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「福岡筑豊生まれ・NY育ち、ササオルーフ ゆーくす」

 一人の力では
 どうにもならないことばかり
 しかし
 だれか一人がはじめなければ
 どうにもならないことばかり
 福島正伸

いつも2人で映画を観に行く友人Kazuが、珍しく「隊長、もう一人連れてっていいですか?」って紹介されたのが、今回のvoicyラジオのゲスト、ゆーくす(ささお ゆうき)。惜しくも今年7/29で閉館となった岩波ホールで3人で映画「歩いて見た世界 ブルース・チャトウィンの足跡」を見てランチした。ゆーくすというニックネームは大学時代にラクロスをやっていて「ゆーくスター」から「ゆーくす」になったらしい。ちなみに3歳〜小学校低学年は水泳、高学年はバスケ、中学はソフトボール、高校は弓道で、大学ラクロス、社会人ではタヒチアンダンスとフラと、彼女は、ずっとスポーツが大好きだ。

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ランチで、ゆーくすから「筑豊生まれ」と聞いた瞬間、俺が中学から高校時代、夢中で読んでいた五木寛之(著)「青春の門(筑豊編)」を思い出して話が弾み、スコットランドに留学してから南米、オセアニア、ヨーロッパと海外生活の長かった妻と同じ雰囲気を感じてラジオ対談を依頼した。「妻と同じ雰囲気」を一言で表現すると、「型にはまらない自由な感じ」。それは、文化・習慣の違う異国の厳しい環境の中で、自ら人生を切り拓いてきた人だけが放つ特有のオーラみたいなものなんだと思う。キラキラと目が輝いていた。

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ゆーくすは現在28歳の米国公認会計士。出会って半年で結婚した17歳年上のアメリカ人の旦那さんと2人で日本で暮らしている。今やっている事は2つ。一つは人材育成とコンサルティング。もう一つはUpstate NYで留学生・移民向けのアパートを運営中だ。18歳でアメリカに留学し、つい最近までニューヨーク州で暮らしていたのだ。今回収録した1回10分、全7回のvoicyラジオ対談、フォローして聴いてほしい

かつて炭鉱で栄えた福岡県筑豊地区に生まれた。母方は300年続く家系図の残る家。子どもの時に憶えているのは田川市民プールの売店でおやつを渡してくれたオジサンの小指がなかったこと。九州でも方言は違って、博多では「好いと~よ」が熊本に近い筑豊では「好きばい!」になる。幼少期の写真を見ると、鶏を素手で捕まえているものもあり、お爺さんから「タマゴとってきて」と言われたこと、田んぼの端を手植えしたり、ブドウや梨の袋掛け・・・それら家のお手伝いが全てが楽しかったこと。

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中学は警察が巡回するような荒れた学校で、そこから3,4人だけが進学校の高校へ行けた。ゆーくすは、その1人。その高校の制服は120年変わらずスカートは膝下15cmという保守的で厳しい学校。理数科の選抜クラスで勉強と部活(弓道部)に明け暮れた日々を過ごした。

親を安心させるため、また、それ以上追求されないように高校入学時から「九州大学・薬学部に行く」と言っていたが、本当は心理学を専攻したかった。大学を卒業して医者や精神科医になるよりも、カウンセリングをしたかったからだ。高3の6月、指定校推薦枠で2、3校、米カリフォルニアの大学から生徒の募集があるのを知りアメリカ留学を決意。父親に留学の相談した時、新聞を読みながら、うわの空で聞いていた父親が生返事で「いいよ」。経済的に留学できる状態ではなかったが、母親が県立病院を辞めて入った退職金を娘の留学費用に充てた。当初、退職金は母親自身が大学に行くために使う予定だったらしい。親ってそういうものだ。自分よりも子を優先する。

ゆーくすは、センター試験も申し込みをせずに退路を断ち、身一つで新天地に飛び込んだ。アメリカの留学先は、カリフォルニアではなく、ニューヨークで2年制のコミュニティカレッジに入学した。学費も安く難易度も低めだったからだ。英語のできなかった彼女は携帯もPCも全ての設定を英語に切り替え、日本人とも接触を断って猛勉強をした。「こうと決めたらやり遂げるまでやる」ゆーくすには気力、胆力がある。

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英語漬けの生活をして3年目、日本の小説を読んだら、アタマに花火が舞ったように感じた。日本語が見せる華やかで美しい情景に初めて気が付きアタマがスパークしたのだ。日本語の多様性、日本人の感受性の豊かさに驚いた。英語が白黒の世界なら、日本語はカラフルな世界だと感じたのだ。言葉っておもしろい。「日本は四季が凄いと言われているが、凄いのは日本人の感性なんだ」。

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ストイックになって英語のシャワーを浴びアウトプットを続けると英語力は飛躍的に伸びた。教会に通ううちに後に「アメリカの母」と呼ぶようになる素敵な人と出会えた。家具付き、インターネット付きと表記されていたのに何もついていない。悪質なアパートオーナーとのトラブルがきっかけでホームレスになりかけた時、「アメリカの母」は1ヵ月間ソファーを貸してくれた。この件を学校に相談すると、学生の足元を見るようなアパートオーナーは学校との契約を切られ所有権をなくした。抗議したくてもできなかった言葉の壁・・・弱い立場の目線で「今、できること」を考え実践した。この辛くも人の親切に触れた経験が今のNYアパート運営に繋がったのだ。「困った時に自分が親切にしてもらったから、誰かにも親切に」。

4年制大学に入ると、8000〜9000人いる学生の中で日本人は2人。心理学を専攻しても専門職と見られずビザがもらえない。会計士ならもらえると判断し、会計学部会計学科を選択した。ニューヨーク州の中でも裕福な家庭から来た学生が多く殺伐としていた。英語に戸惑っていると、「英語ができるようになって来て!」と言われ、「ごめんなさい」とつい謝ってしまう。一番驚いたのは自分が思っていた以上に、日本の存在感がないことだった。まず「中国人?」と聞かれ、「No」というと「韓国人?」と聞かれ、「No」と言うと「どこから来たの?」と言われる始末。後に会計監査の仕事でいくつもの空港を訪れて気づいた。古い空港は日本語の表記もあるが、新しい空港は日本語ではなく中国語表記になっていた。時代は動いている。

2年制カレッジではアパート暮らしだったが、4年制大学になると寮になりコストが高くなった。シャワーも食堂も共同で節約できなかったから一日一食プランを選択し、一学期分(3〜4ヵ月)耐えた。ところが2学期分から毎食食べられるようになった。「なぜ?」、書類選考と面接をして、高い寮費・食費も免除になる寮長になったからだ。面接では「アメリカ人対応しかできない寮長で困ったから、私が留学生対応もできる寮長になる!」と答えたらしい。ゆーくすは人生を自分で切り拓く人、結果を出せる人。「自分がやらねば誰がやる」。

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全く遊ばない勉強漬けの日々が功を奏してNYマンハッタンで世界で一二を争う大きな会計事務所に就職した。受かったのは英語と日本語の両方ができる人が少なかったからだ。両親はじめ地元のみんなに反対されたアメリカ留学だったが、ニューヨークシティの会計士となったことで、ようやく家族や親戚、周りから認められた。NYマンハッタンで1年半過ごして、キャリアアップするためオレゴンにあるライバル会社に転職した。

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ゆーくすは2年前、26歳の時、腰痛で担当医になったのが今のアメリカ人のご主人だ。鍼灸師で中国医療の先生の旦那さんに漢方を処方された。医師と患者の関係だから、最初の会話が「便のお通じは?」「最近の性欲は?」笑。

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ふと立ち止まって考えた。社会的地位は得られたが、大きな会計事務所は意外と給与が安い。おまけに喜ぶのは裕福な株主だけ。「自分の能力や時間をそこに使うのはどうなんだろう?」と疑問を持つようになった。それから、「インドのお寺に入りたい」と考えるようになった彼女は経験のある旦那さんに相談した。インドの話は聞けぬまま、雑談していたら結婚することになったという。その頃のゆーくすは鬱が続いていて、全てをぶちまけたら旦那さんは全てを受け入れ、「それでも、あなたがいい」。

インドに行く前に日本に一時帰国していたら、コロナになって行けなくなった。アルバイトをしようと考えてた矢先、転職サイトから声がかかり、フルタイムでソーシャルカンパニーの仕事をすることになった。

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25歳の時、NY州でアパートをキャッシュで購入した怖いもの知らずのゆーくす。そのアパートを今も運営している。これからもう2、3棟増やしたいと考えている。また、地方の貧困の連鎖にSTOPをかけるため、日本に住みたい外国人に筑豊に住んでもらって、筑豊の人には町を出ずに異文化体験をしてもらうことも視野に入れている。別で稼いで新たな価値提供をするのか、新たなビジネスを始めるのか今はわからないが、「5年後には3拠点生活をしていたい」と語った最終回の7回目。

筑豊、NY、そして〇〇〇。新しく描いた人生の地図が、30代、40代・・・どう変化してくのか、ゆーくす、また話を聞かせてほしい。

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 この国以外の、風の中に立ちなさい。
 世界を自分の目で見ることからはじめなさい。
 そこには君がインターネットやテレビで見たものとは
 まったく違う世界がある。
 目で見たすべてをどんどん身体の中に入れなさい。
 そこに生きる人が何を食べ、何を見つめ、何を喜び、
 何のために汗をかき、なぜ泣いているのか見なさい。
 ともに食べ、ともに笑い泣きなさい。
 それだけで十分だ。
 『伊集院静の流儀』より



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