漂泊の日々
西成にきたのは昼頃だった。高架上の××駅から下の道に降りると、私は前を行く人の背中について歩いて行った。ガードレール下に出た。そこを抜けると、急に騒がしい場所に出た。手ぬぐいで鉢巻をした男が、道端に雑多な衣料品を積み上げ威勢良く叩き売っており、何人かが品物を手にとって調べていた。そういう光景があちこちでみられ、人も多く出ていた。その叩き売りをやっている前を通って少し行くと、交差している広い通りへ出た。私は、その通りを信号に沿って向こう側へ渡り、それから歩道を右へ歩いて行った。左へ行ってもよかったのだが、私には左へ行く人よりも右へ行く人の方が多いように思えたので。
歩道の左側には、八百屋があり魚屋がありパン屋があった。小さな食堂もあった。車庫のような見物があり、なかには自動洗濯機が並んでいたが、使用している人の姿はなかった。歩道の右側の電柱には<人夫募集>の張り紙があった。一本の電柱に別の募集の張り紙が三昧も四枚も貼ってあるのがあった。どれも寮付きで、雇い主の電話番号だけが大きく書かれていた。
基幹道路に出た。中央分離帯を挟んで車が反対方向へ疾駆していた。道路の向こうには高層ビルが立林し大都会が現出していた。そこは私には縁のない世界だった。私はそこを左へ折れた。やはりこれまでと同じような個人商店が並んでいた。と、前方から異様な風体の二人連れがふらふらしながら歩いてきた。にたりとも灰色の踝まである長い重そうなオーバーを着て、ゴム長靴を履き、垂れ下がったぼさぼさの髪をしていた。ふらついているのは泥酔しているせいらしい。すれちがいにみえた顔はどす黒く、垂れた髪の間に白く細い死んだような目が見えた。私は、そのあとも何人かの薄汚れた泥酔者とすれちがった。
私にとってさしあたりいちばん必要なことは、今夜のねぐらを確保しておくことだった。知らない土地で、それに所持金も少ないとなれば、その日のねぐらの決まっていないことほど不安なことはない。それに、私はひどく疲れを感じていた。どこかからだが悪いのではないかと思うほどだった。そのために、早くどこかでからだを横たえたくて仕方がなかった。
歩いていると、露地への入り口のようなところがあった。私が覗き込むと奥の方に<旅館>書かれた小さな看板が見えた。私はすぐにその露地に入っていき、<旅館>の看板を目当てに歩いていった。旅館はすぐに見つかった。玄関先に宿泊料金の表示があり、最低が一泊三百円で、六百円、八百円、二千円になっていた。
玄関が開いていたので私は黙って中へ入って行ったら奥から若い女が出てきた。
「何か用?」
女はいかにも胡散臭そうに私の顔を見詰めた。
「部屋を借りたいのだが」
「満員よ」
私は、これ以上何を行っても無駄であることがすぐにわかった。
私はそこを出たが何も心配することはなかった。その辺りには、よく似た旅館がいくつもあったのだ。私は、またそのうちのひとつに入って行った。こんどは年配の女が出てきて「三時からしかやってないよ」とぶっきらぼうに行った。私は、それなら三時以降にまたくるからそのとき頼みたいと念を押した。女は黙っていた。どうやら、この辺りでは、旅館は昼の三時からしか開かないようだった。初めの旅館で断られたのも、まだ時間が早かっただけのせいかもしれない。若い女が胡散臭そうに私を眺めたのも、こんな早い時間からと思っただけのことで何のこともなかったのかもしれない。とにかく、ねぐらだけは何とかなりそうで、私も少し気分が楽になった。
私は、時間つぶしにその辺りを少しうろついていることにした。何しろ、まだ昼過ぎである。いくら疲れているといっても、三時までそこに立っているわけにもいかない。
歩いていると、賑やかなアーケード街に出た。中へ入っていくと、両側の商店の前の路上にいろんなものを並べてジャンバー姿の男が通行人に売っていた。時計やらバンドやら財布やらそうした類の小物が多いようだった。とにかく雑多な人間がぞろぞろと歩いていたなかでも、ジャンバーにゴム長靴姿という労働者風の男が多かった。パチンコ店も多く、喧騒を道路へ響き渡らせていた。
おでん屋があって労務者が群がっていた。そのおでんのにおいが、私に今朝からこれといったものを口にしていないことを思い出させた。私のふところには一万円札一枚と千円札が一枚と、それに小銭が少ししか残っていなかった。私は、小銭の分だけででもおでんで一杯やりたい誘惑にかられた。私はそこに立ち止まって小銭がいくらあるか数えて見た。そうしたら、しわだらけのお婆さんが私の顔を下から覗き込んできた。そして、目をパチクリとさせてみせた。「五千円でいいよ」
私ははじめ、婆さんは私をそのおでん屋へ誘っているのかと思った。(私の頭のなかはおでんを食いに入るかどうかのことしかなかったので)しかし、それにしては金額の高いことに気がついた。私は「女より泊まるところはないか」と訊いた。「ある」婆さんは私を横道へひっぱっていった。ちょっと不安だったが、婆さんのあとについて行くとすぐに旅館に着いた。婆さんは私を玄関の前に待たすと自分だけなかへ入っていった。なかから婆さんと一緒に旅館の主人らしい割烹着をはおった四十すぎの女の人が出てきた。
「千八百円の部屋しか空いてないよ」とその女は私の顔を見ながら言った。「それでいいよ」と言うと、すぐその女の人は私を旅館内に入れ、狭い廊下を二階へ案内していった。いくつかある部屋のひとつ戸を開けると、この部屋だといって私をなかへ入れた。そして、前払いだからと言って千八百円を要求した。女主人が去っていくと、私は、ここまで案内してきてくれた婆さんに礼を言うのを忘れたことに気がついた。すまないことをしたと思い、もう一度下までおりていこうかとも思ったが、多分もう婆さんはいないだろうと考えて諦めた。
部屋は四畳半だった。畳は黒く、ふとんが一組み敷いてあった。どういう意味かまくらだけが二つあった。ふとんを入れるためらしい押入れがあったので開けてみようとしたが、何か閊えているようで開かなかった。とにかく疲れているので寝ることにして(ほかにすることもなかった)上着を脱いだ。そして、思い出して入り口の戸に施錠をしておこうとしたが、錠は壊れていてできなかった。諦めて敷きっぱなしのふとんのなかへ潜り込んだ。湿っぽくてそれに変なにおいがした。
少し眠った。眼が覚め腕時計を見ると三時半だった。眠っているあいだ、旅館の外をザワザワと人の歩き回る音がしていた。夢うつつに、自分は温泉客がゾロゾロと歩き回っているような錯覚がしていた。パトカーのサイレンの音がした。眠っているあいだにも、何回かきいた気がした。
すこしでも眠ったせいか、少し疲れがとれたような気がした。まだ夜まではだいぶ時間があった。私は、それまで外へ出かけてみることにした。所持金も先程ここの宿泊代を払ったいまは、もう一万円を切っていた。このまま、部屋のなかでじっとしている気にはなれなかった。
旅館を出ると、あちこちをあてもなく歩き回った。頭上を効果が走る狭い路を歩いていたら、前方で労務者風の男がふらふらしていた。よほど泥酔しているとみえ、道路を端から端へとふらついているだけなので、向こうへ歩いて行こうとしているのかこちらへ歩いてこようとしているのか分からなかった。私が近づくと、男は突っ立って動かなくなった。頭を垂れ眼をふさいでいるので眠っているふうだった。私がその横を通り抜けようとしたら、男が「オッサン!」と呼び止めた。私がギクッとして立ち止まり男の方を見ると「その新聞、くれ」と、頭を垂れ眼をふさいだまま言った。
私は、道端で拾った古新聞を手にしていた。何かいい求人広告でも出ていないかと思ったのだ。男は、頭を垂れ眼をつむっているくせに、私の手にしている新聞を眼にしていたのだ。私は、求人広告の載っているページを一枚破りとってから、その新聞を男に黙って手渡してやった。男は、うつむいたまま黙ってそれをとると、ズボンのバンドを外しはじめた。私が数歩言ってから振り返ると、男は、道ばたにしゃがみこんでいた。糞をしているらしい。
歩き回っているうちに辺りがうす暗くなってきた。工事現場の塀があって、そこに、前に電柱に貼ってあったと同じ人夫募集の張り紙が何枚もベタベタと貼ってあった。そのなかに<アパートの管理人募集。給与十七万円>というのがあった。私は、その張り紙にある電話番号を、一枚だけの新聞のハシにメモした。その辺は公衆電話がありそうなところではなかったので、少し行って人家のあるところへでてから公衆電話を探し、そこから電話をかけてみた。
おばあさんらしい相手がでた。
「……どんなことをするんですか」
「アパートの住人が、部屋代を夕方から夜十二時ぐらいまでに持ってくるから(どうやら部屋代は日払いらしい)それを受け取っておく仕事だよ」
「それで十七万円ならいいな。それたのむよ」
「十七万は夫婦者だよ」
「なんだ。こちらは一人なんだが」
「一人のもいまあるよ。十一万だけど」
「それたのむよ。それで条件は?」
「保証人が一人いるよ」
「それがいないんだが」
「それでは駄目だ」
電話が切られた。私はここで仕事にありつこうと思ったら、少なくとも始めからはまともなものは無理らしいと察した。
あてもなくまた歩き回っていたら、変なところへ出た。その一郭は、どの家も格子戸の同じ造りだった。どの家の玄関も開かれていて、土間の向こうの部屋に着飾った若い女が座布団を敷いて座っていた。私がその玄関の前を通ろうとすると、どの家からも中からおばあさんがとびだしてきた。そして「兄さん、チョット見たってえな」と中の若い女の方へ顎をしゃくった。いくらだと訊いたら六千円だという。「またにするよ」と言って私はその界隈を早足に通り抜けた。なおも歩いているうちに(知らぬうちに日はまったく暮れてしまっていた)飲屋街に入り込んでいた。飲屋街といっても、ビルなどなく一軒家の小さな店ばかりだった。まだ時間が早いせいだろう、店の中に殆ど客の姿がなく、どの店の前にも客引きの女が立っていた。そしてどの女も私を誘った。「千円でいいよ」「一杯だけだよ」と言った。こちらは飲める状態じゃないんだ、と言ったら、女に横を向いて黙殺された。「仕事を捜しているんだ」「仕事ならあるよ、飲みながら話そうよ」「遊んでいってよ、三千円でいいワ」「ダメだ、仕事を見つけてからだ」「仕事なんかしなくても私のうえにのってたら三食昼寝付きさせたげるよ」と肥えた女が媚びた流し眼をして笑った。そのうちに、飲屋街もとぎれ、なおも歩き続けていると、なかで大きな建設工事でもしているらしくパネルで片側をずっと囲った道にでた。そこを歩いていくと、前方の路上に人だかりがしていた。近づくと、一人の労務者風の男がパネルの塀を背にして木箱に腰掛けていた。その男を二十人くらいの労務者が取り囲んで笑っていた。木箱に腰をかけた男も、それを取り囲んでいる労務者の方も殆どがだいぶん酔っ払っているようだった。取り囲んでいるうちの、前列の道路に尻をおろしている連中のうちの一人が、囲いのなかほどに置かれた小さなダンボール箱のなかへ十円玉を放り込んだ。誰かが流行歌の題名を大声で言った。すると、木箱に座った男が片手に持っていたハーモニカをちょっと拝むようなしぐさをしたが(彼はそれで曲を憶いだしているのだと思うが)すぐにその流行歌を吹きだした。男が一曲吹き終わるとまた誰かが十円玉を放り、誰かが曲名を注文して、男が吹いていた。男が背にしているパネルの塀には人夫募集の張り紙が一枚下半分ちぎれたまま張り付いていた。
私は、そこを離れてまた歩き出した。そして、また人家の密集した通りへ出たが、ちょうど一日の仕事が終わった頃の時間だったせいか、どこの酒屋も立ち飲みの労務者でいっぱいだった。私も、そのうちの一軒の酒屋に入っていった。歩き回って少し疲れていたし酒も飲みたかったが、あてもなく歩き回っているより、人の集まっているところの方がまだしも何かきけるかもしれないと考えたのだ。入ってみると、中は思ったより広く、労務者でいっぱいだった。私はカウンターのいちばん隅へいって一杯注文した。L字型になった向こうのカウンターで、坊主頭の若い男がさかんに喋り捲っていた。こういうところでは、どこでも話題の中心になっている者が一人か二人いるものである。私も、きくともなしにその若い男の話をきいていた。
「西成へ来るもんは、みな、親不孝をして逃げてきた奴ばかりや」
みな笑った。私は、左隣の若い男に、何か仕事がないか訊いてみたかった。が、となりは私に背を向けたまま、坊主頭の方の話にばかり興がっていて、どうしても話しかけるきっかけがつかめなかった。仕方なくひとりで飲んでいると、隣の若い男が帰っていき、かわりに髭面のおじいさんが割り込んできた。私は、飲み出したじいさんをすこし観察していたが、じいさんは若い坊主頭の話には少しも興味を示さなかった。そちらの方を見ようともしない。「仕事を捜しているんだが……」と、私はじいさんに言ってみた。
「そんなことわけねえ、センターへ行け」
「センター?」
「そこへ行けば、労務者をいくらでも集めに来とるよ」
「それが、まだここへきたばかりなんでよく分からないんですよ」
私は、じいさんに一杯奢った。つきあいに私ももう一杯注文した。
じいさんは私の顔を見直した。それから、私の格好を足元から見上げた。「ここでは何だからこれを飲んだら出よう」と。じいさんは言いながら私のコップ酒を口にもっていった。
コップ酒を飲んでしまうと、じいさんと私は酒屋をでた。外はもう暗くなっていた。二人で歩いて少し行くと、空き地があった。そこへ入っていったが、腰をおろせるような場所はなかったので、二人で地べたへしゃがみこんだ。そこでじいさんが教えてくれたのは次のようなことだった。
センターへ朝早く行って待っておれば、業者がマイクロバスで迎えに来てくれるから、それに乗り込んで行けば現場に運んで行ってくれるそうで、一日仕事をさせてくれる。仕事が終わればその日の日当を現金で支払ってくれ、またもとのセンターまでバスで送って来てくれる。こういう一日労働契約と、もうひとつ、十日契約というのもあるらしい。この方は、十日間働くという約束で、賃金も十日間働いたあとでしか支払ってくれないが、その代わり寮もあって、そのあいだは寝ることも食うことも先方で面倒をみてくれるそうだ。
「十日契約の方なら京都と神戸の両方を知っているが、京都の方がいい。京都の方は寒いのだけがかなわんが、神戸はガラが悪い。アンコ(一日契約の方をこういうらしい)では、毎日宿賃がいるし、ときには遅くなったりすると満室で断れれて青カンをせんならん。今時は寒いので、誰でも宿を欲しがりそのためよくあぶれるのだ。寒いときの青カンは身体に堪えるからな」とじいさんが言った。さきほどの酒屋で、坊主頭の若い男がさかんに青カン青カンと言っていたが、そのときは青空のもとで姦することだと思っていたが、じいさんの話のなかでは、ただ外で寝ることだけをいうらしい。
「働きたいのなら明日センターへ連れて行ってやろう。ところでいまどこにいるのや」
私がこういうところに宿をとってあるというと、「何!千八百円も!よし、そこへ行って断ってしまおう」とじいさんが怒って言った。「今夜はワシのところへ来い。ワシの部屋へ寝かせてやろう。それから、あしたの朝センターへ連れて行ってやるよ」
じいさんは、その空き地の隅に自分の自転車を置いていた。私は、その自転車をひいて爺さんをうろ覚えの道を通りやっととってある旅館まで案内した。じいさんには入り口の前で待ってもらっていて、ひとりで中へ入って行って、女主人に知り合いのところに泊めてもらうことになったからと言って引き上げたい旨を伝えた。「払い戻しはしないよ」と女主人が言った。私は、それなら明日の朝の十時まで部屋をとっておいてほしい、ひょっとしたら朝方でも戻ってくるかも知れないから、と頼んだ。じいさんが今は自分のところに泊めてやると言っているが、成り行きでどんなことになるか知れたものではなかった。夜中に追い出されでもしたら、せめてここで顔でも洗わせて欲しいと思ったのだ。
旅館を後にする前に、もう一度だけ部屋を見ておこうと思った。何を置いてきたというわけではなかったが、払い戻しもなかったのでなんとなく名残惜しい気持ちになっていたのかもしれない。私が部屋の扉を開くと、そこには何故か着飾った若い女がいて、こちらに向け微笑んで手を差し出した。
「お待ちしておりました、さあ」
「持ち合わせがないんだよ」
「お題は結構です。さあ、こちらへ」
女は私がどうしても開けられなかった押入れをいとも簡単に開け、どうやらそこへ招こうとしているのだった。なんとも妙な事態になったと思ったが、私はとりあえず女に従ってみることにした。酒が回っていたのかもしれない。
「頭に気をつけてください」
女の心遣いに感謝しながら押入れの中へ踏み入れると、奥からハーモニカの音が聞こえてきた。それは先ほど道端で聞いた流行歌を奏でているようであった。私は無意識にズボンのポケットに手を入れると、そこから十円玉を取り出して前に投げた。闇の中へ飛び込んで行く十円玉が、その軌跡に光を灯すように、辺りは突然明るくなった。そこはどこかの飲み屋のようだった。
「こちらへ」
女の案内で私は席に着いた。わけがわからなかった。それに、外にじいさんを待たせている。私はどこかへ行こうとした女を引き止め、自分はこんなところにはいられない、と伝えた。彼女は柔らかく微笑んだだけで、なんの返答もくれなかった。辺りを見回したが、帰り道がどこか見当もつかなかった。仕方がないので私は目の前に運ばれてきた酒を飲んだ。うまかった。
「この十円玉を投げたのはあんたかい?」
気がつくと、目の前にハーモニカ男が立っていた。私はそうだと頷いた。男は「リクエストは?」と訊いたが、私は特に考えがなかったので「なんでもいい」と首を振り、酒を飲んだ。
「なんでもいい、か。そんな気持ちでこの街へ来たのかい?」
私は酒を飲む手を止め、男を見上げた。
「怖い顔するなよ。別に説教しようってわけじゃない。俺も似たようなもんさ。しかし、あんたは特に匂いがしないな」
「匂い?」
「目的の匂い。なんのために生きるのか、自分はどこへ行こうとしているのか。人間というのは多かれ少なかれそんなことを考えて生きているもんだ。しかしあんたからは何も匂わねえ。空っぽだ」
空っぽか、と私は笑った。その通りだと思ったからだ。妻があり、子があり、仕事があったが、私にはよく分からなかった。私はいつも自分の中の空洞が立てる音に耳を塞ごうとしていた。人と関わり、優しさや思いやりを感じるたびに、その空洞が私を苦しませた。私には誰かに返すことのできるものが何もなかった。努力はしたが、虚しさが残るだけだった。白いページがどこまでも続いていく、そんな恐怖と罪悪感に堪えられず、私は家を出る決意をしたのだった。男は私の前の席に腰を下ろした。
「ひとつ、いいことを教えてやろう」
「それは、十円の対価か?」
男は笑って「そう思ってくれていい」と言った。
「お前は、ひどい勘違いをしている。お前が過ごした漂泊の日々に、何も残っていないと思ったら間違いだ。お前がそこから完全に切り離されることはない。お前は何も求めず生きようと思っているかもしれないが、そんなことはできない。そして、何も求められずに生きることもできない。今でさえお前はこの世界に属し、この街に属し、この店に属している。そして、今俺の話を聞いているお前は、俺にも属している。あそこにいる女の視界に属している。足元のゴキブリの意識にも属しているかもしれない」
私は驚いて足を上げた。そんな私を見て男は笑った。そこには何もいなかった。
「三千円でいいよ」
私の隣に来た若い女がそう言った。私は「金がないんだ」と言った。
「保証人はいるの?」
何のことか分からなかったので私は黙っていた。すると女は突然私の腕を掴み、引っ張り起こした。
「帰りな」
「帰り方がわからないんだ」
困惑する私を急き立て、女は私を店の入り口の方へ連れていった。後ろで男がハーモニカを吹いているのが聞こえた。そして背中を押し出され、どうしたもんかと振り返ると、そこは私が借りた旅館の部屋だった。私はもう一度押入れを開けようとしたが、閊えているようで開かなかった。どうでもいいことだったが、私は、酒代を払っていないなと思った。
外で待つじいさんのところへ戻って「断ってきたよ」と言ったら「部屋の払い戻しをしてきたか」と訊かれた。私が「払い戻しは効かなかった」と言ったら、じいさんは、そんなバカなと言って、自分の金が払い戻されなかったように怒り出した。私は、金は戻らなかったかわりに部屋の権利を保留してきたということは黙っておいた。
雨がアパートのどこかへ当たる大きな音で眼が覚めた。もう朝方らしい。雨降りでは仕事に行きたくないなと思ったり、じいさんはこの雨でも仕事に行けというのかなと思ったりしながら眼を開けて寝ていた。そのうちに、じいさんが起き出した。「さあ、出よう」じいさんは、私に先にアパートを出ていって外で待っていろという。「静かに行くんだぞ」
私は、どろぼう猫のように足音を立てずに廊下を渡り、アパートの外の階段を、外はまだ暗く雨で濡れているので、来た時以上に用心をしながら下りた。階段の下の露地を挟んで反対側にも同じような古木造アパートがあった。
じいさんが傘を差して階段を下りてきた。二人でじいさんの傘のなかに入り、雨の中を歩いて行った。傘は私が差していたが、なるべくじいさんの方へ差しかけるようにし、じいさんが濡れないように気を配っていたので、私の外側の方はびっしょりになっていた。じいさんは、センターへ行くのだと言っていたが、歩いていく道は昨夜じいさんと歩いてきた道で、そのうちに昨夜じいさんと初めて会った場所へまた戻ってきただけのことである。ただひとつ驚いたことがあった。それは、この早朝に、どこの酒屋も立ち飲みの客、といっても殆ど労務者だが、で溢れていることだった。大きな一軒の酒屋の前まできたとき、じいさんが「ここは安いからな」と言って私に入るよう促した。広い店内には三十人以上もの客が立ち飲みをしていた。やはりここも殆どが労務者で、二、三人で仲間を組んで飲んでいた。なかには、コートを着た、会社勤めとわかる客もいたが、そういう人は電車に乗る前にちょっと一杯というところか、一、二杯いそいでひっかけるとそそくさと出て行った。どちらにしても、私には、これから一日が始まろうとする早朝の風景とはとても思えなかった。この店にも長いカウンターがあって、なかに店主らしい人がいて自分の近くの客に酒を注いでいた。そのほかにも女の人が三人いて一升瓶をかかえ客に酒を注いでまわっていた。カウンターの向こう隅にガラス戸棚があって、中に行く種類かの肴が皿に盛られていた。客はそのなかから自分の好みのものを選んで取り出してきた。じいさんと私も一皿づつ取ってきた。どれも五十円にしては量も多く、種類も豊富だった。どこの酒屋も客は入っていたがだいたいが小さな店だった。ここはそれらの店と違ってずっと広い店内になっていたがそれでも客が溢れているのはどうやらこの酒の肴のせいのように思えた。じいさんのようなアパート住まいや、その日その日の宿屋暮らしでは朝食もとらずに出てくる連中が多いだろうから、ここの店のこの肴はなんともありがたいことに違いない。じいさんと私はここの店で酒を二杯づつ飲み、割り勘で払ってそこを出た。そしてまた私が傘を差しかけて歩いて行った。かなり大きなコンクリートの建物の前を通ったとき私はじいさんに「ここは区役所か」と訊ねた。
「区役所?何でこれが区役所なんや。これは西成警察署やないか。西成でいちばん怖いとこや。とっ捕まってここへひっぱられてこられたら撲り殺されるんやぞ!お前は何も知らんやつやな。そのトシで阿呆と違うんか」と怒って言った。その怒りは、どうやら<警察>という、じいさんの側ではまったく無力でしかない存在に対してのもののようだった。じいさんの信念では、西成警察署は、こちらの道理や言い分がまったく通用しないところ、むこうの考えや都会だけでどんな行為も許されているところなのである。それも、法律的にである。だから、ここは西成でいちばん怖いところなのである。
ところで私たちは、雨のなかをやっとセンターに着いた。センター、これはいったい何なのだろう。私にはよく分からなかった。職を世話してくれるところだとじいさんが言うのだから職安ということなのだろう。センターと言うのだから、正式には<中央職業安定所>とでも言うのかも知れない。どちらにしても、たかが職安のことだから、ちっぽけな木造の建物で、朝から労務者がその建物の前に集まり、それを手配師とやらがやってきて欲しい頭数だけをトラックに載せていく、私はそれぐらいのことをここへくるまでは想像していた。
センター。現実にいま眼にしたそれは、そんな想像したものではなかった。それは、ひと口にいうと、私には大都会の中央駅みたいに思えた。それも特別大きな駅である。私は、東京やそのほかの都会の大きな駅を知っているが、そう言う駅では、朝早くから夜遅くまで大勢の人が集まってくる。この、でっかい駅みたいな建物へも、まだ朝が早いというのに大勢の人が集まってきていた。いや、群がってきていたという方が適切かも知れない。それに彼らは、本当の駅に集まってくる人たちよりも、いささかむさくるしい格好をしていた。
私たちは建物の中へ入っていった。私は何か異様な世界へ入り込んできたような気がした。大げさにいっているのではなく、この早朝に、そして雨降りだというのに、この建物のなかへなんと大勢の労務者が群がってきていることだろう。じいさんの話だと、ここへは一日五万人が集まってくるという。その数にも驚くが、こんな早朝になんだってこんな大勢が集まってくるのだろう。
二人はまず便所へ入った。じいさんの方が先に出て、私は手をよく洗ってからそのあとを追った。しかし、便所の前にじいさんの姿はなかった。私はしばらく捜してみたが、それ以上どうしようもなかった。私の手には、じいさんの傘があった。
私はセンターのなかへ入るときに、作業者を集めに来ているらしいマイクロバスが三、四台停まっているのを見ていた。それで、私は外に出て、眼にしておいたマイクロバスの一台に近づいていった。
そのマイクロバスには誰も乗っていない様子だった。私はバスの前に回ってみた。すると、フロントガラスに紙張りの看板が立てかけてあった。それには<五千五百円。十日間、食い込み>と大きく書かれ、左下に小さく<神戸市××区・信和土木>とあった。
「おっさん、どないや?」
いつ寄ってきていたのか、白いネックのセーターに革ジャンバーを着た男が、突っ立って看板をみていた私に声をかけてきた。
男は、革ジャンバーのポケットに両手を突っ込んでいた。
「食費を引かれるといくらになるの?」と私が訊いた。
「食い込みやから。食い込みで五千五百円や」
「寮はあるの?」
「ありまっせ。一部屋に三人どすけど、きれいな部屋がありまっせ」
今の私には、それで十分だった。私が頷くと、男は私にマイクロバスに乗るように言った。私がバスに乗ろうとすると「コーヒーはどうどす?」と男が言った。私は、コーヒーは飲まない主義だった。それを言うと「では、酒の方?」とまた言った。私は、何のために男がそんなことを訊くのかわからなかったので、そのまま黙って誰もいないバスのなかへ乗り込んだ。窓際に座ると、革ジャンバーの男がセンターのなかへ入って行くのが見えた。男はすぐにセンターから出てきて、こちらへ歩いてきた。男はバスのなかへ入ってくると、私にカップ酒一個と茹で玉子一個をくれた。センターに入っていったのはこれを買いに行ったのだと分かった。私はカップ酒を飲み玉子を食べながら、じいさんの言っていたことを憶いだした。十日間の契約で京都と神戸に行くのがあると言っていた。京都は寒いが神戸はガラが悪いとも言っていた。このバスは、ガラの悪い方だったが、今の私にはそんなことはどうでもよかった。それに、こうして行くところに、まさかガラのよいところがあるとも思えない。そう割り切ると、私にはむしろ寒いことの方がかなわない気がした。
突然、バスの扉が勢いよく開き、顔を真っ赤にし、長い髪をバサバサにした若い男がとびこんできた。男はふらふらしながら最後部の座席までいくとそこへ寝転がった。革ジャンバーがすぐバスを下りていった。そして私のときと同じようにカップ酒と茹で玉子を買って戻ってくると、うしろの座席の若い男の方へ持っていった。革ジャンバーの手慣れた態度からみて、若い男はこのバスの常連のように思えた。私が、ちらっと振り返ってみると、男は起きてカップ酒を飲んでいた。前に垂れた長い髪のあいだから細い眼が覗いており、それが私にはジャック・バランスに似ているように思えた。少ししてまた私が振り返った時は、もう寝転がっており、バスが動き出してからも起きる様子はなかった。そのあと、バスが神戸に着くまで、ジャック・バランスは身動きひとつする気配もなかった。
バスが動き出す直前に、五十過ぎのオーバーを着た男が乗ってきた。男は全財産をそこへ詰め込んでいるような大きな鞄を持っていた。革ジャンバーは、その男のときはちらっと視線を走らせただけでバスを下りていかなかった。私はこの男もバスの常連なのだろうと思った。
マイクロバスは三人だけを載せて走っていた。革ジャンバーは手配師兼運転手らしい。最後に乗ったオーバーの男は、何故かひどく元気がないように見えた。
バスはしばらく走ると大阪を出て神戸へ入った。いつのまにか雨はやんでいた。窓の外の景色がいいので、窓際の私は窓の外ばかり眺めていた。私の手にはまだじいさんの傘が握られていた。