だんしんぐ・くいーん
「Dancing queen」と聞くと、多くの方が"ABBA"や、ハッチポッチステーションでのグッチ裕三を連想するのではないだろうか。しかし私が連想するのは、いずれでもなく"森鷗外"である。そう、「舞姫」だ。
高校時代に鈴木先生の現代文の授業で読んだ作品だ。「いいか3年4組、大学生になって『舞姫を読んだことがありません』というのは、『高校で源氏物語を読んだことがありません』というのと同じくらい罪深いことだからな。」とおっしゃったのを覚えている。ところがほかのクラスでは扱わなかったところもあるようで、あるとき下岡先生から「君のクラスはDancing queenやるのかね?」と聞かれたのである。それ以来、私の中で「Dancing queen」は「舞姫」である。
高校3年生のとき、私はほとんど授業に出ることができなかった。しかし、鈴木先生の現代文の授業は何としてでも出たかった。入試に直結する授業かといえば、きっと違うのであろう。教養としての現代文であったように思うのだ。それが私にとって学校へ行くことの励みだった。
森鷗外は『舞姫』という作品で、「自我」という概念を初めて日本に持ち込んだ。話の内容は読んでのお楽しみ、としたいところだが、結論から言えば、主人公の豊太郎は、結局自我に目覚めながら、一方では自我を時代によって潰されていくのである。
さて、『舞姫』の単元が終わり期末テストを迎えた。鈴木先生のテストは至ってシンプルだった。
「鷗外がこの作品を通じて伝えたかったことを、各自自由に94字以内で書け。」
"94字以内"というあたりがパソコン使えない世代をあらわしていて、失笑したのを覚えている。
さあ、何を書こうかと迷っていたのだが、健先生の授業を通しても、1か所だけ不自然な箇所があった。エリスという女性を愛してしまったがために、豊太郎は官職を解かれた。それから間もなく豊太郎の母が死んだ。あまりにも唐突な死である。そこで、この点を踏まえて、次のように答案をまとめた。
『舞姫』の中で一か所腑に落ちないところがある。それは豊太郎の免職に対して、母の死があまりに唐突な点である。これについて私は、母が豊太郎の醜態を恥じ、自殺したのだと解釈した。これや顛末をふまえると、鷗外は国体に対する窮屈さを、声を荒げて訴えたかったのだと考える。
満点答案だった。
いや、なにも私の読解力や表現力がすごいだろう、えっへん、というつもりは毛頭ない。ただ、テストの最中に母の自殺に気付けた自分に今なお驚いているというのが正直なところだ。それは間違いなく鈴木先生の"読み方の指導"のおかげである。
それからたくさんの本を読んできた。五木寛之や城山三郎という好きな作家もできたし、大学時代に夏目漱石の本を読破するという経験もできた。それこそ、鈴木先生の「教養現代文」の影響であろう。
石炭をばはや積み果てつ。
小説を読む際には、時折『Dancing queen』の冒頭のこの一節が、脳裏をよぎるのである。
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