏目漱石などの現代日本語の基礎を作った人たちの作品は別のものになっていて今の日本語はかなり違った形になっていたかもしれない。
瀬戸内寂聴がなくなり、こぞって出版社がフェアをしているが「生きた 書いた 愛した」はスタンダールの墓標に刻まれた言葉で違和感がある。ただ寂聴なら笑って許すだろう。ご冥福は祈るし、地獄でもあの人は楽しくやりそうな感じがステキな人だ。
知らないことや知るべきことやどうにもできないことはたくさんある。
自分で「戦争をする時 指導者は単純な言葉を使うが 事態は複雑になり 解決や理解なより困難になる」とふと思った。
イスラム教 シーア派とスンニ派の対立といえば構図はわかりやすいが、さらにシーア派内での派閥闘争、スンニ派内での派閥闘争、そしてそもそもこの二項対立が問題を単純にすることで理解を妨げ、より問題解決を困難にしている可能性。
ロヒンギャ問題にも言える。歴史の中で仏教徒とイスラム教徒の対立があり、アウンサンスーチーはビルマ族で仏教徒でミャンマーで9割を超える多数派だ。そのスーチー氏は軍部との政治家としての戦いがあり、交渉がある。国家は利害で動く。ロヒンギャのイスラム教徒は少数派だ。後回しにされる。寂しい。
結局はロヒンギャの方々は欧米からもイスラム教国からも自国からも後回しにされて苦しい困難を抱えた生活を送っていらっしゃる。(もちろん中には問題解決のために命を賭して奔走している人もいる、頭が下がる)もちろん日本はほぼ何もしていない立場だ。好きの反対は無関心とはよく言ったものだ。嫌いは好きの裏返しだとも思う。
これを書きながら僕は温かい布団に潜み、ホットミルクを飲んでいる。お気に入りのイッタラ のお皿とカップで。
議論は大事だし好きだけど争いは好きじゃない。事態を単純化しようとして複雑にして収拾不可能になり、回復することもなくなり、再生を願うしかない。ただ願うだけの徒労に終わるだろう。
難しいことをそのままにして理解しよう。好奇心を持とう。という姿勢の大事さを知り、元気になったら、ちょっぴりで良いから世界を良くしたい。なんかセンチメンタルになったけど大事だと思うから書き綴ってみました。
おしまい。