夜話 『神様が眠る時間』
一週間のうちで一番やる気が出ない、木曜日。
読みかけのミステリを開いてみたものの、文章がさっぱり頭に入ってこなくて、さっきから同じページを何度も読み返している。向かいの水鳥はヘッドホンで両耳を塞いで、開いたノートの上に突っ伏していた。ヘッドホンを片っぽ持ち上げると、JUSTICEのStressが大音量で流れていた。
「この曲でよく寝れるな」
「えげつない低音聞いてると眠くならない?」
「わかるけど悪夢見そう」
私と水鳥はたいていの木曜がそうであるように、大学の図書館脇のカフェ『ラグーン』のウッドデッキで暇を持て余していた。みたま市でのたまり場は水鳥のバイト先である喫茶アボカドだけど、大学でのたまり場はたいていここだ。机の上にはいちおうゼミの資料も広げてあるけど、昨日発表が終わったばかりでやる気なんてなく、広げてから一度も触っていない。
水曜の午前に民俗学のゼミが終わって、午後はそのお疲れ会、夜は私の家に集まって飲むというのが、水曜のだいたいの流れだ。昨日も遅い時間まで飲んでいたせいで、頭がまだ重い。そういうわけで、この体たらくだった。それを見越して、木曜はあまり授業を詰め込んでないんだけど。
でもあんまり退屈だと何かをしたくなる。神様も退屈だけは我慢できないとか、そういう言葉があったっけ。
水鳥も同じように考えていたらしく、ヘッドホンをずらしてこっちを見上げてきた。
「朱音、なんか面白いネタない?」
「こないだの死体探しみたいな?」
「そうそう、あんなの。あれ楽しかったよね」
先月、波流の『夜歩き』がきっかけで、死体が埋められた場所を探したことがあった。埋まっていたのは死体ではなかったけど、みんなで場所を調べたり犯人と思しき人を尾行したりと、なかなか楽しかった。
「あれってどうやって解決したんだっけ」
「小夜が大学で噂を聞いてきたんじゃなかったっけ。地蔵に追われてるやつがいるって」
「そうだった。やっぱ小夜、持ってんな」
小夜は怖い話が嫌いだけど、怖い話をしている場に偶然居合わせるという、ちょっと得難い才能を持っている。怖い話が好きすぎて集め回っている私たちからすれば、羨ましい才能だ。
「また何か拾ってきてくんないかな」
とか噂をしていると、小夜がトレイに珈琲とシナモンロールを乗せて歩いてきた。タイミングを伺っていたみたいな完璧な登場だ。
「あー、疲れた」
小夜の第一声はだいたいこれだ。ゆとりある私たちの時間割と違って、小夜の時間割はどの曜日もギチギチに授業が詰め込まれている。
「ねえ小夜、何か怖いネタない?」
「そんなの、私が持ってるはずないじゃない」
小夜は自分の特性をあんまり理解していない。脳みそが理解を拒否しているのかもしれない。「持ってるわけない」じゃなく「持ってるはずない」という言い回しに、それがにじみ出ている気がする。
「あ、でも待って」
小夜がキチンと畳んだ上着を椅子の背もたれにかけた姿勢で一時停止した。
「怖い話じゃなくて、おまじないの話なら聞いたわ。それでいい?」
「あるじゃん!」
水鳥ががばっと体を起こす。私も怪異蒐集用のノートを取り出した。
「ほら、県道から朱音の家のほうに曲がるとこ、田んぼが広がり始めるとこに、でっかい丘があるじゃない。麓に石の鳥居があるやつ」
「うん、ある」
確かにある。全体が木で覆われた鬱蒼とした丘で、麓に鳥居があって、その先には石段が伸びている。確か、上には小さな神社があったはずだ。前に行ったことがあるけど、そんなに面白い場所でもない。
「その神社に埋めたら、願いごとが叶うんだって」
「埋めるって何を」
「さあ? 願い事に関するものじゃないの」
「埋めるだけ? おまじないにしてはわりと楽だね」
「あと何だっけ、変なこと言ってたな……」
小夜が記憶を巻き戻すようにくるくると人差し指を回転させた。やがてその指がピタッと止まる。
「そうそう、それね、神様が眠ってる時間にやらないとだめなんだって」
神様が――眠る時間?
水鳥がこっちを見て顔を傾ける。
「眠るってことは夜? あ、でも神様だよね。神様って寝るっけ?」
「さあ……ていうか、あそこの神様ってなんだっけ」
「はい、この話、以上。おしまーい」
小夜はそう言うと、頭の中から話を追い払うようにシナモンロールにかぶりついた。仕入れてきた怖い話はさっさと忘れるのが小夜のポリシーだ。
「んー、怪異蒐集に加えるにはちょっとふわっとしすぎてるなぁ。実際におまじないやってみたAさんの体験談とか欲しいんだけど」
「私に言われても」
「小夜、何か願いごとない?」
「私やんないからね!?」
「ねぇねぇ」
水鳥がテーブルをトントンと叩いて私と小夜の注意を引く。
「あの子、またこっち見てるね」
水鳥は視線だけを右手のほうに動かす。つられて顔を動かすと、ニットのカーディガンを着たおさげの女の子が、中庭のベンチに座ってこちらを見ていた。女の子は私と目が合うと、さっと顔を伏せた。
「こんだけ頻繁に見られてるってことは、朱音、時間割把握されてんな」
「朱音、昔から女の子にモテるよね。高校のときは、黒崎先輩に渡してくださいって何度手紙を受け取ったことか……」
小夜が珈琲を飲みながらボヤく。
「あれ、私を見てんのかなぁ」
「そうでしょ。一回くらいお茶でもしてあげたら?」
「いや、私には波流がいるし」
「そこは亜樹くんじゃないんかい」
水鳥に突っ込まれたところで、その亜樹が歩いてくるのが見えた。みんな舞台袖で登場のタイミングを待っているみたいだ。
「亜樹、もう授業終わり?」
「うん、帰るところ。帰りにみたまストア寄ってくけど、買う物ある? 夕食用の魚と、あと柔軟剤とごみ袋を買う予定だけど」
みたまストアというのは亜樹のホームグラウンドであるスーパーの名前だ。魚介類の品揃えに定評がある。
「えーと、ハンドソープ切れかけてたような」
「ストックがあるから、帰ったら出しとくよ。他には?」
「あっ。いかり豆。こないだ水鳥が食べ尽くした」
「ごめんて」
「わかった、買っとく。じゃあ」
亜樹はみんなに片手をあげると、ウッドデッキから降りて、中庭を行き交う生徒の中に回遊魚のように紛れていった。
「同棲中の大学生カップルっていうより、夫婦っぽい会話だな」
「亜樹くん、もともと落ち着きすぎておじいちゃんぽいとこあったけど、朱音と暮らしだしてからさらに磨きがかかった気がするわ」
水鳥と小夜がしみじみと言う。
「最近なんて私より私の爺ちゃんと過ごしてる時間が多いよ。週末も二人で釣り行ってたみたいだし。そのせいでおじいちゃん化が加速してるのかも」
「ちょっと寂しい?」
水鳥が面白がるように聞いてくる。
「寂しいっていうか、もうちょっと若さゆえの情熱っていうか勢いっていうか、そういうのがあっても……って思わなくもない、ちょっとだけ」
「でも、ああいうフラットなところが亜樹くんの魅力だしな」
「わかってるよ。私も満足してるけど、ごくたまにそういうとこ見たいなって、思うってだけで」
「ノロケかよ」
小夜が、水鳥の突っ込みに大きく頷いて、顎先を中庭のほうに向けた。
「そんなふわふわしたこと言ってると、あの子も勘違いしちゃうわよ。自分にもチャンスあるかもって」
「そんなこと言われても、私にはその気ないからさ」
そう答えながら中庭に視線を向けると、いつのまにか、女の子はいなくなっていた。
*
晩御飯はカレイの煮つけと筑前煮、お吸い物、それに菜花のおひたしだった。亜樹の作る筑前煮は私の好物で、里芋が入っていてトロっとしている。それが白米にマッチして、ついつい食べすぎてしまうのだ。
この家では、ご飯は亜樹が作る。私もたまに作るけど、からあげとか餃子とかお好み焼きとか、気合いでえいやと作る料理しか作れない。あとは豪快に肉を焼くとか。
亜樹が作るご飯は魚料理が多い。その半分は自分で釣ってきた魚だ。庭には小さな菜園があって、野菜や薬味を栽培している。料理だけでなく食材にも詳しくて、旬の食材や食材に合った料理を教えてくれる。亜樹と暮らしていると、その季節の旬である魚や野菜が自然に頭と胃袋に入ってきて、自分が季節の中を生きているということを、ふと思い出させてくれる。
夕食を終えてお風呂からあがると、亜樹はちゃぶ台で生酒を飲みながら、図書館から借りてきた民俗学の資料をめくっていた。
「お風呂あいたよ」
「うん」
亜樹が短く答える。亜樹はもともと饒舌ではない。そのせいか、亜樹といると時間が静かに流れる。余分な音が消えて、自分の心臓が普段よりゆっくりと動いているような気になる。
まるで、人の形をした夜といっしょに暮らしているような、穏やかで、少し寂しい気分になることが、たまにある。それはそれで、悪くない感情だ。
私もぐい呑みに生酒を注いで亜樹の向かいに腰掛ける。昼間の小夜の話を思い出したので、聞いてみることにした。
「ね、神様っていつ眠るのかな? ていうか、そもそも眠るもの?」
「北欧とか日本の神様は眠りそうだよね。人間的な性格が色濃いと、人間みたいに怒ったり笑ったり、眠ったりするイメージ。急にどうしたの?」
私は小夜に聞いたおまじないの話を話した。
「ふうん。それって眠るっていうか、神様に見られないようにやらなきゃいけないって意味なんじゃないかな」
「ああ、なるほど。それだとわかりやすいかも」
つまり、神様が見ていないうちに、こっそりおまじないをしなければならないということか。
「神様に見つかったらどうなるんだろ」
「願いが叶うっていう利益を考えると、相応の反動があるのかも。願いが叶わないだけじゃなくても、もっと……例えば他人を呪うような願いの場合は、その呪いが自分に降りかかったりとか。まあ、例えばの話だけど」
「なんか丑の刻参りみたい。あれってどうして自分に戻ってくるわけ?」
「もともとは見られたら効力がなくなるって言われてただけで、自分に戻ってくるってのは、陰陽道の逆凪の思想だよ。丑の刻参り自体が、陰陽道の信仰と混ざって人形を使うようになったから」
「そうなの? 藁人形に釘を打つってのは、もともとなかったの?」
「ないよ。藁人形ってのは依代だから、陰陽道の影響。ただ丑の刻に神仏に参拝すると成就するってのが本来の丑の刻参り」
そうなんだ。私の中では、あの藁人形こそが丑の刻参りだったのに。
「あれ? 参拝するってことは、神様にお願いしてるわけ? 丑の刻参りって、別に神様が見てない時間にこっそりやってるわけじゃないんだ」
「神社を使うんだったらそれじゃ意味がない気がする。願いを神様に聞いてもらいたいから神社を使うわけで」
「そう言われればそうか。じゃあ、神様に隠れてこっそりやる……みたいなおまじないって、何か聞いたことない?」
亜樹は沈黙して、テーブルに広げた手をじっと見つめた。考え事をするときの亜樹の癖だ。私が好きな、亜樹の所作のうちのひとつ。
「知らないなぁ。けど、誰かが勝手にそういう条件を付けたりするかもね」
「勝手に?」
「おまじないってさ、クリアする条件が難しいほど、叶いそうなイメージあるよね」
「わかる」
「だからおまじないが流行る過程で、誰かが勝手に条件を増やしたりすることってあると思う。より願いが叶うように、自分でハードルを上げるっていうか。そういうの、みんな無意識にやるじゃない」
「このゴミがゴミ箱に入ったら、みたいな?」
「そうそう。それが他の人に伝わって、効果ありそうだと思われたら残って、あんまり意味なさそうだって思われたら消えて……」
「そうやって新たなおまじないが生まれていくと……何か、都市伝説の伝播みたい」
「そう考えると、興味深いよね」
とすれば、『神様が眠ってる時間』という条件も、誰かがあとからくっつけたんだろうか。どういう過程でそういう条件がついたのか、ちょっと気になる。
「あの場所、なんとなく雰囲気あるし、過去にもそういう噂が流れたことあるんじゃないかな。吾妻さんに聞いたら、何か知ってるんじゃない?」
「確かに、土地の噂だったら爺ちゃんの右に出る者はいないな……。明日の朝、ランニングついでに爺ちゃんのとこに行ってみるか」
吾妻ってのは私の爺ちゃんで、爺ちゃんは市内で黒崎不動産という不動産屋を営んでいる。みたま市は小さな不動産屋がたくさんあって、爺ちゃんはそういう地場の不動産屋の取りまとめ役みたいなことをやっている。そのせいで普段は表に出ないような土地の噂が、爺ちゃんのところに集まってきたりもする。
爺ちゃんに聞けば、あの神社にまつわる情報がもっと手に入るかも。
*
翌朝は6時に起きて、いつも通り日課のランニングにでかけた。
高校の頃は剣道部で、それなりにハードに運動していたけど、大学生になってめっきり運動の時間が減った。それで何が変わるって、食事の美味しさが全然違う。せっかくの亜樹の料理を最高の状態で味わうために、日々の運動は欠かせない。
家を出て田園地帯を抜けて、海岸まで走って戻ってくるというのがいつものランニングコースだ。今日はその帰りに爺ちゃんのところに寄るつもりだったけど、途中で例の神社に寄ることにした。爺ちゃんに話を聞く前に、現地を見ておいたほうがいいと思ったのだ。
丘の下に到着して、鳥居の掠れた額束を読むと、『夜見神社』と書かれていた。子どもの頃からこの街に住んでるけど、神社の名前を初めて知った。ホラーゲームのSIRENを思い起こさせる、よい名前だ。
息を整えながら狭い石段を登る。石段はところどころ崩れかけていて歩きにくかった。両側から木が覆いかぶさっていて薄暗いけど、朝ということもあって、おどろおどろしい雰囲気はない。夜に来たら、また雰囲気が違うだろうけど。
石段は全部で九十九段あった。登りきったところに小学校の教室くらいの敷地があり、中央に古い社殿があった。右手には枯れた手水舎がある。
社殿は古くて柱や板壁はかなり黒ずんでいただけど、誰かが管理しているのか、荒れている感じはなかった。まず社殿に参拝してから、その周りをぐるっと歩いてみる。周囲は背の高い木が茂っていたが、裏に木が途切れている箇所があって、そこからみたま市の西半分が見渡せた。
右手には果てしなく田園地帯が広がっていて、水を張った水田がきらきらと輝いている。その最奥の山際に、小さな平屋が豆粒のように見えた。私の住む家、通称サイレントヒルだ。そろそろ亜樹が起きてきて、大学に持っていくおにぎりを握っている頃だろう。
左手の奥の高台には、あんまり見たくないけど私の実家が見えた。サイレントヒルはもともと爺ちゃんの所有する物件だったけど、実家が大嫌いな私は、大学に入るとすぐに爺ちゃんから強引にサイレントヒルを借りて、ひとり暮らしを始めた。亜樹と暮らすようになったのはその半年後、一年生の秋だ。
私は実家から目を逸らすと、振り返って神社を見た。おどろおどろしくもない、パワースポット的でもない、ごく普通の古神社だった。少なくとも、おまじないの舞台という感じはあまりしない。
そろそろ帰ろうと石段のほうに向かうと、白いワンピースの女の子が石段を降りていくところだった。場違いな人影にぎょっとする。ワンピースという服装も、まだ肌寒い季節には合っていない気がした。
近寄って石段を見下ろすと、小走りに降りていく後ろ姿がちゃんと見えた。よかった。幽霊じゃない、ただの人間だ。こんな神社でも来る人が来るらしい。
まさか、おまじないをしていたわけじゃないだろうな。
そう思って念のため境内をざっと見て回ったけど、何かが埋められた跡も、木に打ち付けられた藁人形もなかった。
*
神社を出た私は、黒崎不動産ではなく、喫茶アボカドに向かった。時刻は7時過ぎ。この時間だったら、爺ちゃんはアボカドにいるはずだ。
アボカドに入ると、カウンターの端っこの席に、案の定、爺ちゃんが座っていた。店内には老人ばかりが10人ほど散らばって元気に喋っている。朝のアボカドは、近所の老人のたまり場なのだ。
「いらっしゃ〜い……なんだ、朱音か」
カウンターの中の水鳥が、爺ちゃんの席の隣に水が入ったコップを置く。立ったまま一気に飲み干すと、うなじに汗が浮いた。
「朝に来るなんて珍しいじゃないか」
爺ちゃんが私の顔を見て、ぶっきらぼうに言った。
「ちょっと聞きたいことがあって」
「あ、もしかして小夜のおまじないの話?」
水鳥の言葉に、タオルで汗を拭きながら頷く。目の前には、いつの間にか珈琲が置かれていた。
「そう。爺ちゃんだったら、何か知ってるかもって」
私は小夜から聞いた話と、昨日の亜樹の話をざっと爺ちゃんに話した。話を聞き終えた爺ちゃんは、たいして面白くもなさそうに言った。
「あの神社か。確かにあそこは、昔からそんな噂がある場所だな」
「あの神社、何かあるの? そういう、願いを叶えてくれるって伝承とか」
「そんなものはない。ただ、あそこは御山と向かい合える場所だからな」
御山というのは、みたま市の北西にある三珠山のことだ。霊山と呼ばれていたり、過去に禁足地であったりして、霊系の噂の絶えない場所だ。
「表立って言えない願いでも、あの場所からならこっそり言えそうだって思えるんじゃないか」
「そんな理由? あの神社の神様は関係ないの?」
「あそこの御神体は三珠山だぞ」
「そうなの?」
「この街にある神社は多かれ少なかれ、どれも御山に結びついてるよ」
「そうなんだ。ねえ、あそこの神社でおまじないの噂が出たことってある? おまじないっていうか、呪いっていうか、例えば丑の刻参りみたいな」
「ずいぶん昔に、釘を木に打ち付ける音が聞こえる、とかあったな。実際に丑の刻参りみたいなことをやったやつもいたんじゃないか。探せば釘の穴も残ってるかもしれんぞ」
「まじで?」
「他にも、憎い相手の髪や爪を境内に埋めるとか、そういう噂が流れたこともあったな。掘り返してみたらいろいろ出るだろう」
「へえ、埋める……ね。そういうおまじないって、どうやって生まれるもんなの?」
「まじないをやる奴が勝手に作るんだよ。呪禁道、陰陽道、密教系……。それ系の本を読み漁って、できそうなやつを組み合わせてな」
「亜樹も似たようなこと言ってたな」
なんか、思ったより雑な話だ。宗教に無頓着な日本人らしいと言えなくもないけど。
「そういうのが流行る時期があるんだよ。流行って、すぐ廃れる。一過性のもんだ。次に流行るときは、まじないの形式が少し変わってる」
「へぇ……ってことは、別にあの神社に特別な力があるってわけじゃないってこと?」
「まあ、そうだな。少なくとも神社には変な謂れはない。お前、あそこを調べるつもりか」
爺ちゃんは私のほうを睨みながら言った。別に睨んでいるわけじゃないだろうけど、目つきが怖いのだ。剣道の師範をやってるときの爺ちゃんは、さらに怖くなる。
「まあ、ちょうど暇だったし」
「神社自体に何もなくても、人の願いに触れる場所には念が溜まる。念が溜まれば場所としての力を持つもんだ。いい願いばかりじゃなければ、なおさらな」
「あんまりよくない場所ってこと?」
「場合によってはそういう状態にもなる。調べるんだったら、そういう気に当てられないように気をつけろ。お前は無神経だから大丈夫だと思うが、迂闊なところもあるからな」
「孫に向かって無神経ってひどくない?」
「無神経は悪いことじゃない。無神経にしてれば、呪いは効かねえよ」
爺ちゃんは意地悪そうに言って、私の分の珈琲代を払ってくれた。
*
いったん家に帰って、シャワーで汗を流した。亜樹は先に大学に行ったようで、テーブルの上に私の分のおにぎりが置かれていた。それをリュックに入れてロードバイクで大学に向かう。
向かっている途中で、今日は小夜といっしょにお昼を食べる約束をしていたことを思い出した。
大学に着いたのはちょうど授業の間の時間で、中庭は生徒でごった返していた。小夜とは中庭で待ち合わせていたけど、右も左も人だらけで、どこにいるかわからない。しばらくキョロキョロしていると、芝生のほうで小夜が手を振っているのが見えた。
手を振り返して、ばらばらの方向に流れる人波を掻き分けながら、小夜のほうに向かう。途中、手の甲に引っかかれたような痛みが走った。 誰かのバッグのキーホルダーにでも引っかかったのだろうか。舌打ちしながら、ようやく小夜のところに到着する。
「おまたせ。どうする? このまま芝生で食べる?」
「うーん、ちょっと混んでるし、喫茶にでも……朱音、それどうしたの!?」
小夜が私を見て急に甲高い声をあげた。視線を追って自分の手を見ると、手の甲にナイフで切ったみたいな真っ直ぐな傷が走っていて、そこから流れた血が指先からぽたぽたと地面に垂れ落ちていた。
「おわあっ!?」
びっくりして小夜よりでっかい声が出る。
「たぶん、誰かのバッグか何かが引っかかったんだと思うけど……こんなんなってるって思わなかった。小夜、ティッシュ持ってない?」
「え? ティッシュ? ええと、ティッシュ、ティッシュ……は、さっき使っちゃったんだった。あ、待って、絆創膏あるはずだから! 絆創膏、絆創膏……」
小夜がバッグの中を引っ掻き回す。普段は冷静な小夜だけど、焦るとたまに高速で空回りする。トイレまで走ったほうが早いかも……と迷っていると、背後から甲高い声がした。
「大丈夫ですか!?」
振り返ると、おさげ髪の女の子が泣きそうな顔で立っていた。いつも私のことを見ている、あの女の子だ。
「あ、えーと……へーき、へーき。ちょっと切れちゃっただけだから」
女の子はぶんぶんと首を横に振ると、バッグから素早くティッシュを取り出して、私の傷口に押し当てた。
「あ、ありがと」
お礼を言うと、女の子は顔を隠すように下を向く。
「あ、あった! 絆創膏あった! ね、ちょっとティシュどけて」
小夜に言われて、女の子がティッシュをどける。小夜は傷口に、手早く2枚の絆創膏を貼り付けた。
「とりあえずこれで……。さ、ホケカン行くわよ。ちゃんと消毒してもらわなきゃ」
「えー、消毒? 大げさだな」
「だめだっつの。ちゃんとプロに診てもらわなきゃ」
「わかったよ。あ、ありがとね、助かったよ」
改めて女の子にお礼を言うと、女の子は掠れた声で「いえ」と呟いて、逃げるように走っていった。
「……すごいね。もはや親衛隊じゃん」
小夜が感心したように言う。
「なんか、お礼でもしたほうがいいかな」
「そうね、喜ぶんじゃない? あっ、ほら。ホケカン行くわよ」
「へいへい」
小夜に引っ張られて行ったホケカンは混雑していて、治療が終わった頃には午後の授業が半分くらい終わっていた。私はめんどくさくなって、残りの授業をキャンセルしてアボカドに向かった。
*
アボカドには波流がいて、私を見るなり駆け寄ってきた。カウンターにはノートと教科書が広げられている。ホケカンで待ってる間、波流とLINEのやり取りをして怪我をしたことを伝えたんだけど、アボカドで勉強をしているというので、報告がてらやってきたのだ。
波流は相変わらずあまり小学校に行っていないけど、私たちが怪談を蒐集したり分析したりする様子を見て思うところがあったらしく、自発的に勉強をする時間が増えた。大学に入って、私たちと同じように民俗学を勉強したいのだそうだ。怪異蒐集は民俗学とはちょっとずれている気もするけど、波流のモチベーションの向上に繋がるのは喜ばしいことだ。
「朱音、怪我したって?」
水鳥がカウンターの向こうでグラスを拭きながら聞いてくる。
「うん、でもまあ、大したことなかった。ちゃんと消毒してもらったし、かさぶた剥がしたりしなければそのうち治るって」
「小学生かよ」
「……気をつけてね」
波流は手の甲に巻かれた包帯を見て、まるで自分の責任みたいに意気消沈している。しゅんとしたままの波流を元気づけるため、小夜に聞いた神社のおまじないの話をしてあげた。波流は私がやっている怪異蒐集の話をしてやると喜ぶのだ。
「……ていう噂があるんだって。波流、あそこに行ったことある?」
「ううん、入ったことはない。近づくの、ちょっと怖くて……」
「怖い?」
「夜歩きのときに、神社がある丘の上に、魚がたくさん集まってるのを見たから」
「魚か……」
波流は夜の街を歩く。
でも実際に歩いているわけでなくて、歩いているのは波流の意識だけだ。そのことを私たちは『夜歩き』と呼んでいる。
そして魚というのは、波流が夜歩きのときにたまに目撃するもので、夜の空を人魂のように、淡く光りながらふわふわと泳いでいるものだ。
形はとくに決まっていなくて、赤いものもいれば、青いものもいる。それが何なのかは、波流にもわからないらしい。
ただ魚がいる場所には、何かがあることが多い。その場所に過去、事件があったり、事故があったり。もしくは何か、普通じゃないものがあったり。波流が魚を見たということは、あの場所はあまりよい場所ではないのかもしれない。爺ちゃんが言っていた『念が溜まる』という言葉を思い出した。
「あんまり行かないほうがいいと思う」
「そっか。爺ちゃんにも似たようなこと言われたし……あんまり近寄らないようにしとこうかな。波流に心配かけると、また怒られちゃうからな」
そう言うと、波流はやっと笑顔になった。
*
硬い、土の地面を掘る。
道具はなく、指先で。
尖った石で皮膚が裂け、爪が剥がれる。
血だらけになった指で、それでも掘り続ける。
掘りながら、周囲に目を走らせる。
見つかってはいけない。
絶対に。
その思いだけが、強く頭にある。
微かな物音がして、手を止める。
息を殺して、闇の中を見回す。
見つかってはいけない。
見つかってはいけない。
見つかったら――
――殺さなくちゃ。
*
自分の喉が息を呑む、笛のような音で目が覚めた。
耳元で早鐘のように心臓が鳴っている。
ここは……自分の部屋の、布団の中だ。
体を起こして、薄闇の中でまず指先を確認した。爪はちゃんとある。血も流れていない。
夢……ただの夢だ。上体を起こしたままで息を整えていると、襖が少し開いて亜樹が顔を覗かせた。
「……大丈夫? うなされてたけど」
「私、うなされてた?」
「少しだけ」
「なんか、怖い夢見ちゃって」
「水でも飲む?」
「うん。ああ、そっち行く」
布団を出て居間に行くと、ちゃぶ台に読みかけの本が伏せてあった。その横には日本酒の四合瓶と切子グラスが置かれている。
「これ、飲んでもいい?」
「いいよ」
グラスに半分くらい残っていた日本酒を一気に胃に送り込む。張り詰めていた意識が弛緩して、夢の余韻が薄れていく。それから亜樹が差し出してくれた水を飲み干すと、ようやく気分が落ち着いた。
「どんな夢を見たの?」
「んー、なんか、地面を掘る夢」
「どこを掘る夢?」
「夢だし、暗くてよくわからなかったけど……なんとなく、神社の境内だったような気がする。神社の噂のこと調べてたから、そんな夢見たのかも」
「珍しいね。怖い噂を調べるのはいつものことなのに、今日に限ってそんな夢見るなんて」
「ホントにね。昼間に怪我したせいで、気が昂ぶってたのかも」
包帯が巻かれたままの手をひらひらと振ってみせる。亜樹は「そう」と言ってから、しばらくの間、私の手をじっと見つめていた。
*
「朱音、痩せたよね?」
向かいの席から、小夜が心配そうに聞いてきた。
「そうかな?」
答えながら頬に手を当てる。特にやつれたような感じはしなかったけど、指先に触れる頬はいつもより乾いているような気がした。
昼下がりの大学喫茶・ラグーンのウッドデッキ。揃って授業が休講だったので、小夜の要望で甘いものを食べに来たんだけど、私はなんだか食欲がなくて、珈琲しかオーダーしなかった。
「痩せたっていうか、なんか疲れてる感じする。ちゃんと食べてる? 食べれるなら、これ食べな?」
水鳥がガトーショコラのお皿をこちらに寄せる。ラグーンのガトーショコラは私のフェイバリットスイーツのひとつだけど、今日は食べる気が起こらない。無言で首を振って、お皿を水鳥に戻した。
「なんか疲れが取れなくてさ、家でもあんまり食べれてないんだよね」
「やっぱり、例の夢のせいじゃん?」
「そうなのかな」
夢。
神社の境内を掘る、いやな夢。
最初にあの夢を見てから1週間、夢は毎晩続いていた。夢の内容はほとんど変わらない。神社の境内で、何かに怯えながら穴を掘る夢だ。
見始めた頃は割と楽しんでいるつもりでいたのだけど、だんだんと体調が悪くなってきた。あれから神社のことは特に調べていない。にもかかわらずあんな夢を見てしまうのは、頭のどこかで神社の噂を意識しているからだろうか。
「熱はない?」
「ないんだけど、体がやけに冷えるんだよね。パワーが落ちてるのかも……。水鳥、パワー送って」
「よしきた」
水鳥がスマホをいじる。しばらくするとLINEでなかやまきんに君のスタンプが送られてきた。思わず吹き出す。笑ったのは、ひさしぶりな気がした。
「食欲なくても、ちょっとは食べたほうがいいって。食べるもん食べないと、怪我も治らないわよ」
小夜が私の手の甲の包帯を見ながら言った。確かに、そんなに深い傷でもないのに、怪我の治りが遅い気がする。
「それ、亜樹にも言われた。頭ではわかってるんだけどさ、どうにも胃が受け付けなくて」
「そう言えば亜樹くんは? 亜樹くんも休講じゃないの?」
「みたまストアで食材買うって、帰った。いつもなら週末にまとめ買いするのに」
「朱音が食べれそうなものを作ってくれるんじゃないの?」
「そうなのかも」
「なんだかんだ、心配されてんじゃん」
水鳥が茶化すように言う。
「表面上はいつもと変わらないように見えるけど」
「足りなきゃ、あの子が心配してくれるわよ。そう言えば、今日はあの子、見ないわね」
小夜が中庭に目を向ける。つられて中庭のほうを見ると、ベンチには誰も座っていなかった。
*
目の前の地面に穴があいている。
暗くてよく見えないけど、
その穴の中に何かがいる。
闇の中で微かに蠢きながら、
赤い瞳でじっと見上げてくる。
風の音がうるさい。
いや、風の音じゃなくて、
私の喉が立てる、荒い呼吸の音だ。
呼吸はどんどん早くなって、
私の意識をさらに追い詰める。
その焦燥を振り払うように、
手の中の石をきつく握った。
見られてしまった。
見られてしまった。
見られたら……
粘ついた唾を飲む音が、
夜の神社に響き渡る。
私は大きく息を吸い込むと、
石を持った手を振りかぶった。
殺すしか、ない。
目を閉じて、穴に向かって手を振り下ろす。
同時に、穴の中の何かが掠れた声を上げた。
――にゃあ。
*
飛び起きた。文字通り、バネのように上体を跳ね起こす。起きるときに何か叫んだような気もするけど、覚えていない。跳ね飛ばされた布団は足元まで飛んでいた。胸が痛い。手を当てると、心臓がありえないほど早く動いていた。
カーテンの隙間から覗く空はぼんやりと明るい。夜明け前のようだ。そのままもう一度眠る気になれなくて、居間に出た。
居間は電気が消えていて、亜樹の部屋の襖から漏れる光もなかった。シャワーを浴びようかと思ったが、思い直して走ることにした。汗といっしょに夢の残滓を流してしまいたかった。
亜樹を起こさないようにそっと着替えて外に出る。空はどことなく黄色がかった色をしていた。朝なのに夕方みたいな、ぼんやりとした空だ。風がなくて空気が生ぬるい。いつものコースを走り始めたけど、そんなに早朝でもないのに人がいない。結局、夜見神社の前を通りかかるまで、誰ともすれ違わなかった。
神社に続く鳥居の前で足を止め、石段を見上げる。あんな夢を見るのは、やっぱりここが気になってるからだろう。呪いの話なんて聞いたから、なおさら。いったん足を踏み入れて何もないことを確認できたら、夢を見なくなるかもしれない。
そう思って石段に足をかけた。夜ならともなく、朝ならいいだろう。
神社はこないだと変わらず、静かに佇んでいた。神社の周りをぐるりと回ってみたが、特に変わったことはない。
あの夢は、やっぱりここが舞台なのだろうか。
この境内に何かを埋めた、誰かの夢。
夢の情景を思い出そうとして、やめた。この場所で想像してはいけない。そんな気がした。
帰る前にお参りしようと思って、神社の正面に回った。柏手を打って目を閉じる。昨日、亜樹が私の好きなピェンローを作ってくれたけど、少ししか食べれなかった。
昨日だけじゃない。この一週間ずっと、亜樹は私のことを気遣ってくれている。あんまり表情には出さないけど、それくらいわかる。好きな人のことだから。
今日は私がご飯でも作ろうかな。亜樹より美味しいご飯なんて作れる自信はないけど。でも感謝の気持ちを表すには、それくらいしか思いつかない。
うん、そうしよう。
決心してから目を開くと、夜になっていた。
一瞬、状況がわからなくて思考が停止する。
目の前の闇の中に、社殿がうっすらと浮かびあがって見える。見上げた空はまだ深い蒼色で、散らばった星の中心に、目玉のような月があった。
なんで?
どうして?
理由はわからないけど、ともかく。
私は、真夜中の神社に立っていた。
*
――ひゅっ。
背後から、乾いた呼吸の音が聞こえた。
振り返ると、石段の手前に白いワンピースを着た女が立っていた。うなじを冷たい手で撫でられたように、全身を寒気が走り抜ける。
垂れ下がった前髪で隠れていて女の顔は見えない。無防備にだらんと下げた両手は、泥にまみれて真っ黒だった。
生きた存在ではない。直感的にそれがわかった。
思念、生霊、もしくは、それに近いもの。
まずい、どうしよう、どうすればいい?
疑問だけがぐるぐると頭を回って、何も考えられない。その場で固まったまま、女を見つめ続けることしかできない。
女が一歩、足を踏み出した。
途端に、周囲の空気が重くなる。まるで、空中を見えない何かが飛び交っているように、空気が粘性を増した。同時に、濃密な血の匂いが鼻をつく。穢れと禁忌を纏った、粘ついた血の匂い。
この女、ここにいったい何を埋めた?
手が、武器になるものを探して無意識に動く。でも使い慣れた竹刀は手元にない。あっても、この女に通用するとは思えない。
もう一歩、女が足を踏み出した。
髪の間から、掠れた呼吸の音が聞こえてきた。いや、呼吸の音じゃない。なんて言っているかわからないけど、これはたぶん、私を呪う呪詛の声。
胸が痛い。
痛みで視界が歪む。
息ができない。
目尻に涙が浮かんで、少しでも気を抜くと、意識の糸が切れてその場に倒れてしまいそうだった。
これは……まずいかもしれない。
諦めの言葉が浮かんできて、無意識に後ずさった足が、柔らかな何かに触れた。
――にゃあ。
途端に、場を支配していた濃密な気配が霧散した。
胸の痛みが溶けるように消えて、急に呼吸が楽になる。前に目を向けると、ワンピースの女はどこにもいなかった。血の匂いも、空中を飛び交っていた何かの気配も、嘘のように消えていた。
足元を見ると、茶トラの猫が脛にすり寄っていた。猫は今しがた起きたばかりのように順番に手足を伸ばしてから、大きなあくびをした。
これ以上出ないくらい大きなため息をついて、足元に座り込む。猫は図々しく私の足の上に乗ってきて、私の顔に鼻先を近づけてきた。その顎先を撫でながら、ようやく私は理解した。
そうか。
神様が、目を覚ましたんだ。
*
ジャージのポケットには、何故か煮干しが入っていた。私はこんなもの入れた覚えはない。だとすると、亜樹だろうか。猫は、煮干しの匂いにつられて起きてきたらしい。
石段に腰掛けて猫に煮干しを与えているうちに、空の端っこが明るくなってきて、ようやく安心する。朝がこんなにありがたいと思ったのは初めてだ。
煮干しもなくなり、そろそろ帰ろうと腰を上げたとき、誰かが石段を登ってくるのが見えた。思わず身構える。でも、登ってきたのは亜樹だった。
「……亜樹?」
「なんか心配になって、探してた。夜中に出ていったみたいだからさ。ランニングには早すぎると思って」
亜樹の額には汗が浮かんでいて、呼吸もやや乱れている。なんて答えるか迷ったけど、正直に言うことにした。
「なんていうか……呼ばれた?っぽい。生霊みたいな、変なのに」
「……本気で言ってる?」
「うん、まあ。結局、大丈夫だったけど。それより亜樹、私のジャージのポケットに煮干し入れた?」
「あっ。入れたかも。こないだランニングのときに借りて、途中で猫にあげようと思ってひとつかみ」
「おかげで助かった」
「……どういうこと?」
「後で話すよ。まあ、とにかく……ありがとね」
「役に立ったならいいけど……。少し、すっきりした顔になってるね」
「そうかも。食欲もちょっとでてきたような」
「帰ったらピェンロー、温めるよ」
「うん。あ、待って」
神社のほうを振り返る。どうしても、確かめておきたいことがあった。
「もしかしたらだけど……この神社のどこかに、猫が埋まってるかも」
「猫?」
「もしかしたらだけど」
「見てみようか」
それから、亜樹と2人で神社の境内を探した。こないだから、こんなことばっかりしているような気がする。しばらく探すと、境内を雑木林の間くらいに、最近掘り起こしたような跡があった。亜樹が、手を使ってその跡を丁寧に掘り返していく。
でも、猫は埋まっていなかった。
埋まっていたのは、血のついたティッシュが入った、ビニール袋だった。
*
「えっ、それ、あの女の子が埋めたってこと?」
「証拠があるわけじゃないけど」
「じゃあ、あの子が見てたのって朱音じゃなくて……え? え? そういうこと?」
小夜が眉間に皺を寄せる。たぶん、小夜が想像している通りだろう。あの子が見てたのは私じゃなくて、亜樹だった。私を見ていたとしたら、それは、そういうことだ。
学内喫茶・ラグーンのウッドデッキ。今日は私の前にガトーショコラがある。あれから食欲も回復して、長引いていた手の怪我もあっさり治った。
「じゃあ、朱音の怪我も、もしかして……?」
「そうかもしれないけど、たまたま私が怪我をして、ティッシュが手に入ったからそんなことしようと思ったのかもしれないし。考えだしたらきりが無くて、それこそ振り回されてるみたいで嫌だから、考えるの止めた」
「えぇー、どっちにしても怖いんだけど……」
「ていうかあの子、今日もいるんですが……」
水鳥が青い顔をして視線を中庭に向ける。つられて目を向けると、いた。おさげの女の子が、ベンチに座って私をじっと見ている。今日は目を逸らしもしない。
「うわぁ……どうすりゃいいんだ……」
途方に暮れていると、女の子の肩がびくりと動いた。
「あ、亜樹くん」
小夜の声に振り返ると、亜樹がウッドデッキに入ってくるところだった。亜樹は、緊張しているような、怒っているような、あまり見ない顔をしていた。
「ん? 亜樹、どうしたの?」
その質問には答えず、亜樹は私のところまでまっすぐ歩いてきて、
いきなり、私にキスをした。
「!!!!!!!!!」
驚いて腰を浮かしかけた間抜けな姿勢のまま、体が固まった。
音が遠ざかる。もしかしてこのまま失神するのかもと思ったけど、そうじゃない。周りの人がみんな動きを止めて私たちをガン見しているのだった。そりゃそうだ。いきなり衆目環視の中でこんなことおっ始めたら、私だってガン見する。
小夜があんぐり口をあけている。
水鳥は痒みをこらえるような変な顔をしていた。
頭がぐるぐる回る。ドキドキバクバク、耳元で心臓がうるさい。たぶんこれ、キスされたままで息をしてないからだなと気づいたけど、唇は未だ塞がれたままで、息ができなかった。
恥ずかしさと苦しさで本当に失神しそうになったとき、ようやく亜樹が離れた。さすがの亜樹も、ちょっと気まずそうというか、恥ずかしそうな顔をしていた。
「じゃあ、俺、講義あるから……」
「え、あ、うん、がんばって……」
そっけない亜樹の言葉に、間抜けな返事を返す。
亜樹が歩き去ると同時に周囲の時間も動き出した。悲鳴と笑い声がごちゃまぜになった宴会のような音が私たちのテーブルを囲む。話題は聞くまでもない。残された私は、針のむしろだ。亜樹といっしょに去ればよかった。
見せもんじゃないと言って回りたかったけど、どう考えても見世物だったし、こんなタコみたいな顔でそんなこと言っても、なおさら恥ずかしいだけだ。もう、貝になるしかない。
「え? え? 何? 今の何だったの!?」
「亜樹くんすげーな! やるときゃやる男だな!」
小夜と水鳥も変なテンションになっている。私は、まだ頭がぐるぐるしていて、落ち着こうと珈琲を飲んだらむせた。もう、どうにでもなれ。
「あ、もしかして……見せつけてくれたんじゃん?」
水鳥がニヤニヤしながら言う。まだ頭が働いていないせいか、それが何のことかわかるまでたっぷり10秒かかった。
ようやく理解してからベンチに目を向けると、女の子は、もういなくなっていた。
*
それからあの女の子を見かけなくなった。
同じ大学の生徒だからその辺にいるんだろうけど、不思議と目に入らない。小夜が見たらしいけど、短く切った髪を明るく染めて、男子と腕を組んで歩いていたらしい。亜樹とはぜんぜん感じの違う、いかにも陽キャな男子だったとか。
あの子にとって亜樹への想いは、もう過去のものなのだろう。アレを神社に埋めたこともひっくるめて。思い出したりなんて、しないに違いない。
恋愛もおまじないも、一瞬で燃えあがって、過ぎれば忘れてしまう。
一過性の恋愛に、一過性のおまじない。
物事への執着が薄い、現代らしい話かもしれない。でも、過去の話を好んで蒐集している私にしてみれば、寂しいことに思える。
私が見た夢が何なのかは、わからないままだ。この街ではかつて、猫を神様とみなしていた時代があったのかもしれない。そのときに生まれた噂を、実践した誰かの記憶だったのかも。もしかして、あの神社の境内には、本当に猫が埋まっているのかもしれない。
そんなことを考えながら、大学の帰りに夜見神社に向かった。途中のみたまストアで買った、猫用のウェットフードとかつお節を持って。
神社に着いてウェットフードを開封すると、神社の床下や森の中からわらわらと猫たちが出てきて、あっという間に取り囲まれた。
「お前ら、こんなにいたのか……」
こないだ助けれくれた茶トラの猫もいるはずだけど、数が多すぎてどれかわからなかった。苦労して猫たちに平等にご飯を与える。
猫たちは餌を食べ終えると、おのおの好きな場所に転がって、盛んに毛づくろいを始めた。そのうちの一匹が、目の前でお腹をだして寝転がる。
ふわふわのお腹を指先でそっと撫でてやると、神様は目を細めて、ゴロゴロと喉を鳴らした。
案の定、神社の床下からバラバラにされた地蔵が見つかった。
地蔵は強い悪意を持って壊したように砕かれ、細かい破片になっていた。一見しただけだと地蔵の破片には見えないだろう。
こんなものが床下にあれば、魚も湧くわけだ。
魚は思念だ。そして思念が集えば形を持つ。今日のように。
そんなことは夜の片隅でいつも起こっていることだ。あいつらが「怪異」だと呼んでいるものは、この街ではごくごく日常的に起こっている。
だから放っておくつもりだったけど、間の悪いことに、ちょうど思念が集まったタイミングで、のこのこあいつがやってきた。この街の怪異を集めまわっている、あの大学生の女が。
あいつが消えるのはちょっと惜しい。こないだみたいに、使いようによっては有用なやつらだ。とは言えこの姿を見られるのは困る。
結局、近くで寝ていた猫を叩き起こして向かわせた。魚を散らすぐらいなら、普通の猫でもできる。この街に住む猫だったら。
案の定、猫のひと鳴きで思念は散った。大した思念ではなかったようだが、あんなものにも太刀打ちできないなんて、人間は弱い生き物だ。
最近の街の状態から考えると、他の場所でも地蔵が殺されているだろう。夜を泳ぐ魚の数が尋常じゃない。たぶんあちこちで、地蔵が死んでいる。
誰かが悪意を持って壊し回っているのだろうか。その可能性はあるけど、きっとそれだけではない。こういうことは前にもあった。
この街の人間は、この街の成り立ちを忘れつつあるのだろう。
この街を守っているのが何なのか。そんな大事なことまで。
だから地蔵を粗末に扱う。街を歩けば工事現場とかの片隅に、ぞんざいに扱われた地蔵をそこかしこに見かける。この状態が続けば、いずれ街のどこかに綻びが生まれるだろう。
そうなる前になんとかするのが、私に課せられた役割だ。
大学生の女は迎えに来た男といっしょに帰っていった。私もそろそろ帰らなければならない。服についた枯れ葉を念入りに落として、スニーカーのつま先を蹴って靴底に詰まった泥を落とす。
そして我が物顔で空に広がりつつある朝の気配をひと睨みしてから、石段に足を踏み出した。
(了)