「ずっと求め続けた居場所は、自分のすぐそばにあった 小林渡」
「人生そのものが編集だ」と言った編集者の友人がいた。(有)AISA(アイザ)社長のワタルさん(小林渡)は敏腕編集者だ。彼が編集を担当した本が2017年、伊藤檀「自分を開く技術」でサッカー本大賞優秀作品賞・読者賞を受賞している。
以前、ゲスト出演した友人、Yoshi(門内良彦)からラジオ収録中に彼を紹介された。
ワタルさんが専修大学の学生だった19歳から、一回り年上のYoshiの人生と交差する2人の30年にわたる濃密な関係を聞けた。Yoshiを知ってるだけに、ワタルさんの話に惹き込まれた。Yoshiが所属するバンド「P.W.R」3年ぶりのライブ打ち上げでワタルさんと会えた。その翌月、タイミング良く収録できた。だから、より開かれた対話ができたと思う。
偶然にも、先週放送したフリーランスのライターふくちゃん(福元 政隆)に続いて2週連続の48歳。ライターと編集者、このvoicyラジオがきっかけで繋がったら嬉しいな。2人共、超就職氷河期と言われた団塊ジュニア世代なのだ。連続放送1,062回目から1回10分、全10回のvoicyラジオ対談、フォローして聴いてほしい。
ワタルさんは、長野県箕輪町生まれ。今、身長185cmの彼は、意外にも幼少期は足も遅く、球技全般苦手で、スポーツや何かの分野で秀でる才能が見つからず、自分の居場所のない暗い少年だったという。絵も好きで描いていたが、模写や写生はできても、何も見ないでスラスラとキン肉マンやガンダムなどを描ける友達に引け目を感じていた。
小6の時、ベートーヴェンの第九(交響曲第9番)を器楽演奏したとき、担任の先生から本物のオーケストラのテープを借りて感動した。それがきっかけとなって中学から吹奏楽部に入部した。父親がラッパを吹いていた影響もあってトランペットを選んだ。中3の時、部長に立候補するくらい夢中になり、自分の居場所が見つかったように感じた。副部長になり地区大会を経て県大会まで行けたことが、頑張れば目標を達成できる成功体験となった。
「どうするの?高校?」と親から聞かれた時、アナウンサー志望でなかったにも関わらず、本屋さんでたまたま「アナウンサーになるための本」を読んで、漠然と「みんな良い大学を卒業しているんだな」と思った途端スイッチが入り、一気に猛勉強を始め県内トップの高校に入学した。伊那北高校は進学校というだけでなく、吹奏楽部も強かった。ワタルさんは入学して驚いた。「みんな、想像以上に頭がいい!」。
そして、調子の良い時と悪い時の極端な自分のADHDっぽさが、音楽をやるには致命的だと知った。それでも吹奏楽部顧問の先生や知識もスキルも圧倒的に優れている先輩たちに揉まれ、そのヒエラルキーの中で身に着けたことが、独立した時に役立った。
私立の文系を探し、明治大学に行きたかったが桜散って専修大学に合格。本人は行くかどうか迷っていたが、両親も担任の先生も完全にお祝いムードで浪人できなかった。「田舎の長野県から一度は出てみたい」という気持ちもあって上京。ところが入学式にも新入生歓迎会に行っても家に帰っても1人。どこにも自分の居場所を感じられなかった。
ある日、先輩から声をかけられた。
「楽器、やってみないか?」
「尺八吹けます!」
そのまま飲み会に連れていかれて3日酔い。
4日目に部室に行くと
「来たんだぁ、もう来ないかと思ったよ」
自分の居場所が見つかった。
専修大学の和楽器サークル「三曲研究会」の部員は70人もいた。2年生の時、定期演奏会が25周年を迎えるにあたってプロに頼む「委嘱」を小林純さんに依頼すると、もう一人現場に現れた。それが、Yoshiこと門内良彦との出会いだった。感動の定期演奏会までの道程はYoshiの放送でも聞いたが、逆の立場で教えられる側のワタルさんから見た世界は、また違って面白かった。大学2年生19歳のワタルさんが初めてYoshiと会った時の部員たちの緊張感が目に浮かんで大笑いした。
「どうする?これで本番できるの?」って状態から、2人のプロと、2人の通訳者の立場になったワタルさんと3人でリードし、部員たちの個人の練習から2回の合宿を経てリハーサル、そして本番。ダメダメな状態から本番で見事に演奏をやり切った時、舞台袖で感動して泣いているYoshiとワタルさんたち部員の姿が見えた気がした。ここからワタルさんとYoshiの30年の付き合いが始まるのだ。お互い運命的な出会いと思えることが、どれだけあるかが人生の醍醐味だ。
団塊ジュニア世代の超就職氷河期の中でゼミの先生も先輩も頼りにできない中、孤軍奮闘するワタルさん。好きな音楽か酒か悩んで酒類業界に絞ってハガキを出しまくった。ビール、ウイスキー、日本酒・・・当時、音楽業界は狭き門だったからだ。先輩のツテもあり、「日本盛」に就職するも、武道館での卒業式になっても配属先を知らされなかった。彼から電話をすると、
「大阪だね・・・」
「えぇーーーーー」
東京に配属だと思っていたのに、大阪に赴任先が決まった。営業担当地域が豪快な「岸和田だんじり祭り」で有名な岸和田市などの泉州エリア。親子三代「だんじり」みたいな世界で話が通じない。東京はルールで動くが大阪では通用しない。人との付き合いなど全てが旧態依然とした根回しの世界が今の時代にも自分にも合わないと悩んでいた彼は、専大の三曲研究会の先輩や同級生、時々Yoshiも加わって飲んで発散する日々。4年経って「やっぱり音楽業界に行くべきだったのかも」そう思った彼はYoshiに相談した。
「プレイヤーは、無いな。おまえの能力はそこじゃない」。この的確なYoshiのアドバイスに俺はシビレた。信頼関係ができていないと、この言葉は出ない。Yoshiはプレイヤーとしての才能うんぬんより、「よりワタルさんの人生が輝く選択」を意識したんだと思う。Yoshiのコネで楽譜・教則本など音楽関係の出版社「ドレミ楽譜」に転職が決まって「日本盛」を退職した。
「ドレミ楽譜」でアルバイトから社員の道を模索していると、
「大学の時、独立するって言ってなかったか?サラリーマン辞めて、またサラリーマンやるの?俺たちのマネージャーやらないか?」とYoshi。
小林純さん、Yoshiのユニットバンド「OASIS」のライブやったり、CDつくったり、ライブ会場までのドライバーと一人何役もこなした。彼らに心寄り添うマネージャーはワタルさんしかできないと思った。「OASIS」の日本全国ツアーだけでなく、海外ライブもやったり、東南アジアからアーティストを招聘したりもした。
「ドレミ楽譜」でバイトをやりながら、2000年〜2006年まで「毎日が文化祭」のような日々。それは忙しくて、楽しくて、収支が合わず、将来の展望がない生活だった。スケジュールはビッシリ埋まっていたのに将来のビジョンがなかったのだ。
その間、2004年にワタルさんは30歳になった。「30歳になるまでには独立したい」そう思っていた彼は2004年に(有)AISA(アイザ)を創業した。夢の舞台だったスペースを借りて会社の創業パーティー兼「OASIS」ライブをして100人弱を集めた。
紆余曲折の末、運命共同体だったバンドメンバーたちが空中分解したことで音楽から離れ、出版業界へシフトした。楽器の習得から、作り方、やり方、理解の仕方をゴルフ、料理、乗馬、園芸、登山などジャンルを超えて扱う「趣味実用の本」を作るようになった。
2009年、Yoshiが心の師と慕うギタリストの石川鷹彦氏のNHK番組のテキストづくりで再びYoshiとワタルさんの接点が生まれた。Yoshiと一緒に本づくりの仕事をする中でYoshiと石川氏の関係、Yoshiが生まれ変わっていく姿を、ワタルさん目線で聞けたのが良かった。番組の収録に実際に立ち会うことで、「動画をどう見せるか」を学べたことが、今の映像をつくる仕事にも繋がっている。
ワタルさんも創業から10年経ってよく言われる「フリーランス、40歳の壁」を感じた。どうして40歳から仕事が減るのか・・・周りがみんな年下になり年下は年上を使いにくくなるからだ。「自分のスキルが求められていないのか?」。こういう迷走期間によくあることだが、仕事にならない仕事を取ってきてしまう・・・負の連鎖。そこから、自分を、会社をどう立て直したのか?
毎月末のルーチンとして銀行で振り込みを済ませたあと、府中の大國魂神社へお礼のお参りに行くのを続け生活スタイルを確立したことで経営が安定してきた。俺も22年経営した会社を手放したから肌感覚でわかる。心が取り散らかっていると正しい判断ができなくなる。だから、心の安定は経営に如実に現れるのだ。ワタルさんは心の中を整理して優先順位を決める余裕ができたんだと思う。
そこで彼は「自分の持っているものを周りに貢献するために使おう!」と考え、新年の誓いに「地元、府中市のために仕事をする!」と書いたら、すぐに効果があった。地域の課題解決や個別相談をしている府中市NPO市民活動センターで編集・デザインの専門家アドバイザーとして登録してくれないかと打診され、「僕で良ければ・・・」と引き受けた。
ラジオ収録では、ここまで話せなかったが、彼のTwitterに、こんな夢が書いてあった。
夢は「府中市で都市緑化フェアを開催する」こと。
まず、半径5m以内の人を幸せにすること。物事を複数視点で見ること。そんな大切なことを教わった収録になった。酸いも甘いも、あらゆる経験をしてお互い丸くなった絶妙のタイミングで話せたと思う。
人との繋がりなしに元気に生きられないと実感できた放送だった。
ワタルさん、次回はYoshiと3人で呑みましょう!
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