矛盾してるほうが勝つ?
こんばんは。
今日は、クリスマスディナーの先取りで、友人と楽しい夕食をして来ました!
食を分かち合うって、人生ても最もステキな時間ですね。
今回けっこうややこしくてごめんなさい。
いきなり論点が変わりますが、論争においては矛盾しているほうが勝つ、という意見があるんですよ。
作家で思想家の佐藤優さんの持論です。
彼があげているのは、クリスチャンの代表的な信仰箇条、
「イエスはまことの人であり、まことの神であった」
です。
ノンクリスチャンの方には、なんかへんな意見に見えると思います。
「イエスは人間だった」
「イエスは神だった」
のほうが座りがいいのにと。
しかし、古代の神学者は、この問題をいい加減にすませなかったのです。
二つの歴史的論争がありました。
両方ともローマ時代です。
ひとつは、アレイオス(250~336)が、
「イエスキリストって、ただのひとだよ」
と言い出したのです。
かなり物議を起こしましたが、アタナシオスが、
「イエスが人のみだったら、人類を贖うことは出来ない」
と、喝破しました。
さらには、そのすぐあと、アポリナリオス(310~390)という学者が、
「イエスは神で、十全な人性なかったよ」
と言い出したのです。
それを正したのが、ナジアンゾスのグレゴリウスで(あー、だから世界史きらい)、
「君の言うとおりだっなら、キリストは人類の罪を担えない」
とやったわけです。
かくて、ローマ帝国内のそうそうたる神学者たちの対決によって、
「イエスキリストは、まこと神であり、まことの人である」
という教義が確立されたのでした。
かくてキリストは、人間の罪を担って、それを救うことができると。
ここで、彼らの判断基準はなんだったのだしょう?
ローマ時代を代表する学者とは思えないほど、すじが通っていませんよね。
彼は、何によって動いていたか。
それは。
人を救える命題だけが真理である
ということだったのです。
そのためには、客観的真理など、どうでもいい、どこかに、人を救う絶対的な真理があるはずだ、それが、論理的でなくても、人を救う真理はある。絶対ある。
ということだったのですね。
ローマ教父愚かというなかれ。
現代でも、いや現代ならばこそ、絶対に正しい真理はないということになっていて、「人それぞれ」と言われていますが、ここで、
「人を救う真理こそが本当の真理である」
という、ローマ教父たちの意見を生かしてみる値打ちはあるかとおもうのです。
物事を真偽からみるのではなく、物事がいかに人を生かすかという観点から、覗いてみることは、けっこう大切な視点かな、と中村は思うのです。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございます。これからもがんばります。中村 拝。